歌
もしも時間が巻き戻せるなら、私はあなたのために歌いたかった。
成美先輩。私は悪い後輩です。
パソコン部の部室はいつも静かでホッとする。部室って言っても、技術の授業で使うパソコン室だ。機械は水と相性の悪い。そのせいで、水筒のお茶を飲むときは一旦外に出ないといけない。不便だと思うことは何度もある。でも、成美先輩の横顔が近くなるなら、どうってことない。
飲み口に触れる、成美先輩の唇。同級生のように、グロスで塗ってベトベトにしたものではない。女の私でもキスしたくなる唇だった。
私は両手を強く握る。湧き上がる衝動も抑えておかないと、先輩の唇の輪郭をなぞりたくて堪らなかった。
成美先輩は私のよこしまな感情を察知したのか、唐突に自分を凝視した。
「最上ちゃん、文化祭に出す動画で困っていることない? 先輩に何でも言ってね」
「はい! 頼りになります」
成美先輩には悪いが、先輩を頼ることは少ないと思う。先輩の真剣な表情を見ていれば邪魔できないから。声をかけるのがはばかられる。
私達は、何枚も絵を重ねてアニメーションを作っていた。
入部して最初に作ったものは、飛び跳ねるボール。それが手紙を食べる白ヤギや、夜中に動き出すおもちゃに変わっていった。ストーリーのある動画になったのは、成美先輩に教えてもらったおかげだ。
「先輩は心配症ですね。秋に引退された後、淋しくなって部室に来ないでくださいよ」
「そんなぁ。ちょこっとだけでも雑談させてよ~」
時折見せる、子どものような表情。あどけない笑みがこぼれる度、私も同じ歳だったらよかったのにと願わずにはいられなかった。
成美先輩と過ごす学校生活は、残り半年を切っている。しかも二月と三月は、受験でほとんど登校しない期間だ。今のうちに先輩の成分を補給しないと、三学期を乗り切れる気がしない。
私だって本当は、成美先輩に引退してほしくない。部室で勉強して行ってくださいという頼みを、何度も口にしかけた。そして、言わなくてもいい言葉も伝えないように、沈黙を貫いた。
先輩が卒業するまで、自分の感情に蓋をしていたかったから。普通の後輩として、成美先輩の記憶に残ってほしかったから。
せめて今この瞬間を、デジタル技術で永久保存できたらいいのに。
「そうだ! 最上ちゃん、合唱コンクールは今年も指揮者で出るんでしょう? せっかくだから最上ちゃんの歌っているところを見たいな。私だけに歌ってくれない?」
「嫌です。音楽の授業でもあるまいし。いくら先輩のお願いでも、無理です。ソプラノにもアルトにもなれない、中途半端な音しか出ないんですから」
「うちが下手さに笑うと思っているの?」
そんなことは思っていない。ただ、成美先輩に嫌われたら一生立ち直れない。
私は首を振った。
「やっぱりダメです。図書室が近いですし、廊下で騒ぐのはいけないことだと思います」
「硬いなぁ。最上ちゃんは」
成美先輩は、ぶーっと頬を膨らませた。スマホがあったら連写していた可愛さだ。生徒会長がスマホ持ち込み禁止の校則を変えてくれないかなぁ。
じゃなくて、成美先輩の無茶振りが過ぎます。もう!
「そんな可愛い仕草、男子の前に見せたらいいじゃないですか。絶対モテるのに」
「私なんて全然モテないから。それに、本命の子に効かないと意味がないもの」
何をおっしゃるのですか、成美先輩。先輩の可愛さは、世界で一番なんですよ。
私は本音を隠しながら微笑んだ。
「先輩の本命の人なら、きっと気付いてくださいますよ!」
「だといいけど」
そこまで鈍いのか。本命の人は、なんて罪深い人なの。金ならいくらでも積むから、ポジションを代わってもらえないだろうか。
私が心の中で百面相をしていると、成美先輩は溜息をついた。
「きぬっち遅いね。終わりの会が長引いたのかな。話したいことがあるのに」
まさか、顧問の鬼怒広志先生に恋されているのですか。あんなデリカシーがない奴に!
拳に力が入る。
「ねぇ、最上ちゃん。いつか気が向いたときでいいの。あなたの歌声を聴かせてね?」
「まぁ、蛍の光ぐらいなら」
卒業式ぐらい、先輩の願いを叶えてあげよう。私はそう思い、二つ返事をした。でも、卒業式に成美先輩と会うことはなかった。私が急性胃腸炎で入院したせいで。
風邪なら気合いで治せると思った。解熱剤で平熱になれば、多少無理をしてでも会いに行こうとした。だが、すさまじい激痛で起きることもままならない体には、負担が大きすぎた。現実世界では、病院を抜け出すことは不可能だった。
結局、私が退院できたのは卒業式から二週間経った後だった。がらんとした三年生の靴箱に、阿武隈成美の上履きはない。一人きりの部室に慣れていたはずなのに、先輩がいなくなった喪失感は桁違いだった。
立ちすくんでいた私に、顧問が声をかける。
「体調はいいのか? 久しぶりに学校に来たんだ。まだ万全じゃないだろう? いつもより血の気がないぞ。何だか、はんぺんみたいな顔色だな」
「放っておいてください。余計に気分が悪くなります」
鬼怒先生のデリカシーのなさは相変わらずだ。さっさと教室に上がろうと、階段へ歩き出そうとしたときだった。オレンジ色のメッセージカードが差し出される。
「阿武隈から預かっていたものだ」
最上ちゃんへ。可愛らしい文字を見つけて、私の鼓動は高鳴った。半ば奪い取るように受け取り、部室へ足を走らせる。
ここなら邪魔者はいない。そっとメッセージカードをめくった。
パソコン部が廃部にならないように頑張って!
二人きりの部室も好きだけど、いすが足りなくなるぐらい部員でいっぱいにしてみたかったな。パソコン部の伝統を、あなたに託すね。右から二番目の引き出しに、引き継ぎファイルがあるからよろしく!
「よかった……普通の後輩として見てくれていて」
怖かった。先輩に片思いしていた、キモイ後輩として認識されていたら。無事に隠し通せてよかった。
私は成美先輩の指示通り、引き出しを開けた。ファイルには、成美先輩が入力した明朝体がぎっしりと詰まっていた。私の視線は、USBメモリに向けられる。
「これって成美先輩のものなんじゃ」
手にとって見ると、裏側にふせんが貼り付けられていた。破棄していいよと綴られた文字は、メッセージカードの筆跡とよく似ている。
私の指はパソコンの起動ボタンを押していた。ためらいもなく、USBメモリを挿入する。
入っていたのはアニメーション動画だった。作成者は成美先輩で、最新更新日は卒業式の昼過ぎになっている。私が病院のベッドで泣いていた時間帯だ。
ヘッドフォンを取り出してから、再生させた。
主人公のクマが通う学校に、一匹のオオカミが転校してくる。オオカミは歌が下手で、全校生徒が校歌を歌うと目立ってしまう。クマは孤立するオオカミを助けたくて、部活に勧誘する。オオカミのぎこちない笑顔が柔らかくなっていったとき、クマは自分の気持ちに気付いていく。自分は、オオカミに恋をしていると。
「まさか、この動画は成美先輩の気持ちを表しているの?」
顔を真っ赤にさせた鬼が登場したとき、私は動画の意図を理解した。クマは成美先輩、オオカミは自分の名字を示しているのだ。
「恋愛相談をする相手が鬼怒先生って、成美先輩は見る目がなさすぎ」
私は苦笑いをしたが、鬼のセリフに固まった。
『恋の思い出がほしいだけなら、オオカミに気持ちを伝えるのをやめろ。互いに一生後悔するぞ。だけど、もしも告白したいのなら、オオカミの気持ちをよく聞いてから告白しろ』
クマは頷き、タイムリミットを決める。卒業式の日までに、オオカミの気持ちを確かめることを。
『この気持ちを一時の気の迷いだって言う人がいるかもしれない。それでも、私は最上ちゃんのことが好き。ずっと前から恋に落ちてほしかった。あのね、直接言うから逃げずに聞いてほしいことがあるの』
成美先輩が録音した声で、動画は終わった。私は涙が止まらなかった。
くだらない虚勢を張らないで、先輩のために歌っておけばよかった。成美先輩なら、音が外れても私を受け入れてくれたはずだったのに。
止まるも行くも 限りとて
互に思う 千万の
心の端を 一言に
幸くと限り 歌うなり
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