【3月29日】春雪

王生らてぃ

【3月29日】春雪

 先月、ペットの犬が死んだ。わざわざペットOKのアパートを選んでまで、上京してから8年くらいは一緒にいた家族だったけど、あっけなく死んだ。病気だったのか、なんなのか。朝起きたら、いつものようにリビングの中を歩き回るでもなく、ただ倒れていた。寝ているのかと思ったら死んでいたのだ。

 心にぽっかり穴が開いたような気分だった。けど、不思議と悲しくはなかった。

 手続きや、葬儀のようなものも済ませた頃には、貯金もすっかり尽きて、わたしはまた、アルバイトより簡単な仕事に忙殺される。



「今晩、泊めてください」



 そんなある日だ。季節外れの雪がごうごう降り注ぐ夜の駅前で、春雪はるゆきと出会った。

 背格好はどう見ても中学生くらい。ベージュのコートと、厚手のストッキングを履いて、顔と手を真っ赤にしながらわたしを見上げていた。



「なんで……?」



 わたしはとっさに、そう聞き返してしまった。



「帰る場所がないんです」

「いや……きみいくつ?」

「じゅ……19歳です」

「嘘つけ」

「ほんとです」



 嘘ついてるのがバレバレだ。

 春雪はいつまでたっても、嘘が下手なのは治らなかった。



「警察行こうか。すぐそこに交番あるし。児童相談所でもいいけど……」

「や、やめてください……」

「あのね。君みたいな子をうちに連れ込んだら、誘拐だと思われても仕方ないの。わたしになにかメリットあるの?」

「ご、ごはん作ったり……」

「はぁ」



 いまにも泣き出しそうな春雪を、雪の中で放っておくことはできなかったので、お風呂を貸すだけとかそういう適当な口実をつけて、わたしは駅から歩いて10分ほどのアパートへ連れていった。



 春雪の身体は冷え切っていた。お腹も空いているようだったし、何より服が臭った。聞けば何日もお風呂に入っていなかったのだという。そんなに長い間どうしていたのかと聞くと、ずっと拾ってくれる人を探していたのだという。



「バカだなあ。親はいるうちに頼っておきなよ」



 わたしは春雪の服を洗濯機にぶち込んで、すぐにお風呂に入れた。その間にポットのお湯を沸かして、スーパーで買いだめしておいたカップ麺を用意した。

 お風呂から上がった春雪に、ぶかぶかのわたしの服を着せると、カップ麺にお湯を注いだ。食事にありつけると知った途端、ものすごく躊躇しながらちょろちょろ食べ始めた。



「美味しい……!」

「そうかなあ」



 もう何年もカップ麺が主食の生活を送っているせいで、ぜんぜんありがたみがわからない。

 食べ終えた後、わたしはコーヒーを淹れることにした。



「飲む?」

「あ、あの……お砂糖があれば……」

「あるよ」



 コップをふたつ用意して、春雪のほうにはスティックタイプの砂糖をわたした。たしか、ここで初めて春雪の名前を聞かされた。

「男の子みたいな名前だね」と言ったら、すこしむすっとしてしまった。熱々のコーヒーに必死に息を吹きかけながら、すこしずつ、すこしずつ飲む春雪はいじらしくてかわいかった。



「で、あなた、これからどうするの?」

「え……」

「悪いけど、ずっとうちに置いておくわけにはいかないよ。ひとりで暮らすのにいっぱいいっぱいだし」

「その……」

「まあ、今日は泊まってもいいから。外、すごい雪だし。明日になったら様子見て、出てよ」

「はい……ありがとうございます」



 夜遅いので、わたしはざっとシャワーを浴びた後、押し入れから夏用の布団と、厚手のコートを取り出した。



「ベッド、使っていいから」

「え……」

「わたし、ソファで寝るから、いいよ。暖房あるし」

「いっしょに寝ちゃ駄目ですか……」



 嫌だ。

 なんで知らないひとと同じベッドで寝ないといけないのだろう。気持ち悪いし、怖い。だけど、春雪は心細そうで、まだベッドに入ることもなく震えていた。



 わたしは春雪の言う通りに、同じベッドで眠ることにした。電気を消し、お互いに背を向けて眠った。

 変な感じだ。

 いま背中に、誰か、知らない女の子がいて、同じベッドで眠っているなんて。

 振り返ると、春雪はよく眠っていた。相当疲れていたのだろうか。なんと言うか、この子は警戒心がなさすぎる。家出したのか、どうなのか知らないが、よく知らない人の家で、無防備に眠れるものだ。

 ここで男の家を選ばなかったのはせめてもの本能的な危機回避ということだろうか。



 春雪の寝顔は白くてかわいらしかった。人間というより、絵本の中のキャラクター、あるいは、ペットのようだと連想した。前髪はしっとりしていて、つやがあった。最初は中学生くらいかと思ったが、もっと下かもしれない、と思った。

 寝る前に飲むコーヒーがすこし濃すぎたかもしれない。なかなか寝付けず、わたしは寝返りを打ったり、寝言を言ったりする春雪をずっと眺めて過ごした。しめった唇がやわらかそうで、ほっぺたは赤かった。

 いくら見ていても飽きなかった。

 死んだ犬のことを思い出した。いつもこんなふうに添い寝してくれた。わたしはそれからすこし泣いて、眠気覚ましにキッチンでコップ一杯の水を飲んだ。それで、家があまりにも静かなので、またちょっと泣いた。






「おはよう」



 次の日も、また雪はずっとふり続いていた。あちこちで電車が止まり、異常気象だと告げるニュースがやかましかった。朝のコーヒーを淹れていると、その香りにつられるように春雪はベッドから体を起こした。結局、一睡もできなかったけれど、頭は妙に冴えていた。



「おはようございます……」

「コーヒー飲んだら、出ていく?」



 春雪はしばらく黙っていたけれど、やがて力なく頷いた。わたしは、コップの中のコーヒーに砂糖を溶かすと、それを春雪に手渡した。ベッドにならんで腰をかけると、春雪はずいぶん小さく、細い体つきだということが、ありありと分かった。



「どうして帰りたくないの?」



 できるだけ攻撃的な口調にならないように気を遣いながら、わたしは春雪に尋ねた。



「わたしがいると、家が冷え込んじゃうから」

「なにそれ」

「わたし、望まれて産まれたわけじゃないんです。両親はいるけど、わたしの父は……わたしの、父じゃない。母の浮気相手との子なんです。でも、堕ろすお金がなかったから、仕方なく産んだって。それで、すぐ融けて、消えるように、『春雪』って名前をつけたって」



 不思議と、そういうことを話している時の春雪のほうが、落ち着いた感じに見えた。



「おばあちゃんが……わたしを引き取って、育ててくれたんです。でも、この間、おばあちゃんが亡くなって……わたしは両親のところで暮らすことになって。そしたら、顔も名前も知らない弟と妹がいて、わたしはのけもの扱いで……わたしを見ると、みんなが口を閉じるんです。父はわたしから目を逸らして、母はわたしを殴って、弟と妹はわたしを、他人を見るような目で見る。だから、あの家には居たくなくて……」

「それで、家出したの?」



 うなずいた。



「バカだなあ」

「バカって……」

「親が、子どものことをいらないなんて、言うわけない。あなたを産んでから必要なお金に比べたら、あなたを堕ろすお金なんてほんのちょっぴりのはず。なのに、あなたのお母さんはわざわざ、あなたを産んだじゃない」

「でも……」

「でも、あなたは両親のところにはいたくないんでしょ。だったら、いいよ。ここにいても」



 その時の春雪の顔ったら、忘れられない。



「いいんですか……!」

「でも、家事とか手伝ってよ。それから、学校とかどうするの」

「学校は……すごく、遠くにあるので」

「そう……じゃあ、家の中でしばらく適当に遊んでるといいわ」



 春雪はさいしょは警戒したように、コーヒーに口をつけるのも躊躇っていたが、すこしずついまの環境を心地よいと感じ始めたようだった。

 わたしも、どうせうちに置いておくなら、相手によい時間を過ごしてほしい。






 会社から出勤停止の命令が来た。

 雪がずっと降っている。もう4月になりそうなのに、あたりはすっかり雪景色だ。電車もバスも、ほとんど動いていなかった。これでは、たしかに、出勤しようにも、できそうもない。



「お風呂、掃除しました」



 春雪は率先して、家事をこなした。わたしは在宅でも出来そうなアルバイトを探しては、パソコンに向かって文字を打ち込んだり、データを入力したりを繰り返した。



「ありがとう」

「雪、止まないですね」

「そうだね」



 春雪はずいぶん落ち着いたようで、わたしに対する距離も縮んでいった。ソファに座ってコーヒーを飲んでいると、すぐに隣に腰を下ろして、わたしのパソコンを覗き込む。



「すこし、休んだらどうです?」

「そうしようかな」



 わたしは春雪のコップにもコーヒーを注ぎ、砂糖を手渡す。春雪はにこにこと、チョコレートをもらった子どものような顔で少しずつ飲み始める。



「おいしいです」

「そう……」



 わたしは時々、この子に、自分の死んだペットの犬を重ねて見てしまう。

 抱きしめたい。キスをしたい。

 でもそれはかなわない。それをしたら、春雪はきっとここにはいられないだろう。



「コンビニまで行こうか」



 わたしが立ち上がると、春雪はなにも言わなくても立ち上がって、



「一緒に行きます」

「いいよ」



 外はもう、腰の辺りまで雪が積もっていて、誰かが雪かきをしてくれたのだろう道が開いている。わたしたちは手を繋いで歩く。春雪の手は温かくて、やわらかかった。



 いつまでも雪は降り続ける。

 春雪とわたしは雪を踏みしめながら歩き、ふたつの足跡を残していく。今でもわたしは、ときどき、なんでお前は二本の脚で立って歩いているの? と、春雪に対して聞いてしまいそうになるときがある。

 でも春雪は二本の脚で立っていたって、わたしのそばにはいてくれる。

 それだけで救われたような気分になる。

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