(15)

 八月六日水曜日。合宿当日がやってきてしまった。

 横浜駅の改札の向こう側、多くの路線のホームを繋げるだだっ広い連絡通路に俺はいた。通路にある大きな円柱のひとつに寄りかかって、イヤホンで音楽でも聴きながら適当に待つことにする。

 高校生にとって夏休みでも、まだお盆前の平日だ。通勤ラッシュであるこの時間帯は、せわしなく歩くビジネスマンの姿であふれかえっている。

 そんな人波の中に見慣れた顔を見つけ、俺はイヤホンを外した。

 その顔がこちらに気づくと、笑顔になって大きく手を振りつつかけてくる。何が楽しいのかわからんけど、なにやら非常に楽しそうだ。……つーか荷物多いな!

「つっ……ふふっ……。ああクリ坊おはよう」

「……おはよう仲間ちゃん。まあ、色々聞きたいことはあるけど、まず何で笑ってんの?」

「んっと、なんでだろ? よくわかんないけど、多分夏エネルギーがオーバーしてるからっぽい」

 なるほど。この時期の仲間ちゃんは、水を得た魚というより水を得ちゃった魚と例えたほうが適切だろう。少しめんどくさい。

 その魚が身にまとうのは、白と紺のラグランTシャツに、デニムショートパンツ。背中にはパンパンに膨れたリュック。足元にはよくわかんないキャラのシールがべたべた貼ってある大きめキャリーバッグ。

 仲間ちゃんらしく活発的でありながらも、いわゆる『サブカル女子』という単語がぼんやりと浮かんでくるような夏コーデである。スケッチブックとかカメラとか似合いそう。

 二人して円柱に寄りかかる。

「はー、それにしても合宿日和ですなぁ」

「そうだな。天気も良いみたいだし」

「…………」

 何故か訪れた沈黙。これは天気の話題という、会話における最終手段を早くも使ってしまったからだろうか。でも今のは手段として使ったわけではなくて、単に仲間ちゃんがそれっぽいことを言ったからなんだけどな……。

 そう思って横を向くと、仲間ちゃんとばっちりと目があった。どうやら俺を無言で見つめていたらしい。顔には日焼けのせいなのかほのかに朱がさしている。

「なにじっと見てんだ?」

「いやぁ、今日はクリ坊と一緒にお泊まりかぁ、って思ってさ」

 ……え、ええと、今の発言はさすがに聞き捨てならないぞ。まずいな。真夏になって仲間ちゃんの言動の突飛さが凄いことになってるよ。

「な、何とんちんかんなこと言ってんだよ……。同じ部屋に泊まるわけじゃあるまいし……」

「え? 違うの?」

「違うに決まってんだろっ!」

 仲間ちゃんは、俺が思春期の高校生の男子ということをちゃんと理解しているのだろうか。もししていないのなら、俺自身がもっと男らしくなれるように努力しないとやばい。何がやばいって俺の子孫がやばい。

「そっか……残念だな。せっかくトランプとかウノとか黒ひげ危機一髪とか、持ってきたのに……」

「……まあ、そういうので部屋で遊ぶくらいならしてもいいけど」

「ホントに! ありがとー!」

 修学旅行じゃないんだし、それくらいならまあ、いいんじゃないだろうか。セーフだよね? あと、黒ひげとか持ってくるからそんなに荷物が多いわけね。

 そんなわけで仲間ちゃんは確実に浮かれきっている。

 ――そう、三枝芽森というノイズは意にも介さずに。

 仲間ちゃんが芽森を嫌っているのは誰の目にも明らかで、何より本人が隠そうとしていない。そういう意味では陰湿さがなくて清々しくもあるわけだけど。

 じゃあ何故ここまでノイズを無視できるのかといえば、夏休みに合宿に行ってみんなと遊ぶというこれから起ころうとしている事実が、仲間ちゃんの中にあるノイズを限りなく小さなものにさせているからかもしれない。

 たとえのその『みんな』の中に芽森がいようと関係ない。夏という季節を筆頭に、合宿というシチュエーションと海というロケーションが加われば、仲間ちゃんはおそらく無敵なのだ。

 ここまで俺は期待と不安をだいたい半分ずつ抱えたまま、夏休みを過ごしてきた。それはもちろん、合宿に対するものだが……まあ仲間ちゃんに関しては悪いものにはならなそうで一安心。

 問題は芽森か。

 この話題を振ってもいいものか……。ともかく強要しない範囲でなんとか上手く言おう。

「おはよう。二人とも」

 口を開きかけたとき、横から声が飛んできた。状況を伺うようなどこか慎重な声音だ。

「あ、おはよう三枝さん」

 やや半目になって仲間ちゃんが無機質なあいさつをした。その視線の先をたどると、件の三枝芽森がいた。

「ああ、芽森か。おはよう」

 純白のワンピースと、同じく白を基調としたトングサンダルがなんとも涼しげだ。顔の小ささとは対照的である大きめの麦わら帽子は少し不格好にも映るが、その拙さにも少女らしさというか可愛げがあるので決してマイナスポイントではない。

 向日葵畑を背景に置けば、さぞかし絵になることだろう。白ワンピ、麦わら、向日葵の組み合わせはやはり鉄板だ。

 ……しかし、芽森が来ちゃったら、もうさっきの話は出来ないな。

「栗山」

 芽森が俺に声をかけた。手には文庫本が一冊。

「これありがとう。面白かったわ」

「ああ、それ読み終わったのか」

 それは二学期の最終日に、俺が芽森に貸したラノベだった。

 俺が受け取ると、芽森は呆れ半分笑い話半分といった口調で話す。

「……てゆーかその主人公、優柔不断なとことかがあんたそっくりね。そっくりすぎてあたし読みながら笑っちゃったわ」

 ……優柔不断か。

 芽森は半ば笑い飛ばすように言うが、それは俺と芽森が以前にも会っていたことをほのめかす言葉だ。気にかけずにいるのは難しい。

 それに、俺のその優柔不断のせいで今まで呪いが解けてこなかったのかもしれない。その上、俺は記憶を無くしているので過去の失態を省みることができない。

 そこまで思い至ると、凄く歯がゆい気持ちになる。

 俺が黙っていると芽森は首を傾げて言う。

「どうしたの?」

「なんでもない……つーかたしかに雄志は優柔不断にも見えるかもだけどな。そう見えるのは主人公ならではの葛藤があるからこそであって、それにフィクションの世界の出来事であって、つまりその何が言いたいかというと俺とは全然似ていない」

「そ、そう」

 誤魔化すためについまくし立ててしまった。やべ、芽森のやつドン引きしてるよ。

 すると芽森は何故か少し顔を赤くして、少し顔を伏せぼそぼそと言う。

「女の子一人選ぶのに時間かけすぎって意味だったんだけどな……」

 一瞬、俺は言葉の意味がわからず黙ってしまう。

 ――俺と芽森は以前付き合っていたらしい。そう、会っていたどころか付き合っていたという話まであるのだ。そのことが頭をよぎるまで少しの間があった。

「そうか? 女子を選ぶシチュエーションなんて今までお目にかかったことないけど」

 とっさに出た言葉はまたも場を誤魔化すものだった。

「あ、うん。もういいわその話は」

「それにしても芽森がラノベ読むなんてなぁ……もしかしてオタクなの?」

 そしてすかさず話題を変える。我ながら嫌になってくる。

 しかし芽森は、自分に興味を持ってもらえたのが嬉しいのか、一転して笑顔になった。最近は芽森のこういう顔も見るようになって良かったと思う。

「あはっ、そんなことないって。アニメの方はあんまり観たりしないし。でも漫画は少年漫画も少女漫画も結構買うけどね。ラノベもそんな感じ」

 芽森の予想以上の食いつきに、俺も嬉しくなって自然と口が動く。

「それってもう世間的には十分オタクだと思うけど、違うのか?」

「違う違う。だってあたしの中じゃまだ半人前だもん。あたしが自分のことをオタクと認めて初めてそうなれるのよ。この程度で名乗ったら失礼だわ」

「そういうもんかね……」

「うん! そういうもん!」

「なるほどね。じゃあ俺も認めてないからオタクじゃないってことになるわけか」

「そうなるわね。じゃあさ栗山。どっちが先に認められるか競争でもしてみない?」

 いつの間にか、芽森は満面の笑みになっていた。見ているだけ気持ちが良くなる笑顔だ。

 その笑顔に俺は見とれた。

 俺はすぐ我に返って、芽森から目を逸らすと、厳かに口を開く。

「別に俺は、オタクになりたいわけじゃ……」

 自分の好きなものについて、はつらつと語ることが、人をここまで愛らしい表情にするのだろうか。

 よくわからない。が、とにかく俺の顔が無性に熱く感じるのは確かだ。これは多分、夏の暑さのせいじゃない。

「ク、クリ坊!」

 俺と芽森が会話している間、ずっと黙っていた仲間ちゃんが、突然声を上げた。

「私にも、今度ラノベ貸して!」

「え……いいけど。……じゃあこれ借りる? 女子にも結構おすすめのやつだけど」

「それじゃだめ! 三枝さんに貸してないやつ!」

「は? なんで?」

「なんでも!」

 えっと、そんなのこの本以外の全てのわけだが、何故そんな変な条件付きなのかよくわからない。俺にとっては理解しがたい芽森への対抗心が仲間ちゃんをそうさせているのかもしれない。

 ……そういや以前にも、仲間ちゃんにラノベを貸したことがあったな。

 あれ以来、貸してと言われたことがなかったから、仲間ちゃんのニーズにラノベは合っていないのかと思っていたが、ここにきてどういう風の吹き回しなのだろう。

「……わかった。じゃあ次に会ったときにでも、適当に見繕って持ってくるよ」

「うん! よろしく!」

 何故か仲間ちゃんは、両手をグーにして気合い満々だった。それ、微妙にハードルが上がってるような気がして嫌なんですけど……。

「そっか、美夏は……」

 ふと、芽森のそんな呟きが耳に入った。仲間ちゃんには聞こえていないらしい。

 すると芽森は、仲間ちゃんに向き直って、小さく深呼吸してからはっきりとした口調で言う。

「美夏。今まで気づいてあげられなくてごめんなさい。でも、これに関しちゃ譲るわけにはいかないの」

 仲間ちゃんは真正面からそれに答える。

「なんのこと言ってるのかよくわかんないけど、そっちがその気なら受けて立ってあげるよ。あと美夏って呼ばないで」

 バチバチと視線を通わせる二人。

 ……こ、これは、あの有名な修羅場というやつですか? ははっ、まさか、まさかねぇ。

 ていうか飾先輩はまだですか? 気まずいんで早く来てくださーい!

 心中に収めてしまった魂の叫びは、連絡通路に響くことはもちろんなく、その後ただの願望となって三分ほど居座り続けるのであった。ちゃんちゃん。


 視線をゆっくり上から下に移していく。

 かんかんと照る太陽とほんのわずかの雲を宿した青空。

 地球に沿って曲がっているらしいのだが、どう見ても直線にしか見えない水平線。それに隔てられて、空より少しだけ濃い色をした海は人でごった返している。

 砂浜は海以上に人口密度が高い上に、パラソルやレジャーシートが所狭しとあるせいで、ここから『ウミダー!』とか、『ウェーイ!』みたいなけたたましい声を上げつつ、ダッシュして海に入るのは難しそうだった。要するにワンチャンない。

 そういうわけで、俺たち総文部の面々は鎌倉市の由比ガ浜海岸に来ていた。ここまでは横須賀線と江ノ電を乗り継ぎ、飾先輩の別荘に大きい荷物を置いて、という道のりである。

 うーむ、やっぱり場所的にかけ声は『やっはろー』のほうがいいだろうか……。

「いやはや来ちゃいましたね。湘南」

 俺の隣に立つ、海パン姿の川原が感慨深そうに言った。ちなみに俺も海パン。

「で、何でここに川原がいるの? 総文部の合宿のはずなんだけど」

 横浜駅から何度かしている質問を、もう一度ぶつけてみた。

「何でってお前……。ずっと言ってんだろ。女子三人、男子一人で合宿に行くなんて羨ま……バランスが悪いから調整のためだって」

「だから、そもそも何のためのバランス調整なんだよ。俺はそれが聞きたいんだっつうの」

「さて、女子の皆さんはまだかなー」

 俺の言葉を遮って、川原は後ろを振り返った。……こいつ。

 まあでも川原が来てくれて助かってないと言えば嘘になる。外泊で男子が俺一人となれば、何かと不都合があるだろうしな。

 なんてことを考えていると、水着に着替えた女子メンバーが人垣を縫ってやってくる。我が日本が誇るべき、見目麗しい女子高生の水着姿である。

 川原が遠目でそれを眺めながら、おもむろに口を開く。

「お前さ、ほんと恵まれてるよな。美少女三人に囲まれてさ」

 恵まれてる、か。

 頭ごなしにそれを否定する気にはなれなかった。だって彼女らが並みの人間よりかわいいのは、おそらく事実なんだし。

「そう、なのかな。そうでもない気もするけど」

 でもどこか腑に落ちない部分もあるから、むやみに肯定もできないわけで。

「男子諸君。待たせたな」

 俺たちに声をかけたのは、エキゾチックな黒ビキニを身にまとった飾先輩だ。その起伏の激しいダイナマイトボディを惜しげもなく太陽に晒し、腰のパレオも相まってとても高校生とは思えないアダルティな雰囲気を醸し出している。

「いやー、ホント待ちましたよ。この五分が永遠にも感じられるくらいに」

 川原が調子外れに言った。

「そうか、すまんな。ところで君は……えーっと、誰だったかな?」

「川原ですよ!? 多分もう三回は自己紹介しましたよね!?」

 説明しよう。飾先輩は記憶力が乏しいうえに、物事に対して『別に覚えなくていいや』と判断する確率が滅茶苦茶高いのだ。

 すると、側にいた芽森が身をよじりつつ途切れ途切れに言う。

「栗山、どう? この水着、似合ってる?」

 それは上下が一体となったワンピースタイプの水着だった。白地に黒のドット柄がわずかにシックな印象を与え、腰のスカートが仕草に合わせてひらりと揺れる。

 こう言っちゃあれだけど、身体の出っ張りの無さを上手く可愛さに変換できていると思う。というか変換が利きすぎて、すごくかわいいです。

「おお、すげー似合ってんなそれ! かわいいぞ!」

 思わずテンションが上がってしまうほどだった。

 『かわいい』という言葉は、女子に対して軽々しく使っていい言葉ではない気がするが、今回はまあいいだろう。本当にそう思ったんだし。

 俺の率直な感想を聞いた芽森は嬉しそうにする。と思いきや、何故か仏頂面だった。

「なんか……ノリが変で嘘っぽい」

 ああ、あらぬ誤解を受けている。

「嘘じゃないって。変になるほど似合ってたんだよ」

「……ほんとに?」

 芽森が上目使いで尋ねてくる。やべぇ、かわいいぞ。目がやられる。

「ほんとほんと。この海に誓ってほんと」

「じゃあ……今回は信じてあげる」

「なんだこの初々しいバカップルは……」

 川原が何か言っているが、気にしないことにした。

「クリ坊」

 と、そのあだ名を呼ばれたので、仲間ちゃんの方を向く。

「私はー? どうどう?」

 仲間ちゃんは後ろで手を組んで、くっと前のめりになる。その動作のおかげで、胸が小さく揺れたのを俺は見逃さなかった。

 ……しかし、これは、想像以上に素晴らしい。思わず「ゴクリ」と喉を鳴らしてしまう。

 飾らない上下水色の三角ビキニは、仲間美夏という素材を邪魔せずに、この上ないものに仕上げている。肢体は健康的で、どこもかしこも瑞々しく丸みを帯びていて、かつどこを触っても柔らかそうで……ってなに考えてんだ俺。

 とにかく、この季節が仲間ちゃんに半端なく味方しているのは確かだ。それは気持ちの面だけでなく、姿形にも。

「……すごく似合ってる。つーか滅茶苦茶似合ってるし、俺の中でどストライクでかわいいから、そのまま俺主催のミスコンとか出た方がいいじゃない?」

 思わず正直な感想が漏れてしまった。

 それを聞いた仲間ちゃんは、見る見る顔が赤くする。ほう、仲間ちゃんのこんな顔初めて見るぞ。おお、赤い赤い。

「褒めすぎっ!」

「いてっ」

 まじまじと見ていると仲間ちゃんに胸をこずかれた。褒めたのに、何故だ。

「……でもありがと。すごく嬉しいや」

 そう言って仲間ちゃんははにかみつつ、時折、「えへへ」と喜びを噛みしめるように笑っていた。

 そういう反応をされると、色々と勘ぐりたくなる。

 これが二次元の世界なら期待してもいいのだろうか。まあでも、いくらそれを考えようとこの世界は三次元なので意味がないわけで。

 ……はぁ、馬鹿馬鹿しい。俺ってばちょろいもんだな。まったくやれやれだぜ。

 最近は『やれやれ系主人公』も減ってきたな。ああいうニヒルな主人公、結構好きなんだけどなぁ。ふと、そんなことに思いを馳せる俺なのであった。ちゃんちゃ――

「めもりん!!」

 締めようとしたところを飾先輩に邪魔された。なんなんだこの人。突然声なんか上げて。もしかして暑さにやられちゃったのかな? そんな感じで心配していたら、飾先輩は何を思ったのか、そのまま芽森に背後から抱きついた。

「わわっ」

 芽森はいきなりのことに驚いた様子だった。

「い、今まで抑えてきたが、もう我慢ならん……はぁ、めもりんの水着姿はかわいいなぁ。本当にかわいいなぁ。ああ~耳の裏からいい匂いがするんじゃ~」

 飾先輩は、大きな胸を芽森の肩甲骨あたりでむにゅむにゅ潰しながら、両手でその小さな身体をまさぐる。

「や、やめっ……そんなとこっ……やめてくださいっ」

「ふふっ、よいではないか、よいではないか」

「…………」

 俺と仲間ちゃんと川原は、当然のごとくドン引き。

 すると、急に川原が菩薩のような優しい笑顔を俺に向けてくる。

「栗山。さっきは悪かったな。俺、たった今ちょっとばかし考えが変わったわ……。お前も、大変なんだって気づいたよ」

「……わかってくれるのか。この気持ち」

「ああ」

 川原はそう言いつつ、ゆっくりと頷いた。

 こうして俺は、川原との友情をわずかに深めたのであった。今度こそ、これでちゃんちゃんしたい。

 というか、早くこのよくわからない茶番とおさらばしたい。


 パラソルの基ビーチチェアに体を横たえて、海辺ではしゃぐ女子たちの様子を見てみる。

 芽森と仲間ちゃんの仲は相変わらずなので、わかりやすく物理的にも距離が開いていた。それでも芽森の場を盛り上げようとする精神と、仲間ちゃんの持ち前の明るさと、飾先輩の陽気オーラでなんとか場が持っているように思える。

 でもその光景は、針でつつけばたちまち破裂してしまいそうな危うさを秘めていた。……うーん、大丈夫なのか? これ。

 まあそれはともかく、ここから眺めてみると、右から、大、中、小、といった感じだ。何のことかは言わないが。

 俺が色々と考えを巡らせていると、隣でビーチチェアに座っている川原に声をかけられる。

「なあ栗山」

「なんだよ」

「生田先輩っておっぱいでけぇよなぁ……」

「……ああ」

「仲間さんも以外とあるよなぁ……」

「そうだな」

「三枝さんは……いや、やめておこう」

「別に小さいのは悪いことじゃないと思うけどな」

「…………」

 これはいわゆる、ガールズトークならぬボーイズトークというやつだ。別にあれから川原ルートに入ったわけじゃないので、腐った女子の方々にはお引き取り願いたい。

 すると、飾先輩がビーチボールを右腕とわき腹で挟むように持ち、芽森と仲間ちゃんを先導しながらこちらにやってくる。

「男子諸君。そろそろ昼食にしようではないか」

 歩きながら声をかけられた。

「ですね」

「よっしゃ、飯だ」


 昼食は海の家で水着のままとることにした。

 ここが特別なのかもしれないが、最近の海の家は妙にこじゃれていて、店内のそこかしこから異国情緒が感じられる。それがどこの国なのかはわからないけど。

 俺は、ガ、ガピ……ガパオライスなるものを食べていた。これもどこの国の料理なのかわからないけど、香草と香辛料が効いた挽き肉がライスとよく合っていてうまい。ていうか半熟玉子が乗っているのでまずいわけがなかった。これさえ乗っていれば大抵のものはうまく感じるのである。

「この後、適当に海で遊んで別荘に戻ったら、バルコニーでバーベキューの準備だ。夕食を食べ終わったら外で花火でもしようか」

 飾先輩がグリーンカレーを食べつつ、この後の段取りを話す。この合宿は二泊三日で、二日目は鎌倉観光に当てることになっている。ちなみに、その企画立案は全て飾先輩によるものだ。

 誰からも文句のひとつも出ないところを見ると、このスケジュールの充実さが伺える。やはり遊びに関してこの人は手を抜かないようだ。もう少し勉強にも手を入れて欲しいものだけど。

 すると仲間ちゃんが、ストローとメロンソーダでくぴっと喉を鳴らし、軽快に話す。その姿は、さながら夏の蜜を吸った虫みたいだった。

「うはー、もう思い残すことない感じですねー。テンション上がってきたー!」

「バーベキュー……。やった! お肉大好き!」

 芽森も楽しそうでなにより。

「……はっ! 俺ってもしかして、リア充なんじゃね!?」

 川原が何か台無しなことを言った。やめてくれよ。周りに聞こえたら恥ずかしいから。

 そして食事も一通りすんだころ、おもむろに仲間ちゃんが口を開く。

「あ、そうだ三枝さん」

 声音がさっきまでのものと違いすぎるために、今の今まで弛緩していた空気が一気に引き締められる。

 俺はこの合宿で、仲間ちゃんが芽森に何かふっかけるのではないかと、常に注意を払っていたつもりだったが、油断してしまっていた。ていうか今のは無理だろ。

「何? み、仲間さん」

 芽森もいくらか強気のようだ。少なくとも以前のようにオドオドしている様子はない。ついでに、もう俺が口を挟めるような感じではない。

「この後さ、遠泳対決でもしない?」

 ……その提案も予想してなかった。何だよ遠泳対決って。

「何でそんなことしなくちゃならないのよ」

 芽森が口にするのは当然の疑問なのだが、言い方が……その、高圧的で怖い。

 飾先輩は「はぁ、またか……」と頭を抱えているし、川原なんか『ナニコレ……フタリトモドウシタノ……』みたいな感じでスプーンを持ったまま固まっている。こいつにはあらかじめ説明しとくべきだったか……。

 芽森の疑問を聞いた仲間ちゃんは席を立って、芽森に何かを耳打ちする。

 やがて仲間ちゃんが耳から口を離すと、芽森は意味ありげに納得したように、「ふーん」と呟いた。

「いいわよ。やってあげる」

「じゃ、後でよろしくね」

 仲間ちゃんはそう言って自分の席に戻っていった。

 ……この空気、どうしてくれんだよ。


 昼食をとった俺たちは、いったん自分たちのパラソルがある所まで戻ることにした。

 その途中で後ろから仲間ちゃんに声をかけられる。

「ねぇ、クリ坊」

「なに?」

 返事をしつつ振り返る。

 すると仲間ちゃんは足を止め、少し気恥ずかしそうに口を動かす。

 そのごく小さな動作がやけにスローモーション見えたせいか、律儀に光景より遅れて言葉がやってくるため、それを認識するまでに時間がかかった。

「私のこと、嫌いになった?」

 認識した瞬間、俺は鳥肌が立った。

 今まで白紙にいくつかの点しか書かれていなかったのに、いきなり線が現れて一瞬で点同士が繋がったような感覚だ。俺はそれらを脳内の消しゴムのようなもので、すぐさまこすり取ろうとする。

 だが結果、とっさの答えまで真っ白になって、黙ってしまった。

「あ、いいや。率直に訊きすぎた。まず、聞いて?」

 沈黙を悟られる前に仲間ちゃんの方から続けてくれた。どうやら仲間ちゃん自身、先ほどの言葉が何を意味しているのか気づいていないらしい。

 もう今は、そこにつけ込むしかない。

「……ああ」

「えっと……こんなこと聞いて、引かないでね?」

 どんな言葉が待っているのか、俺は想像しうるものを思い浮かべて、ああそういえば無用な心配だと気づいて、口に出す。

「引かないよ。だって仲間ちゃんだからな」

「……そうだね。私が言うことだし、聞くのがクリ坊だもんね」

 言いながら仲間ちゃんは少しだけ笑った。そして淡々と語りだす。

「自分で言うのもなんだけど、今まで自分のこと結構純粋な性格だと思ってて、でもそれは違うんだって、最近気づいたんだよ。そんで、こういう自分が嫌いじゃないことが、なんか怖くてさ」

 仲間ちゃんの顔がどんどん下に向いていく。

「嫌いじゃないから、普段通りの私でいるのも簡単で……そんな自分の器用さが、また怖くて……」

 と、そこで言葉は途切れてしまう。

「話がぼんやりしててよくわかんないけど、嫌いじゃないなら怖がる必要はないんじゃないか?」

 これは俺の本音だ。自分が自分の性格を認めているなら、変わらなくていいし、恐れるものもないはずだから。

「違う! 違うんだよ! 私が私を、どう思うとかじゃなくて――」

 仲間ちゃんが頭を上げて、真っ直ぐ俺を見る。その瞳は何かにすがるようだった。

「クリ坊が、こういう私をどう思うかってこと!」

 さきほど仲間ちゃんが、『嫌いになった?』と問うたということは、今のも同じことを問われているのだろう。

 だったら正直に答えるしかない。その答えが仲間ちゃんの望むものかどうかは別として。

「俺もそういう仲間ちゃん、嫌いじゃないよ」

「……そっか、嫌いじゃない……か」

 仲間ちゃんは、喜んでいいのか落ち込むべきなのかわからない様子だった。その曖昧な表情を見ると、少し胸が痛む。俺が正直に言ったことも、聞きようによって曖昧なものだから。

「もういいか? 行くぞ」

 パラソルのほうに向き直りながら言う。もう他の三人は着いているようだ。

「……ごめん。私って、めんどくさいよね」

 背中越しに言われる。

 この質問の意図は、『そんなことない』と言ってほしいからに他ならない。そしてこんなところで天の邪鬼になるような俺でもない。

「そんなことないから。謝るなって」

 俺が歩きながら言うと、仲間ちゃんも歩いているようで、さきほどと同じ距離間で声が聞こえてくる。

「いいんだよ。そういう自覚は……あるから。いいの」

 人の賑わいに今にもかき消されそう声だった。

「ただ……これも、クリ坊がめんどくさい女の子を嫌いじゃないなら……だけどね」

『そうか』と言ってしまいそうなぐっとこらえて、聞こえないふりを決め込んだ。今、この場所で返事をすることではない。そう心の中で言い訳しながら。

 聞こえないふりをしたのが申し訳なかったわけでもないけど、代わりの言葉を口にする。

「そういや遠泳、するんだろ?」

「あ、うん」

「あんまり無茶するなよ。危ないから」

「うん。ありがと」

 歩いていると、うだるような暑さに加えて、砂浜の熱がビーチサンダルごしに伝わってきて頭の先まで到達してくるようだった。

 こんな感覚を覚えるのは多分、生まれて初めてで、だからこそ新鮮味が心地よくて。

 その後、心ここにあらずのまま、どうにかパラソルまでたどり着いた。


 ここから三十メートルほど離れた浅瀬では、芽森と仲間ちゃんが足並みをそろえている。俺はその様子を棒立ちで眺めていた。

 遠泳対決……少し心配だけど、仲間ちゃんは泳ぐのが得意らしいので、いざとなったら芽森のぶんまで引っ張ってきてくれるだろう。

「栗山君」

 傍らでビーチチェアに座っている飾先輩に声をかけられた。

「なんですか?」

「あの二人は、今後仲良くできるだろうか……」

 飾先輩は、目を凝らさずただ漠然と二人の背中に視点を合わせていた。もしその瞳がこちらに向いたら何もかも見透かれてしまいそうだと、おかしな心配をしてしまうのは、俺自身に隠し事が多いことを意味しているのだろうか。多分そうだ。それにこの人、バカだけど察しは良いからな……。

「どう……ですかね。このままだとちょっと難しそうに思えますけど」

 すると、飾先輩を挟んだ向こう側のビーチチェアで、川原がしずしずと手を上げつつ言う。

「あのー、生田先輩」

「お、何だ? えっと、川村く」

「川原です」

「そう、川原君。何か質問か?」

「はい。あの。仲間さんと三枝さんって、クラスで一緒に話してるとこ見たことありませんし、もしかして部活で仲悪かったりするんですか?」

 川原が普通なら言えないようなことを平然と言ってのけたけど、別に痺れないし憧れない。

 飾先輩は少し渋い顔をして、

「仲が悪い……というより、お互いの気持ちに距離がある感じだろうか。初めは仲間君からの一方的なものだったが、何故か今日を境にめもりんからもそれを感じるようになった」

 心当たりがあって思わずピクッと反応してしまったが、二人は気づいていないようだ。

「何やらめもりんが転校してくる前日に、栗山君を加えた三人でいざこざがあったらしいのだ。……まあ、詳しいことはそこにいる当事者に聞くといい」

 飾先輩は話を打ち切りつつ、そんな風にこちらに丸投げしてくる。まあ本来俺が言うべきことだし仕方ないんだけど。

 川原は顔を上げてこちらを見る。

「だってさ。どうなんだよ栗山」

「どうって言われてもな……」

 俺はそうぼやいた後、川原に『言える範囲』で説明した。具体的には、七月一日の下校時に何があったかということだ。

「なるほど……。そういやお前、ちょっと顔腫らして学校来たことあったもんな。あんときか」

「そうだな。あんときだ」

「あの二人がねぇ……。一見、険悪には見えないけどな。女子ってこええなぁ……」

 川原がしみじみと言った。まったくだ。

「で、お前はそれを何で許してるわけ? 仲間さんよりよっぽど被害受けてんじゃん」

「そ、それはえっと……俺が優しいから?」

 答えづらい質問につい狼狽して、おまけに疑問符つきで答えてしまった。川原は若干怪訝な顔をこちらに向けるが、すぐ元の顔に戻る。……いや、少し意味ありげな顔だ。

「ふーん……まあ、栗山が優しいかは置いといて、『優しい』くらいで許せるなら、仲間さんだってとっくに許してると思うけどな。つーか、仲間さんはいつまでも根に持ちすぎだと思うわ」

「……やっぱそこに行き着くよな」

 俺も『ついさっきまで』それが疑問だった。

 というかこれは、当然の疑問でもある。

 例えば飾先輩は、今までこの事案について俺や仲間ちゃんに追求してこなかったし、疑問を口にすることもなかった。それは『細かいことは水に流させる』という、彼女なりの解決策なのだろうけど、川原のように疑問を持った上で口にすることが一般的には正しいというか、自然な流れなのかもしれない。

 正直に言うと、一般論だろうと自然な流れだろうと、川原が一人の友人として色々と考えを巡らせてくれるのは心強いし、嬉しいものがあった。それに、今までことの顛末を話してこなかった俺を咎めないのは、彼なりの優しさによるものなのかもしれない。

 ……こいつには、お礼と謝罪をしなければならないと、少し思った。だが、あくまで少しなのでどちらも口から出さないでおくとする。

 俺が口の中だけでお礼と謝罪をしていると、飾先輩がおもむろに話す。相変わらず顔は海のほうに向いていた。

「ともかく栗山君。私はごたごたした人間関係について頭を回すことが出来ないので役に立てるかはわからんが、出来る限りのことはしてみようと思う」

「……ありがとうございます。頼りにします」

 俺は自信を持ってそう返した。飾先輩なら、たとえ頭が使えなくても行動力で十分カバーできることを知っている。

「うむ、もうあまり時間もないのでな」

 飾先輩の視線の先は、もう二人の背中を飛び越していて、水平線の向こうにあるようだった。それは決して見ることの出来ない未来の世界を、どうにか見通せないかとしているようにも映る。

 この合宿が終わったら、飾先輩の総文部としての活動もほぼ終わってしまうから。

 でもまあ、この人は多分文化祭もやる気満々なんだろうけど。

 ……ほんとに大丈夫なのかな。受験。


 いつの間にか、俺は二人の背中を見失っていた。

 特に目で追っていたわけでもなかったし、喉も渇いたので自販機で飲み物を買いに行くことにする。

 サンダルに入った砂を煩わしく感じながら歩いていると、波打ち際近くの雑踏から声が聞こえてきた。

 明るく陽気な歓声ではなく、この場所に似つかわしくもないざわめきだ。その一カ所だけが、他から切り離されているような異色さを放っている。

 ……なんだろう?

 その異色さに、自然と足が向く。

『うわーこわいねー』

『おい、これ、やばいって』

『ね、ねえ、ライフセーバーまだなの?』

 そのときの俺の心の持ち用は、まだ『興味本位』や『野次馬精神』といった感じで、つまるところ完全に他人事だった。『俺に出来ることがあるならやってあげよう』という、偽善混じりの余裕すらあった。

 しかし、聞き覚えのある声によって、そんな愚かな考えは根こそぎ持っていかれる。

「美夏! お願い起きて! 美夏! 美夏! み……う……ケホッケホッ」

 芽森の声だった。

 俺は一目散にかけだした。

 人垣に手をねじ込ませてかき分けつつ、足は目の前の膝裏を蹴る勢いで、ひたすら前に進む。

 きっと、何か大変なことが起きている。

 だからたった一秒の無駄があったら、取り返しのつかないになってしまうような気がした。

 俺は最後の一人を突き飛ばすように押し退けて、目の前が開けたと同時に声を上げる。

「芽森! どうした!?」

「……栗山」

 俺は顔を下に傾けた。芽森が膝立ちになっていたからだ。

 そしてその傍らには、見たくないものがあった。

 一分一秒が惜しいことはわかっているのに、脳が目の前の光景の認識を拒否しようと動く。だがそれを上回る危機感が、完全に拒否することを許さなかった。

「仲間ちゃん……うそだろ……」

 口に出してしまうと、危機感に加えて、恐怖が沸き上がってくる。

 仲間ちゃんが青い顔をして仰向けになっている。

 俺の中にこの事実以上の恐ろしいことがあるとしたら、おそらく同位のものしかない。

「どうしよう栗山……美夏が……美夏が……!」

 よく見ると、芽森も青い顔をこちらに向けていた。

「落ち着け芽森。何があった。溺れたのか?」

 芽森は小さく息を吐くと、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。

「……うん。二人で遠泳してたら美夏がどんどん沖の方に行っちゃって……美夏は泳ぐのうまいから、大丈夫だって思って……でも気づいたときには、頭が見えなくなってて……」

 ……おそらく、足がつってしまったのだろう。それしか考えられない。泳ぎが得意な人間だからこそ、『泳げる』という事実につけ込んで危機感をなくし、こういうことが起こりうると聞いたことがある。

「芽森がここまで引っ張ってきてくれたのか?」

「それはそうだけど、結構距離があったから、なかなか見つからなくて。見つけたころにはもう意識がなくて、なんとかここまで運んで、周りの人にライフセーバーを呼んでもらったんだけど……」

「……そうか。ありがとな芽森。ここまでやってくれて」

「お礼を言われるようなことは何もしてないわ……だってそもそもあたしがムキになったりしなければ、こんなことには……」

「いや、少なくともお前のせいじゃない」

 それに今は誰のせいとかを考える時間でもない。ライフセーバーを待つこの間に、俺に何が出来るかを考えるべきだ。

 どうする。どうすればいい。

 何かを思いつく前に、成り行きで仲間ちゃんの口元に手のひらを近づけてみる。微かに生暖かいように感じるが、これが息なのか体温なのか判断がつかない程度のものだ。また、胸はかすかに上下しているようだが明らかに人並みより息が弱いことが見て取れる。

 ……息が弱い。

 すぐに思いついたのは人工呼吸だ。

 仲間ちゃんの顔に自らの顔を近づけて、漫画かなんかで得た、付け焼き刃の知識を思い返してみる。

 たしか顎を上げて気道を確保して、えと、鼻をつまむのか? クソッ、わかんねぇ。

 血色を無くした紫の唇が視界に入ると、今まで鳴りを潜めていた恐怖が再燃した。もし間違った対処法をしてしまったら、余計に仲間ちゃんを死の淵に追いやってしまうかもしれない。そして、『死』という単語が浮かぶと、さらに怖くなる。

 ……ここは、大人しくライフセーバーを待った方がいいのだろうか。

 ここまできておいて、妥協という結論が出そうになったそのとき、二メートルほど離れて取り囲んだ群衆の一部から声が聞こえてきた。

『うおっ。マジでマウストゥーマウスしちゃうのかよ。こりゃ見物だな』

『こういうのってマンガでよく見るよねー』

 おそらく、本来ならば俺には聞こえない音量だ。だがこの緊迫した状況に、図らずも聴覚がとぎすまされていたのか、言葉ははっきりと俺の耳に届き、それが脳まで染み渡ると見る見るうちに憤りと怒りが変換されていく。

 見せ物じゃねえんだよ。とか。漫画で見るからなんなんだよ。とか。人一人が苦しんでんのに何でそう笑ってられるんだよ。とか。

 ああいいよ、じゃあその漫画の知識をこれから披露してやるよ。とか。

 右手を仲間ちゃんの顎に添えて、ゆっくりと持ち上げつつ、左手でその鼻をつまむ。

「美夏……お願いだから起きて……」

 芽森の不安げな声が聞こえた。視界の端で、その芽森のものらしき両手が仲間ちゃんの右手を握っている。

 俺は口を大きく開き、息を吸い、開かせた口にかぶせるように乗せる。

 そしてひと思いに吹き込んだ。

 いったん口を離して様子を見守る。

 ……反応がない。

 もう一回、と思ったそのとき、仲間ちゃんの体がビクンと跳ねて、

「う、けほっ、けほぉおお」

 口から水が出た。

「しょっぱい」

 目が薄く開き、心なしか顔が元の色を取り戻していく。

「美夏!」

「仲間ちゃん……!」

 たまらず、俺は仲間ちゃんに覆い被さった。周りから拍手とざわめきが聞こえて、すぐ近くからは芽森がすんすんと泣く声が聞こえる。

「良かった……仲間ちゃんが……無事で……」

 思うのは本当にそれだけだ。

 こんなに怖い経験をしたのは初めてだから、安堵以外の感情が沸き上がってこない。今は、それにどっぷり浸ることしかできない。

「私……溺れたの……?」

 俺はそのままの体勢で、何度か首を縦に振った。顎が仲間ちゃんの肩に当たる。

「……そっか、ほんと救いようがないな。私」

 俺はどんな風に言葉を返せばいいのかわからなかった。『そんなことはない』と、頭ではわかっているはずなのに、その言葉はもう使い古されているような気がして、口に出してしまえばたちまち嘘に変わってしまいそうで。

「……違うわ仲間さん」

 頭上から芽森の声がした。

 俺は体を起こして、その顔を一瞥する。目を赤くしたまま、反省の色を浮かべているようだった。

「救いようがないっていうのは、あたしみたいなやつのことをいうのよ。いろんな意味でね」

「三枝さん……」

 仲間ちゃんが仰向けのまま呟いて、そのまま続ける。

「よくわかんないけど、こんなことにまで張り合ってくるなんて、さすが三枝さんだね」

「……そうね。あたしって結構負けず嫌いみたい。まあ、仲間さんほどじゃないけどね」

 芽森はそう言いながらはにかんだ。

「へへっ、言ってくれんじゃん」

 仲間ちゃんも笑顔を見せたので、容態はもう平気なみたいだ。本当に一安心。

 すると、どっと疲れが沸いてきた。これといった運動はしていないはずなので、これは精神的なものだろう。じりっと照りつける日差しが、そんな頭にさらに追い打ちをかけるようだった。

 ところで、俺は心のどこかで、この二人が一戦を交えた結果、『お前、強いな』『お前もな』みたいな感じで、友情が生まれてくればいいと思っていた。

 しかしそれは、思わぬ形で実を結んだと見ていい……のか?


 その後、仲間ちゃんは救急車で運ばれることになり、俺が付き添った。診断の結果、大事を取るということで仲間ちゃんが合宿に戻ることはできないらしい。

 診断を聞いた直後の仲間ちゃんから、「合宿、中止にしたりしないでね。飾先輩のためにもさ」と、笑顔で言われてしまった。よってその日の夜は予定通りバーベキューと花火をしたし、次の日には鎌倉観光に興じた。

 仲間ちゃんがいないことと、『いなくなった理由』を皆は知っているので、終始どこか盛り上がりに欠ける形になってしまったが、仲間ちゃんがそんなことを望まないのも皆はわかっていたようで、暗いムードになるようなことはなかった。

「二人とも、迷惑かけて本当にごめんなさい!」

 八月二十日。学校近くのファミレスで、俺と芽森を前に、仲間ちゃんは深々と頭を下げた。

「仲間ちゃんが謝る必要はないよ。被害者なんだし」

「でも……特に三枝さんには、謝罪もそうだけど、本当に何回お礼してもしきれないくらいで……」

 それを聞いた芽森は少し慌てたように言う。

「いやいや、あたしは本当に当然のことをしただけだから」

「そんなことないよ。だって三枝さんは命の恩人だもん」

「大げさだって。それに命の恩人だったらあたしだけじゃ――」

 俺は、まずいと思ってすぐ声を上げる。

「あー! そういえば!」

「……何よ栗山」

 芽森が怪訝な顔をこちらに向ける。

「な、仲間ちゃんに、みんなで買ったおみやげがあったんだった。はいこれ」

「それって、今渡すものかしら……」

 俺は芽森の疑問を無視して、『鳩サブレー』の入った紙袋を、ずいっと差し出す。

「わー、ありがとう。飾先輩と川原君にもお礼言わなきゃね」

 仲間ちゃんは嬉しそうだった。

 俺は人工呼吸のことを、仲間ちゃんに伝えていない。

 おそらく仲間ちゃんの頭の中では、『芽森に波打ち際までつれてこられた仲間ちゃんは、ひとりでに水を吹きだして助かった』という筋書きになっているだろう。ライフセーバーや救急隊にもそうなるように便宜を図っている。

 これは仲間ちゃんとの関係を保つためだ。彼女の心中を察してしまったあのときから、事実だろうと何だろうと余計な事柄は避けてしまおうと考えている。

 知らなくていいことは知らないままでいい。そもそも人工呼吸なんていう些細な出来事で、人間関係がこじれるなんてもってのほかである。

 芽森に口止めを強いることもできなくはないが、やはりそれは酷だし、なんで隠す必要があるのかと首を傾げるかもしれないし、説明しても納得するどころか怒りだしそうだし……と、毎度のことながら言い訳はいくらでも浮かんでくる。

 まあ、本当は芽森の気持ちにも気づいているからなんだけど。

 オタクに片足をつっこんでいる俺としては、夢にまでに見た板挟みの主人公状態なわけだけど、全く嬉しく感じない。未だに漠然としない自分の気持ちに踏ん切りをつけ、素直になってしまえば、確実に片方の気持ちを裏切ってしまうからだ。自慢話などではない。裏切りは許されないことだと切に思うのだ。

 それに、俺は以前に芽森と付き合っていたことがある。俺はそのとき、仲間ちゃんに傷を負わせていた可能性が高い。芽森に関することでその傷を負わせていたのなら、俺や仲間ちゃんがその一連の出来事を忘れていることにも合点がいく。

 古傷をえぐるかの如く、俺がもう一度芽森を選んでしまったら取り返しのつかないことになりかねない。しかし芽森を選ばずにいると、呪いが解けていかないように思える。

 正直八方塞がりだ。これを打開する方法が存在するのかも疑わしい。

 ――でももし、何らかの理由で裏切りが許されるなら。

 そうだ。そう考えれば、おのずと答えは出る気がした。人はいつだって裏切れる。俺だって例外じゃない……はずだ。だからまだ追求して考えるときじゃないのだろう。

 大丈夫。だってまだ八月の二十日なんだ。

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