(14)
恙無く日々は過ぎていく。期末テストはもう終わって今日は返却日の二日目だ。
しとしとと降る雨のあおりを受けて、放課後の部室内は、その全体が濡れている錯覚を覚えさせるようだった。
美馬先生の許可をもらい、部費を扇風機の購入に当てて昨日から設置している。そのお陰で、なんとか部活後まで乗り切れる程度には涼しい。
俺はテーブルを挟んだ左前に座っている芽森に声をかける。
「芽森、そこの文庫本とってくんない?」
「ん」
「サンキュ」
芽森が自分のことを『芽森』と呼んでほしいと言うのでそう呼ぶことにした。……したのだが、何故かその名前を呼ぶ度に仲間ちゃんにムスッとした顔を向けられている気がする。向かいの席を確認してみると、仲間ちゃんはツーンッとあさっての方向を向いていた。
どうやら仲間ちゃんは、芽森を良く思っていないようだ。『何であんなにビンタされたのにそんな風に仲良くできんの?』と、釈然としないのかもしれない。仲間ちゃん自身、芽森に噛みつかれていたしな。
まあ、そりゃあ誰にだって嫌いな人間の一人や二人いるだろう。だけど仲間ちゃんに限ってはそういう感情が極端に少ない、もしくはあったとしても自然にひた隠しにすると思っていた。
「三枝さん」
仲間ちゃんの、弛緩した空気を切り裂くような容赦のない声音。発音の一音一音がはっきりしすぎていて、どこか気持ちが悪くすら感じる。
「そこのマグカップとってよ」
「あ、うん……」
「ありがと」
希にみる感情を隠しもせず芽森に接している。俺の目に仲間ちゃんはそう映った。仲間ちゃんから芽森に振る話は必要最低限のものばかりだし。
芽森はそれにどう対処していいかわからずオドオドしているようだった。そのときの顔はひどく悲しげだ。
黒野さんの話によれば、芽森は以前から総文部に所属していたらしい。ということは、この二人も以前会っていた仲なんだ。芽森は今、その差異と戦っているのかも知れない。多分俺が簡単には想像できない、やるせない悲観に満ちた戦いだ。
俺自身もやるせない気持ちになる。芽森にそんな戦いを強いらせている一端は、やはり俺にあるのだから。
すると、隣の席で赤セル片手に英単語帳を読んでいた飾先輩が顔を上げた。
「諸君、夏休みの予定はもう決まっているのかね?」
突然の問いかけに、向かいの二人が目を丸くしたのがわかった。俺はそれに先んじて答える。
「俺は特に決まってないですね」
「んー、私はお盆にはお母さんの実家に行きますけど、それ以外は多分空いてます」
「……ふむ、なるほど」
尚も言い淀む芽森に、飾先輩は顔を向ける。
「めもりんはどうなんだ?」
何の気なしといった感じで飾先輩は問うた。ちなみに『めもりん』とは飾先輩が芽森につけたあだ名だ。
「あたしも栗山と一緒で、特に決まってないですよ」
答える芽森の顔は、そこはかとなく嬉しそうだった。
「そうか。良かった」
飾先輩は芽森以上に嬉しそうな顔をしていた。
俺はその光景を見て、改めて思うことがある。
おそらく飾先輩は、空気を読むのがド下手だ。それどころか読もうともしてないようにも思える。
仲間ちゃんの芽森に対する態度にも気づいていないか、時間が解決してくれると楽観しているのかも知れない。考えることを放棄したその行為は、決して褒められるものではない。
だけどそれは、良い意味で気を使わないということでもある。
こまごました感情など関係ない! 所詮人間なんてどこにいて何をしているかが全てだ! 黙って私についてこい! 飾先輩が振りかざすのはそんな言葉なんじゃないかと勝手に想像してみた。俺自身そういう考え方は嫌いじゃない。別に好きでもないが。
なんてことを考えていると、とうの飾先輩は意を決したようにくわっと顔を前に向けて、
「よし! では諸君――」
一旦そこで言葉を区切り、矢継ぎ早に言う。
「合宿に行こう!」
今度は仲間ちゃんがいち早く反応する。
「それって、夏休みにってことですか?」
「いかにも。まあ合宿といっても旅行みたいなものだな。うちの別荘が鎌倉にあるから、そこで楽しくやろうじゃないか」
「鎌倉……湘南の海……。いいですね! 私めちゃくちゃ行きたいです!」
なるほど。夏合宿か。
と、俺は一つ疑問に思って口に出す。
「ていうか飾先輩、受験勉強は大丈夫なんですか?」
それを聞いた飾先輩は「ハハッ」と軽快に笑う。俺、なんも面白いこと言ってないんだけどな……。
「無論余裕だ。いいか栗山君? よく目先の欲を満たそうとする人間が言うだろう。『明日から本気を出す』と。そしてこのような台詞を言う奴は、十中八九明日になっても本気を出さない。そうではなかったとしても、本気を出した結果オーバーワークでストレスを溜め込んで受験どころではなくなってしまうかもしれん。だから私は、あらかじめ『夏休みが終わろうと本気を出さない』と決めて、全体的にゆとりのあるスケジュール立てているのだ。どうだ、完璧だろう?」
「……なんかそれっぽく理論立てて言ってますけど、それってゆとり教育の受け入りですよね? それに、教えられる側が実践しちゃったら、もうゆとり教育でも何でもなくてただのサボりの言い訳だと思うんですけど……」
飾先輩が今度は「ふっ」と鼻で笑う。だから笑うとこじゃねぇつーの。
「君がそう思うんならそうなんだろ。君の中ではな」
「便利な言葉だなオイ!」
飾先輩は、一度言ってみたかった台詞を言ってやった感満載のドヤ顔していた。うぜぇ。全然論破してないのにした気になってる感じがさらにうぜぇ。
まったく……こっちは心配して言ったのに。
でもまあ期末が終わっている今日でも、飾先輩はこうやって英単語帳を開いているわけだし、全く勉強していないわけではないんだろう。多分。合宿が明けたら夏期講習にでも行くんだろうとは思う。多分。
と、そのとき、誰かが「ぷっ」と噴き出した。
目の前の仲間ちゃんはきょとんとしている。そのまま視線を左にずらすと、口元を押さえて、ぷるぷると肩を振るわせている芽森が目に入った。
芽森は気を落ち着かせるためか、深呼吸を一回すると、愁いを帯びた顔で、どこでもない場所に視線を合わせ、小さく口を開く。
「やっぱ、変わらないなぁ……。あーおかしい」
誰に言ったわけでもない、自然と漏れ出た言葉のように思えた。
……俺と飾先輩のやりとりを笑ったのか?
たしかに俺と飾先輩は、よくこういう不毛な会話をするが、笑ってしまうほどコントめいているだろうか。少し釈然としない。
でも『変わらない』か……芽森にとって、それは俺が思う以上の意味があることなのかもしれないな……。
「なにがおかしいのかな? 私よくわかんないんだけど」
すかさず、俺の目の前の人物が、鬼の首でも取ったように言った。
今のは仲間ちゃん……だよな?
悪意しか含まれないその言い回しに、俺は耳を疑ってしまう。
「み、美夏……えっと……」
「……名前で呼ばないでよ。そこまで仲良くなったつもりないし」
依然仲間ちゃんは、椅子ごと体を芽森の方に向けて、俺にとって信じがたい言葉を連発している。
芽森は感情の行き場を失って、今にも泣き出しそうだった。ただならぬ雰囲気に、さすがの飾先輩も動揺を隠せないでいる。
仲間ちゃんは続けて、ゆっくりと芽森を見据えて言う。
「てかさ三枝さん。クリ坊をあんなにひっぱたいたことと、私に噛みついたこと、謝る気はないんだよね? 理由も話してくれないし」
「…………」
「どうなの?」
芽森はうつむいていた顔を上げて、仲間ちゃんを見返す。扇風機の音がやけに大きく聞こえる。
「うん」
はっきりとした口調で、その意志を示す芽森。顔にもしっかりした意志が宿っており、先ほどまでのものとは違う。
「そのことに関して、あたしは悪いと思ってないから。理由も……わけがあって話せないわ」
「ふーん……じゃあ、これから仲良くするのはちょっと限界があるかもね。教えてくれないんじゃどうしようもないもん」
「そういう考えになるなら、しょうがないわね」
腹のさぐり合いのような会話が続く。
芽森が呪いについて話せないわけ。俺はそれをすでに聞いている。
それは、俺以外の人間に無用な心配をかけないことともう一つ、『呪いを解くために仲良くする』、という名目が生まれてしまうかららしい。それによって、上辺だけの付き合いとまではいかなくとも、どこか義務的な交友関係になってしまい、結果、芽森はちやほやされるだけで誰の脳にも存在が焼き付かないことになりかねないのだ。
現に総文部の部員全員に全てを明かした過去の三回は、呪いを解くことに失敗しているらしく、三回目は俺の口からバラしてしまったのだとか。……馬鹿か俺は。
……ともかく、今はこの緊迫した状況をどうにかしなければならない。そう思って俺は口を開こうとする。
突如、テーブルに降りおろされた手のひらが大きな音を立てた。
「ええい! なんか知らんが仲良くしろ貴様ら! 特に仲間君! さっきから辛辣すぎやしないか!?」
飾先輩の言葉を聞いた芽森と仲間ちゃんは黙って俯く。少したって、先に顔を上げたのは仲間ちゃんだった。
「ごめんなさい三枝さん。ちょっと言い過ぎた」
仲間ちゃんはそう続けて言いながら、ゆっくりと芽森の方に頭を下げた。
「こっちこそ、ムキになったのは、悪かったわ」
芽森の謝罪を聞いて再び顔を上げた仲間ちゃんは、くっと伸びをしながら言う。
「んー……なんか駄目だ。調子悪いや私。夏なのにな」
この二人が一緒に合宿に行って、本当に大丈夫なのだろうか。まだ行くと決まったわけではないが、そう心配せざるを得ない。
人間関係とは往々にして面倒なもので、反りが合わない人と嫌な時間の中で上手くやらなきゃいけないこともあるし、そもそも好きな人と一緒にいたって苦痛を伴うことだってある。
つまり、第一印象である程度の好意を抱かないと、スタート地点にすら立てない可能性があるのだ。
俺は総文部の皆を好きと思っているけど、俺のように全員が、全員を好きになるというのは果たして理想の形なのだろうか。
……いや、理想ではある。確実に。そうであるべきなんだ。
しかし、そうはならないのかもしれない。だからこその『理想』だ。
こういうことを考えていると、これから俺はどういう行動をすればいいのかわからなくなる。
わかるのは、俺でない他人から他人へのベクトルを強要するのは絶対に違うということだ。甚だしいおせっかいの範囲でしかない。本能的に、はたまた生理的に嫌いと思っている人のことを、好きになれと言っているのとほぼ変わらない。正に理想の押し売りである。
――でも俺は、芽森と仲間ちゃんには仲良くなってほしい。俺が強要して仲良くなってくれるなら、そうしたいほどに。
それに、呪いがこのギスギスした関係を招いているなら、理想ではなく現実の方を許されるべきだろう。何故なら諸悪の根元である呪いに、生きた人間の意志は関係ないのだから。
誤解があるなら解いてあげればいい。でもそんなものは今のところ二人の間になくて、しかも芽森は先の件について謝る気がない。ついでに呪いについては話せないときた。
どうしたものか……。
こうであるけども、こうでない。俺の頭の中で意見が二転三転しているように思えて纏まらない。もうよくわからない。
人間関係について、こんなに考え込んだのは初めてだ。べらぼうに疲れた。
俺はテーブルに突っ伏して、そのまま寝ることを選ぶ。
背中に当たる扇風機の風は、その頭まで冷やしてはくれなかった。
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