プシュケと鯨の木

もりめろん

プロローグ

 焼香のような清くかわいた香りが町にみちる。抹香だ。肌から油分を霧散させる抹香が、町からあらゆる匂いを、みなと町の生臭さすらも消している。


 鐘も鳴る。三十分に一度の打音は、定刻を告げる鐘とは反対に時間の感覚を失わせる。この鐘は何度目だ、ついさっきも鳴ったと思うがもう三十分経ったのか。本当は、この鐘はこれから鳴る鐘なのではないか。反復が、住人から時間を手放させる。


 不思議なものだ、とある住人は零す。

 この日は毎年、町中が海の底に沈んでいるように思えるんだ。


 普段ならば浜で遊ぶこともないこどもたちは砂浜にいた。

 大人たちから家を追い払われて行き場をなくしたので、仕方なしに高台の寺をのぼっておりて、参道を下ってゆき、のれんが終日出ない店々に不満をもらす。北西端の岬に建つ小学校の校庭でボールを蹴りころがせば少女たちがつまらないと嘆息を漏らし、いよいよさきをなくしたすえに、汗ばみのつづく初秋の中でさざ波に足をぬらしている。うす皮を、ぺり、ぺりり、と剥いだならば、瑞瑞しい白桃が生まれるようなふっくらとした肢体。はちきれんばかりの果肉をとどめているぬれたうす皮にも、やはり抹香がふれている。


 かつては、抹香ではなく龍涎香がつかわれていた。偶蹄目マッコウクジラ科マッコウクジラ属であるその生物は、漢字で抹香鯨と書く。腸内でまれに形成される龍涎香という名の結石は、医薬や香料として古来貴重な品として扱われており、それが抹香によく似た香りをかぐわすために彼らは抹香鯨という名を冠している。龍涎香は今日ではめったに見られないが、そんな古来の貴重品を、なんら益をうまない町の催事のために使い続けてきたのは、また獲れるさ、獲ればいいさ、という余裕にすぎなかったのだろう。


 音がふくらんだ。ふいに、最後尾の少女は音源の鐘がある高台をみた。寺がある。その寺内にはえた杉の木、千年生きたとまことしやかに語られる巨木をみる。

 さすがに少女の目には見えないが、巨木のそばには石碑が建つ。三百年の風月をこえた碑文には、力強く「南無阿弥陀仏」と刻まれていた。碑は鯨墓。沖で獲られた母鯨たちの胎内にいた胎児たちの墓だった。碑の下には百頭ちかくの胎児たちが埋められているはずで、杉の木のいやに奇妙な成育を住人たちに納得させる理屈となっていた。

 今日は、胎児たちの供養のための大法会だった。寺で経が与えられたのち、石段をくだってゆく山車が漁港から海へと出奔する。その間、白提灯に彩られた門前町では露店がにぎわす。人々は夜ふけまで酒を飲む。一年に一度の、町をあげての催事だった。


 ふたたび音がふくらんだ。ぷしゅっ、と短い間欠泉が遠海からふくらみ、止んだと思ったつぎのとき、鯨が巨躯を海面に躍らせ、空気をなでるようにヒレがやんわりとおよいだのち、姿を消した。巨大な破裂音が、海の底の空気を、すこし裂いた。

 少女は巨木から浜へと視線をもどす。先導していた男の子が手にしていた、彼らの丈よりも長い流木が砂浜に刺さっていた。友だちがいない。どこにも。からかわれたという考えに至った少女はあたりを見渡し、陸に打ち果てられた木船や車道につづく石段の影などを確認するが、姿はない。冷やあせがたれた。彼女のうしろからは、法会の準備を進めるおとなたちの音がする。

 やがて流木は波にたおれた。いくどかの往復のすえ、のまれて波にきえた。

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