【4月19日】雨務
王生らてぃ
【4月19日】雨務
山の奥深くに位置するこの村には、電気が引かれてもWi-Fiが飛んでも、なお無くならない忌まわしい因習がいくつもある。
そのひとつが「治水」だ。
この村は山の中に突然現れた低い地に開かれていて、大雨の降る時期にはしばしば反乱した川が逆流し、水害を引き起こす。それを龍神の仕業だか何だか、昔の人がこじつけて、一年にひとり、若い娘を生贄に差し出すことになっている。
昔は七日間の禊の後に滝壺へ投げ込んでいたらしいが、現代ではややマイルドになってはいる。
村の中で選ばれた若い娘が生贄の代行者になる。三日間、栄養たっぷりの料理を食べたのちに身体を清め、特別な衣装を着せ、滝に打たせる。その後、龍神に身体を捧げたあかしとして、うなじの辺りに刺青を入れるのだ。龍の牙によって噛まれた証として、その傷を持つ者がいる限りは村に水害はおとずれないとされる。
それらの儀式を行うものは、
今年からは、孫のわたしが務めることになる。
○
「桐子ちゃん、よろしくね」
幸奈は寂しそうな、ほっそりした顔で笑った。
彼女が今年の生贄だ。
幸奈は小学校のころからの幼馴染で、この村でいちばんの友だちだった。
「幸奈が選ばれるなんて」
「あたしが余所者だからじゃないかな」
「そんな理由で……」
「いいじゃない。生贄ったって、殺されるわけじゃないんだから」
幸奈はこれから三日間、わたしの家の離れに閉じ込められるようにして過ごす。外界に触れることなく、わたしが運ぶ食事や水を口にする以外は、ひたすら離れのなかで隔離される。それが、身を清めるということなのだ。
幸奈は確かに余所者だ。小学校のころに、都会からこちらに引っ越ししてきた。だけど、たったそれだけの理由で生贄に選ばれるなんて間違っている。
幸奈の言うとおり、これは別に命をかけたものでもなんでもない。だけど、相当につらい体験にはなるし、何より首筋には一生消えない傷が残ることになる。
「それでもいいの?」
「いいの? って、別に拒否権があるわけじゃないんでしょ。村の人たちみんなで話し合って決めたって言ってたよ、違うの?」
「それは……」
そんなの嘘っぱちだ。
本当は、村のお年寄りが、せいぜい数人で集まって、宴会のついでに決めるのだ。
「ともかく、これからお世話になります」
まずは幸奈を離れに案内した。
そこはしっかりとした木造の部屋で、中には丁寧に磨かれた床と、布団。奥には水洗式のトイレと、身を清めるためという名目のシャワーが設えられている。
「へえー。けっこう快適じゃん。ホテルみたい」
幸奈はまだ気楽そうだ。
「それじゃあ、これに着替えて」
「ん……」
幸奈の服を脱がせて、専用の「衣装」である白装束に着替えさせる。
これから三日間はこれ以外の衣服を身に着けることは禁じられる。
着替えの世話、湯あみ、すべてを行わなくてはならない。だからこそ「雨務」は、代々女性が務めることになっている。
幸奈のからだは、村の同年代の女の子よりもずっと煽情的だった。
大きくて形の良い胸、引き締まったお尻、ほっそりした腰つき。背も高くて、目も大きい。まるで外国の人みたいな印象を受けた。
「下着も外さないと駄目?」
「うん。下着は着ちゃいけない決まりなの」
「ふうん……なんか、すーすーして、落ち着かない感じ」
文字通り、一糸まとわぬ姿になった幸奈を見るのは、なんだか変な感じがした。
「じゃあ、今から装束を着せます」
白装束の着付け。幼いころからなんども練習させられてきたそれを、生きている人間に施すのは初めてだった。誰に見せるわけでもないのに、妙に緊張した。幸奈の肌は間近で見るほどきめ細やかで美しくて、それに砂糖菓子みたいな甘い香りがした。
「んっ。アハハ、くすぐったいよ」
「我慢して」
「で、美味しいごはん食べさせてくれるんでしょ?」
「まだ先だよ。陽が沈んでから」
「えっ」
「日没までは、水しか飲んじゃいけないの。聞かされてなかったの?」
「それじゃあ、それまでどうすればいいの?」
「ここで待ってるしかないよ」
「ここ、テレビは? スマホとかないの?」
「そういうものは持ち込んじゃいけないの。じっと、ここで待っていて」
わたしはうろたえる幸奈を残して離れを出て、扉を閉じた。そして、しっかりとかんぬきを差し込んで、幸奈を外に出られないようにした。
その日の夜。
「幸奈、入るよ」
中に入ると、幸奈は布団に寝転がって、ぐったりとしていた。わたしの顔を見るなり、力なくよろよろと起き上がった。
「ここ、電気もないの」
「そうだよ。食事の間は、これで照らしてあげるから」
手にした燭台の光が、幸奈の力のない目を照らしていた。
「はい、食事、持って来たから。食べて」
お盆に乗せた、特別な料理。
それぞれ身体を清めるだとか、お節料理レベルのゲン担ぎの品物ばかりだ。祖母から叩きこまれたこのレシピを、人に食べさせるのはやはり初めてだった。
わたしはぐったりとしていた幸奈をなんとか抱き起すと、その料理を食べさせた。
「ん……! これは確かに美味しい」
「ほんと?」
「これ、桐子ちゃんが作ったの?」
「そうだよ。おばあちゃんから教わったの」
「すごい、おいしい、おいしい。これだけでも生贄になった甲斐があったかも」
なんて、物騒なことを言いながら、あっという間に料理を平らげてしまった。
「ごちそうさま。ありがとう」
「それじゃあ、あと二日。頑張ってね」
「うん、ありがとう」
「おやすみなさい」
○
幸奈は気丈に振る舞っていた。一日に一度の食事にも、なにもない生活にも、文句を言わずに過ごしていた。
そして、三日目の夜、食事を終えた後に幸奈はつぶやいた。
「あたし、生贄になってよかったって思ってるの」
「どうして?」
「ようやく、この村に認めてもらえる気がして」
燭台の火が揺れる。
幸奈の顔は寂しそうだけど、希望に満ちたあたたかい笑顔だった。
「小さいころに引っ越してきてから、ずっと感じてた。この村の人たちは、表向きは愛想はいいけど、裏ではあたしたちのことを認めてない。所詮、都会の人間だっていってる。いろいろ、陰口を言われたりして、本気で近付いてこようとする人はいなかった。でも、桐子ちゃんだけは違ったって、そう思ってたの」
「そうかな……」
「違うの?」
「ううん。幸奈のこと、ほんとうに友だちだって思ってるよ」
わたしは幸奈の手を取った。
「わたしのお母さんもね、そうだったの」
「どういうこと?」
「お母さんはね、都会から嫁入りしてきたの。だから、この村には絶対になじまなかった。お父さんが早くに亡くなっても、おばあちゃんは、『雨務』をお母さんには継がせようとしなかったし、ずっとお母さんにつらく当たり続けてたの。そのうちお母さんは身体を悪くして、死んでしまった。それで、孫のわたしがいきなり、おばあちゃんの後継になって……」
「そうだったんだね」
「ほんとうは、こんな古臭い、意味のない因習なんて、はやくやめてしまえばいいのにってずっと思ってる。でも、今ではこれをできるのは、わたししかいないから……もっとわたしが大人になったら、こんな……」
「意味がないわけじゃないよ」
幸奈は笑った。
「だって、あたしにも役割を与えてくれるんだもの」
「でも、それであなたは消えない傷を負うことになるんだよ」
「ふふっ。じゃあ――桐子ちゃんにも、消えない傷をつけてあげよっか」
何を言っているの、と言おうとした瞬間に、幸奈はわたしの腕を引っ張って、薄い布団の上に押し倒した。咄嗟に抵抗するわたしの四肢を抑えつけると、ほとんど額を打ち付け合うようにわたしに唇を重ねた。
生暖かいけれど、冷たいキス。初めての口づけ。
生きものみたいな舌がわたしの口の中に入って来て、わたしの舌を絡めとって、頬の裏や、歯や、歯茎を余すところなく嘗め回した。そこらじゅうから毒が回っていくように、わたしの身体は動かなくなっていった。頭がぼうっとしていた。
「やめてっ、」
「嫌だ」
じたばたと暴れるわたしたちの身体が起こす風で、燭台の火はかき消えてしまった。
幸奈はわたしの服の下に手を這わせて、肩を、鎖骨を、胸を撫でまわした。触れられたそばからわたしの身体は熱くなって、吐息が漏れた。
「桐子ちゃん、不思議な香りがする」
服が脱がされるのを感じた。
幸奈はわたしの首筋に口づけをすると、背中に指を滑らかに這わせた。それから、わたしの胸に吸い付いて、赤ん坊みたいに甘えた。
「ふぁっ、うんッ……やめ……」
それから、左の乳房の内側にちゅっと軽くキスをすると――
思いっきりそこに噛みついて、歯を立てた。
「いっ、痛ッ……!」
どん、とわたしは幸奈を突き飛ばしていた。
自分でも思いがけない力が出た。幸奈はバランスを崩してよろめき、床に置かれたままのお盆や食器が、音を立てて散らばった。
「ふふ……これで、桐子ちゃんも、あたしとおんなじ」
「なに……」
「消えない傷。ありがとう、ご飯、おいしかった」
そして、幸奈はわたしを追い出すように離れの扉を閉めた。
まだ、わたしの胸はずきずきと痛んだ。
自分の部屋に帰ってみてみると、胸の内側が深くえぐられて、だらだらと血が流れていた。
○
儀式の当日は、深い霧に包まれていた。
村中の人々が見守る中、幸奈は儀式の場所である滝に向かうと、厳かに滝壺に入っていって、その滝に打たれていた。白装束が身体に貼りついて、扇情的な肢体のシルエットが顕になっていた。だけど、幸奈の表情は真剣そのものだった。村人たちはみんな、その神秘的な様に見惚れているかのようだった。
滝壺から出てきた幸奈の、まだ冷たい身体にわたしは触れた。
装束を緩めて首筋をあらわにすると、そこに龍神の噛み跡の刺青を入れていく。これは、すぐに行わなければならない。
なんども練習したはずなのに、わたしの手は震えていた。
幸奈の身体も寒さに震えていた。
ほっそりした首筋。両手で包めば、すぐにへし折ってしまえそうなほど、か弱く、美しいものに思える。そこに針を差し込んで、特別な青緑色の墨を流し込んでいく。
血がにじむ。
幸奈の表情は、水に濡れた髪に隠れて窺い知ることはできなかった。だけど、かすかに痛みをこらえるようなうめき声が聞こえていた。儀式は数十分ほどかけて行われ、すべて彫り終わったあとは、村人たちは温かい拍手でわたしたちをたたえてくれた。
「ありがとうございました――――」
だけど、村人たちはあっという間に散っていった。
いいもの見たわ。さあ帰ろう、帰ろう。帰ってテレビでも見ながらくつろごう。
そんな言葉を、口々に呟きながら。
「お疲れ様、幸奈。終わったよ」
霧に包まれた滝壺のそば。わたしたち二人だけが残っていた。
幸奈はまだ、うなだれて、首の後ろの傷口を生々しく脈動させていた。
「帰ろう。帰って、なにか温かいものでも食べようよ」
「ごめんなさい」
幸奈の唇は震えていた。
幸奈の頬に、冷たい水が流れていた。
「ごめんなさい、桐子ちゃん……」
「……、ばかだなあ」
わたしは幸奈を後ろからそっと抱きしめた。
「友だちなんだから。許さないわけがないでしょう」
「でも……あたし、桐子ちゃんにひどいことをした」
「わたしだって、あなたにひどいことをしたんだよ」
また、胸が痛んだ。
「さあ、戻ろうよ。今日は霧が濃くなるから、早く帰らないと道に迷っちゃうよ」
「うん……」
「それに、今日からは普通に、美味しいものが食べられるよ!」
「うん、そうだね」
それから数週間後。幸奈は滝壺に身を投げて、自ら命を絶った。
死体はついに見つからなかった。
わたしは村人たちに、未熟な儀式のために龍神様の怒りを買ったのだ、それだけではない、この巫女は生贄である娘と交わり、血を飲み交わした、と、散々に責め立てられ、村を追われることになった。
「幸奈、ずるいよ」
その日も霧が濃かった。
山の中を一面、覆い隠すほどの深い霧で、手を伸ばしたすぐ先に何も見えないほどだった。
「幸奈、そこにいるんだよね」
滝の音だけが聴こえる。
霧が、胸にあいた傷から入り込んで、どんどんと体力を奪っていくようだった。だけど、すぐ近くに、生暖かい気配を感じる。
「ごめんね。今から、わたしもそっちに――――」
ああ、わたしも結局、未熟な雨務だった。
この身を投げて、せめて、これから先にはこの忌まわしい因習がなくなるように――――
【4月19日】雨務 王生らてぃ @lathi_ikurumi
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