第1話 刺青師の男

 川からあがったサチは、ぬれた体をタオルで拭いてアウトドア用のローチェアに身をあずけた。ハーフパンツの水着姿で膝を伸ばし、梅雨の晴れ間にふくまれた夏の匂いを全身で感じる。皮膚を撫でる陽光と風。ひたすらに鼓膜を震わすせせらぎ。しばらくぼうとして動悸がすっかり落ち着いたころにテントサウナへと戻った。

 かわいた熱気がサチを迎え入れる。温度は九十度ほど、中心にすえられた香花岩が発する熱に、十人ほどの男女が水着姿で蒸されていた。サチは空いていたチェアに腰を下ろした。


 二分ほどで肌の表面がかわきはじめる。じりじりと身を焦がす熱がひらく汗腺からは玉汗が浮かび、自重に耐えきれなかった粒は流れ、多くの玉汗と合流してしずくになる。その通り道には波の刺青がびっしりと彫られている。彼は葛飾北斎『神奈川沖浪浦』のあの著名な波しぶきだけを、白黒のみで全身に描いていた。それこそ、首から手足の指先にまでびっしりと。その迫力はすでに人外にちかい。その巨大な津波のうえを汗はふくらみ、流れ、そしてふたたび、ふくらむ。

 この場の全員が彼同様に刺青を入れていた。さすがに全身に入れているのはサチだけだったが、鷹やミミズなどの生物をはじめ、背を堅牢に守る威圧的な観音菩薩、昔好きだったという幼児向けアニメのコケティッシュなキャラを肩に入れている者もおり、テント内は、さながら地獄の蒸し風呂の様相を呈している。

――美子ちゃんの向日葵いいね。かっこいい。

 肌を焦がす熱が体内で鈍重な衝動に変わり始めた頃、隣で蒸されているホシが呟いた。名を呼ばれた美子は、脇腹にブラック・アンド・シャドウで彫られた向日葵を指し、躍らせるように腹を左右にゆらした。

 美子の刺青は、サチが一ヶ月ほど前に彫ったものだった。彼女が肌で育てるのは向日葵だけ。友人からの紹介でサチのスタジオに訪れた彼女は、ヒアリングが始まるとすぐ、向日葵が良い、と言った。

――なんか強そうじゃん。太陽に向かって背を伸ばしていてさ。それに、わたし夏生まれだし。


 限界がちかくなったサチはテントを出た。テントサウナの横に張られたタープでは、簡易マットの上に横たわった女性ふたりが、白樺の枝束で身をうたれている。その横を通りすぎ、サチは川へ飛びこみ沈んだ。きりりと冷えたやわらかい水が全身をつつむ。焼石に水を垂らす、じゅんじゅわっとした音が耳奥で鳴る。水がつねに流れつづけるので身をつつむ羽衣のようなベールもつくられない。ひたすらに冷たい水が一秒ごとの新鮮さで抱いてくれる。火照った身体が徐々にひえてゆく。しばらく浸る。一息の度に脊髄にまで冷えが感じられ、呼気にわずかな冷気が混じるようになった頃、岸へと戻って再びチェアに腰をおろした。

 大きく息を吐く。収縮された血管が全身に血液をはこび、動悸が激しくなる。酸素にまみれた脳内は意識がぼんやりとし始め、肉体のとばりを離れてゆるくなり、周囲にまで弛緩してゆく。鳥の鳴き声。川のせせらぎ。木の葉のさえずり。白樺の枝束が肌を打つ破裂音、サウナ室から漏れる談笑。足先がじんじんと疼きを発して、多幸感とともに快感が寄せた。


 …どのくらい惚けていたのか。気がつけばホシが隣に座っていた。手渡されたドリンクのうち、サチはまずミネラルウォーターを一気に飲んだのち、ハイネケンに口をつけた。

 ――女好きの魂を感じたよ。

 ホシが嘲るような口調で言った。帰りに運転手を務める彼は水素水を飲んでいる。


 香花岩を暖める薪には、このモバイルサウナ会の主催者であるホシが準備した百日紅が使われていた。便利屋を営むホシはその職業伝に手に入れる一風変わった木材を、以前からサウナのための薪として利用してきた。バニラや一本桜。海外では神樹のモチーフなんだよといってトネリコや白樺。近世の日本ではこれを薪にしたんだといって松の枝葉など。それが次第に、奈良の伝統ある神社の古梅、自宅で孤独死をした老人が半世紀住んだ住居の梁、首つり男の身体を支えた柿の木などに変わった。

 今回の依頼主は四十代の女性だった。便利屋という仕事柄わけありの依頼は多い。事務所で彼女の訪問を受けた際、頬にさす影からしてわけありだと思ったよ、とホシはゆきの車中で語っていた。それに美人だったしね、とホシは続ける。

 木を切って欲しいんです。え、木ですか。どんな木ですか。元夫の木。夫を埋めた墓地にある、彼のシンボルツリーです。そりゃ一体何でです、あなたの夫でしょう。ええ。彼の両親はともに大学教授で、ちょっとした資産家でもありました。そして夫自身も外資系企業で働き、私たちは比較的裕福な家庭を築けていたと思います。私には三人の子供がいます。もちろん、すべて夫との。けれども夫には四人の子供がいます。発覚している限りだと、ですが。…つまり、旦那さんには、ほかの人との子どもがいた、と。ええ、愛人との子。ずいぶん若いひと。まだ二十代だっていうんだもの、あの女。…。でも、女のことはどうでもよい。その子も。とにかく、夫が憎たらしくてしょうがありません。復讐をしたいんです。だから、切ってください。私も立ち会います。


 車中には沈黙がはしっている。一言、最悪な旦那だねと美子が毒づいていた。

 依頼を受けたホシは、墓地の管理事務所への連絡や業者の手配などを済ませた。伐採日、女性はたおれてゆく夫の死後の身体を細目で眺めながら、もう一つ依頼をしてもいい、と訴えた。ホシが隣をみると、女性は泣いていた。

「内容を聴かずに断ったよ」非難を漏らす美子をなだめてからホシは言う。

「人殺しなんかやりたくないもんね」

 反応は様々だった。関心を示さない者もいれば、ええそんな薪いやだあと零す者もいた。が、ホシの趣味にはみな慣れきっている者ばかりで、結局はその薪でサウナを愉しんでいる。

「ネイティブアメリカンには『スウェットロッジ』という儀式があって、平たく言えばもうサウナなんだよね。それは子宮回帰を意味し、胎内の蒸気には様々な精霊の気が含まれていて、参加者たちはその魂を吸って体内に入れることになる」

 さきほど、ホシはサウナ室でそうこぼした。全身から汗を垂らしながら意見を口々にしあったが、この頃にはみな、暑さと心地よさからどうでもよくなっていた。

 様々な動機でみなが刺青を入れる。多い理由の一つには「強くなりたい」という願望があったが、では実際に強くなれるのかといえば、もちろんそんなことはない。ただ「強くありたい」という誓いにはなる。そういった傾向から考えればホシの空想にそそられてもいいようにも思えるが、案外にこの集まりにはリアリストが多かった。そして、その少ない例外がサチだった。


 十七歳のときだった。

 彼は当時付きあっていた同級生の恋人とはじめてを迎えた。彼女はフットサル部らしく生傷がたえないひとで、付きあってから半年ほどのこと、親の留守を見計らって招いた自宅でのことだった。それから、ふたりは定期的にかさなった。

 彼女の身体にある生傷は一週間ごとに入れかわる。先週あったかさぶたがないかと思えば、もう新しい痣がうまれている。生傷は彼女の生命のしるしだった。彼女が日々を生き、サチ少年のいないところでも彼女だけの人生がある、そんな独立性と距離を感じさせる神秘だった。サチはそんな彼女のしるしたちを、日々うまれては去ってゆく小さな恋人たちを慈しみ、愛撫の際には必ず、やさしく唇をかさねた。

 けれども、彼が最も愛したしるしは消えてゆく彼女たちではない。彼女のみぞおちあたりにある消えない痣だった。彼女に聞くと、その痣は物心ついたときからずっとあるものだと説明してくれた。消えてゆくしるしの中で、ずっと残りつづける彼女。それこそをサチは最も愛し、彼女の乳房や性器を愛撫しながらも、その永遠の彼女にくちづけ、舐め続けてしまうことも少なくなかった。

 のち、サチは都内の私大へと進学した。恋人とはすでに別れていた。手ずからの模様を肩に入れたあと、新しい恋人は、いずれ彼の身体から去るそのワンポイントの羽根一枚を、やはり執拗に愛撫したのだった。その姿にサチは、十七歳の自分を重ねた。


 なぜなんだろう。そんな自問自答をまた数年後に繰り返す。彼の身体に肌色の部分が少なくなってきたころだった。そのときには既に、肌を重ねた女性の数も少なくない人数になっていて、かつ、誰もそのような愛撫をしなくなっていた。それからさらに数年が過ぎた。彼が恋人のあざを執拗に愛撫してから十年経っていた。

 なぜなんだろう。その問いは十七歳のときへとサチを導く。まだきれいな身体だったあの頃。自分の部屋で、窓のすきまからは夕焼けがもれている。親の帰りまでは時間がある。サチは恋人のブラウスとスカートをぬがす。彼女は恥ずかしげに俯いている、下着一枚になった彼女の、永遠のしるしに口づけを交わす…。次第に、口づけているひとが十九歳のときの恋人へと変わる。そこで口づけられているのはサチだった。若く、身体にまだ一点の刺青しかないサチ。彼女はサチの刺青を執拗に愛撫する。そこに何があるの、何を含みたいと思っているの、俺は、君は。そして、あそこで愛撫されているのが俺ならば、いま、ここで見ている俺は、だれ。


 おはよう。

 目鼻の先で夏音かおんが囁く。あたりは暗い、まだ深夜のようだ。

 眠れないの? ううん、なんか目が覚めて。そしたら、サチくんも起きて。夢をみてたの、私たち三人の。そう言って夏音は腹をさする。わたしたち同じ夢をみていたのかな。それで一緒に起きた?心苦しさを感じたサチは夏音の髪を撫で、もう、おやすみ。身体にさわるよ。

 そう言って自らも再び目を閉じる。やがてふたりは再び寝息をたて始めた。


 コーヒーの匂いで目を覚ました。ふだんとは違う豆の匂いを辿るようにリビングに出ると、夏音はソファに座っていた。しぼった音でポストクラシカルを流し、グラスに入ったトマトジュースを飲みながらスマートフォンを眺めていた。

「ずいぶん早起きだね」

 ソファ越しに背後から夏音の肩に手を乗せると、

「今日からひまだもの」と言って彼女は立った。

「歯みがいてきなよ。朝ごはんつくったげる」

 彼女のことばを受けて、洗面所に行って歯をみがいて顔を洗って髭をそる。そうしてリビングに戻ると、テーブルの上にはサンドイッチとサラダ、コーヒーが並んでいた。

「…どうしたの、これ」

「どうしたってなに。つくったんだよ?」

 チェアに座ってサンドイッチのパンをめくれば、中には輪切りトマトとサニーレタス、ハムがみえた。

「え、ありがと。料理できたんだね」

 サンドイッチを口に入れると、野菜とハムの新鮮な味がした。

「なに今さら。てか、こんな重ねて切るくらいなら誰でもできるわ。前にもつくったことあったでしょ? いや、なかったかな。まあいいや。うん、いつもありがとうございました」

 夏音はそう言って恭しく頭を下げた。肩甲骨あたりまで伸びた黒髪が目元まで垂れ、頭を上げるときにかきあげて耳にかける。

「それで、この豆は」サチはマグカップに口をつけて言う。「もしかして…背伸びしちゃった?」

「ちがうちがう」首を振る夏音。

「後輩くんからの退職祝い。ねえ、退職祝いってなんなんだろうね。単に産休なんかろくに取れないような会社だってだけなのに、なんもめでたくないのに」

「…うん。でも、妊婦にコーヒー豆ってどうなんだろうね。一杯でやめておきなよ?」

「わかってるよ」今度はサラダを口にふくむ夏音。

「天然な子なんだよね。ほら、こないだの対談原稿のデータをとばした子」

「ああ、前話してた」と納得するサチ。

「まあ、でも産休初日だからってがんばりすぎないで。ごはんはうれしいけど」

 食事をおえた二人はリビングへと移る。サチは思い出したように、そういえば、と訊ねた。

「午後の予約の一つはホシなんだけど、その後に三人で晩ごはんどうかって。退職祝い」

「ほら、また出た。退職祝い」

「で、どうする?」

「うーん、ミミズくんがお酒のまないなら」

「施術後はお酒飲めないから」早速スマートフォンを取り出して、ホシにメッセージを送る。

「それに、あいつも最近飲まないんだよね」

 既読のしるしがすぐに表示された。

「なんかスピってるんだよね。夏音も気をつけて、もしかしたら変なこと言われるかもよ」

「おっけ。そしたら反証するよ」

 夏音はそう言って歯をみせて笑った。

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