第2話 サチの1日

 サチは昼前に家を出て最寄り駅から京王井の頭線に乗る。

 車内でスマホを眺めていると、全身に波しぶきが浮かぶサチの腕と脚を盗み見する、多くの視線を感じた。隣のスーツ姿の男だけではない。向かいに座る中年女性や隣の高校生など、多くの関心が自身に向いてる。それが、彼にとっての日常だった。

 渋谷駅手前の神泉で降りた。サチのスタジオは円山町のはずれに建つ雑居ビル三階にある。サチの城は待合室兼フロントと事務室、施術部屋の計三室で構成されていた。待合室には革張りのカリモクソファが二脚とよく透き通ったガラステーブルが置かれていて、飾り気のない真っ白な壁面にはポスターやステッカーの類は一つもない。ただ、所在なさげに観葉植物が一坪置かれている。フロントを抜けた先に控える事務室と施術部屋も同様、飾り気がない。この殺風景な部屋をみて、クリニックだと勘違いする人は少なくないはずだった。

 彼はそんな事務室に行くとチェアに腰を下ろして、今日の予定を再確認する。予約は二件。一件は新規の顧客、二件目はホシ。今日は兼業の引越しのアルバイトは休みだったので、随分らくな気持ちだった。サチは施術室に入った。


 客が来る前の下準備をしてゆく。まずは使い捨ての器具類に不足がないかチェックする。そして、念入りに手を洗浄してアルコール消毒も施し、使い捨てのエンボス手袋をして、寝台や枕、施術台やサチが座る丸椅子など、客が触れうる備品すべてにラップを巻いていった。

 一通りの作業を終えた頃、入り口から音がした。

 フロントに出て客を迎える。客は若い女性で、応答の様子からも幼さが感じられた。おそらくまだ二〇歳前後。彼女を事務室へ通して来店の謝意を告げると、サチは定型の挨拶から入った。

「イメージは決まっていますか?」

「あんまり。でも知り合いのとかみて、なんか動物とか植物とか。いいなって思っていて」

 サチは棚からデザイン集の一つを取り出した。自身が手書きで起こしたもので、これをプリンタで複写紙に印刷をすれば、貼った肌にその下書きが写るようになっていた。

「一から図を起こすこともできますから、あくまで参考資料としてご覧ください」

「へえ…色々あるんですね」

 ページをめくりながら嘆息をもらす女性。

 サチは動植物モチーフのデザインを最も好み、得意ともしていた。写実ではなくシンボライズすることが多く、たとえば女性がいま視線を落としている金魚の絵柄では、「遺伝子」を象徴として描いていた。

 円形の輪郭内にある二重らせん。らせんに伴って描かれる金魚たちは外側に向かうほどに大きく描かれ、左側に居座る最も巨大な土佐金魚から伸びる優美な尾びれは、そのすべての金魚たちと繋がっている。右下になでるひれの先はハート形の金魚鉢に仕上げていた。

 この女性に似合う刺青はどんな文様だろうか。そんな風に考えが膨らむのは十年弱に及ぶ習い性であり、ときには雑踏の中で肩口触れあう人にさえも向く、思考の癖になっていた。

 髪はカッパーブラウンのショートカット。形よく小ぶりな耳には銀色のフープピアスが下がっており、彼女が顔を動かす度に左右にゆれる。鼻が高い以外は特徴のないうす顔で、華奢な体つきは柳の枝のようだ。ほっそりとした印象の花が良いのでは。柳、藤、カスミ草…。

 一通り見終わったのち、彼女が気に入ったと示してゆくデザインに付箋を貼ってゆく。藤の花と猫、そして件の金魚。どれが一番かと聞くと、

「猫かな」答えてすぐに彼女は首をひねる。

「待って、やっぱわかんない。悩む」

 サチは控えめに笑いながら再び席を立って机からMacBookを持ってくると、選択した三枚の写真を画面に映した。

「ちょっとデザイン違うけど、それらに近しいものを彫ったときの写真です。参考までに」

 彼女は三枚の写真を見比べ、眉根にみぞをつくって悩む。しばらく経ったのちに彼女が選んだのは金魚だった。

 金魚を彼女用に調整しようかと提案したが、いや、この原案ままで良いと彼女。

「このデザインすてきですから」と言って改めて視線を落としている。

 パッチテストを終えてから施術室に移動し、女性にはシャツを脱いで下着一枚になってもらう。寝台に横たわらせて右肩を消毒し、デザイン画からおこした複写紙で肌に下図をのせ、いよいよ彫りへと移った。


 サチは洋彫りなので、ノミではなく電動のタトゥーマシンを使用している。当然ながら特徴の異なる両者だが、客にとって最もありがたいのは雲泥である痛みの差だった。

 輪郭線を彫る最中、痛いですかと女性に訊ねると、

「思っていたよりは。爪で引っかかれるような感じなんですね」

 この国には職人やヤクザ者を中心に、痛みへの忍耐こそを主眼として刺青を入れる文化があった。それは廃れたわけではない。だが、比較的に痛みの少ないタトゥーマシンの普及にともなって減りつつあると、浅草にて和彫り一本で活躍する同業者から聴いたことがあった。

 人々の肌を突き刺すときの苦しきうめき声に愉快を感じる、という悪趣味をサチは持たない。そして、宿願もなかった。彼は手際よく輪郭線の彫りを終えると、次は塗りとぼかしの作業に移ってゆく。

 女性は時々、わずかな痛みから声を漏らす。ん、んん、と漏れる吐息と一緒に微動する身体の中でしだいに膨らんでゆく期待の熱量にも、サチは気がつかない。彼はただ真剣な面持ちで、眼前の肌色のキャンバスにインクを落としてゆくだけだった。愉しみはなく、ただ責任だけがある。人の肌に、たやすくは消せない痕を残すことの心労、しいて言うならば、それにこそサチは喜びを覚える。

 そして完成品を観たとき。あたらしく生まれた弟妹きょうだいを認めきれずに生活の中で抵抗をみせる兄姉のように、刺青を受けとめきれず赤腫れする周囲の肌。浮かぶ遺伝美の金魚は彼女のほっそりとした肩によく映えた。女性客は自らの新しい特徴をみて嬉しそうに笑う。右肩に保護シートを巻きながら数日の注意事項を告げた。

 彼女が帰ってから後片付けを終えたのち、ふいに思い立つ。あ、そうかと納得した。

 夕方前に来店したホシへの施術。彼の背にある万事屋と言う文字と一緒に刻まれたミミズを、少しデザイン変更したいという要望だった。

――あの子、たぶん整形だったんだな。鼻。それで、そうか、あの金魚か。


 さきに渋谷駅に着いたのは夏音だった。遅れて現れた男ふたりを認めて手を振る。半年ぶり、と挨拶を交わし合い、マタニティ服姿をホシがやんわりと茶化しながら、三人は店に向かった。

「退職おめでとう」歯を見せて笑うホシ。

「ほら、これ。退職祝いのプレゼント」

 マークシティを抜けた辺りに構える、慣れたビストロだった。料理は適当にアラカルトで頼み、サチと夏音はノンアルコールビール、ホシはペリエを口にしていた。

 品を受け取った夏音はサチと視線を合わせて笑う。開けていいかと了解を取ってから包装をはがすと、中はクラシックのCDだった。『胎教 ギリシア古典・クラシック』という題名と、ギリシア彫刻のようなタッチで描かれた美しい妊婦のイラスト。そして一緒に、新潮文庫版の『ギリシャ神話 上・下巻』も添えられていた。

「…胎教はわかる。でも、なんでギリシャ神話なのかな?」

「教養って大事だぜ。胎児のうちから勉強しておけば将来改めて学ぶときにさ、やっぱり吸収が違うと思うんだよ」

 ホシはそう言って得意げに鼻を鳴らす。

「そっか。ありがたい…けど、胎教って、子どもとのコミュニケーションが主眼だから、教育効果ってのはどうなんだろうね。そういう教材とかもあるみたいだけど」

「いいや、効果あるって。胎内記憶を持って生まれた奴なんて世界中にごまんといるし、俺の友人にだっているんだぜ。ちゃんとみんな、覚えてんのよ」

 ホシは自らの腹を三度叩く。そしてぐっと親指を突き立てて声をあげて笑った。一方で、ふたりは再び視線を合わせて苦笑いを忍ばせる。

「スピってるって本当だったんだね。お酒まで飲まなくなっちゃってさ、飲めるのに飲まないだなんて勿体ない。バカのすることだよ」

 ウェイターが料理を運んできた。みなで取り分けられるカプレーゼとグリーンサラダ。それぞれにパスタとリゾットが供された。

「夏音ちゃん、それは言い過ぎでしょ」リゾットを口にしながらホシが言う。

「そういや、ふたりは明日から帰省だっけ?」

「黙って結婚と出産ってのはさすがにね。サチくんを紹介しなくちゃいけないし」

「大丈夫かねえ。化け物だと思われるぜ、おまえ」

「うん、まあ。大丈夫だよ、きっと」

 夏音はそう答えた。

 

 食事中に嘔気におそわれた夏音を気づかい、中途で切り上げて店を出た。ホシに謝りながらタクシーに乗ると、夜の渋谷の油染みた電光の中を走り抜けてゆく。サチの肩に身体を預けた夏音は口元にハンカチをあてながら窓外をみる。

 この光の中から抜けおちたような心地がする。上目遣いで恋人をみる、彼はすぐに視線が気がついて、身動きできない右手の代わりに、左手で彼女の左手を握り、慈しむように親指だけで彼女の手の甲を撫でた。

 本当はこわい。彼に抱えられるようにして辿りついたアパート。その寝室で少し横になったらば、気分が落ち着いてきた。互いに寝巻にきがえて再び寝室にはいったのち、夏音がこぼした。

 帰省のこと?

 うん、そう。こわい。

 私ね、あの町から出るために努力したんだよ。ともだちがいなくなってから、私もいつかどこかに連れ去られるんじゃないかって、ずっと不安だった。勉強がんばって、町外の進学校に通って、そこでも勉強をがんばって。すべて、町を離れるための理由をつくるため。あれからもう十年経つけど、今おとずれたら、私はあの町をどんな風に思うんだろう。

 サチは相槌だけを打つ、やがて夏音は寝息を立て始める、引きずられるようにサチも眠りについた。

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