(12)
おぼろげな意識で感じる空気はひんやりしていて、乾いていて、少なくとも夏のそれではなかった。
「仲間ちゃん。仲間ちゃん」
聞き慣れた声が聞こえる。肌で感じる空気とは裏腹に、温かみのある声だ。
声の後、肩をゆすられると、自然と目が開いた。
「そうだ! 夏が終わっちゃう!」
私はそう声を上げつつ、がたんと音を立てて勢いよく立ち上がった。
……思いっきり授業中だった。クラスメイトの奇異なものを見る視線と、英語の宮下先生の気の抜けた声が飛んでくる。
「あー大丈夫だぞ。心配しなくても夏はまだ始まったばかりだから。それよか、次訳してもらおうと思ってたんだが教科書も開いてないみたいだし……減点一な」
「あぅ……すいません……」
しずしず座り直すと、急激に顔が熱くなってきた。うう、恥ずかしいよぉ……。
ふと左を見ると、クリ坊がそ知らぬ顔で黒板を見ていた。こやつめ、もっと早く起こしてくれてもいいのに。
そして天井からは聞きなれない音がする。なんだろうと思って見上げてみた。
……なるほど。どうやら空気が冷たかったのは、今年度から設置された冷房が早くもその役目を果たしていたかららしい。その冷風に当てられて顔の熱はだいぶ冷めてきた。終わると思っていた夏もこれから本番を迎えるようで一安心。
それにしても、昔の夢を見るなんて私も歳をとったなぁ。まあ、まだ一年もたってないんだけど。
あの後、家で『イリヤ』の四巻を読んだんだっけ。その結末を思い返すだけで、いつでも余韻に浸ることができる。これは読了した人だけに得られる特権だ。
放課後。教室を一歩出ると、七月の初日にふさわしいなかなかの蒸し暑さだった。
冷房のない総文部の部室も当然暑いのだが、私はむしろその暑さを味方に付けて、『ッターン!』と何度も軽快にエンターキーを叩く。しかし私の向かいに座った部員二人は、いつものように思い思いの時間を過ごすことすら難しく見て取れた。
クリ坊はテーブルにこつんと顎をつけて漫画を読んでいるし、その隣の飾先輩は何をするでもなく、テーブルにべたっと頬をつけて、「今日は……暑いな……」とうなだれている。
少しでも涼しくなろうと思ったのか、おもむろに飾先輩がブラウスのボタンを二つはずした。私は視線を動かし、首筋から鎖骨を経ると、その肌は急激に起伏を増してふくらんでいく。もう少し上から覗き込めばブラが見えそうだ。
続いて、行動を変えたのはクリ坊だった。
顔こそ漫画に向かってはいるが、黒目は私が今まで見たことがないほどに左に向いており、その先には飾先輩の豊満な胸があった。……このムッツリ野郎。
とまあ、こんな感じで時々私は人間観察したりする。時々なので趣味と呼べるほどではない。でも何をどう計算すれば割り出せるのかはイマイチわからないが、多分日本人の平均よりちょい上くらいは観察してる気がする。多分。
何気ない仕草の一つ一つにでも必ず意味はあるのだから、多少強引にこじつけてでも意味を見いだしてみたりすると、これが案外面白かったりするのだ。
それに、これは小説を書く上では割と大事なことなのかもしれない。
登場人物が然るべき思考を持って然るべき行動をさせるためには、個人の心理と集団心理の二つを理解する必要があると、私は思う。
今回、夏に翻弄されている二人を見て、正直何を血肉にできたのかはわからないけど、まあなんとなく面白かったのでよしとしよう。夏だし。
部活後。捗って一仕事終えた私は自転車を押しつつ、普段よりも晴れやかな気分で校門を出た。いつもならここで右に折れるのだが、今日はわけあって左に曲がることにする。
すると、二十メートルほど先に見慣れた後姿があった。そのツンツンした襟足をよく見れば、栗に見えないこともない。
後姿目掛けて、どたどたと自転車に押して走る。
その運動が、なんだか無性に楽しかった。彼の後姿が近づくにつれて、私程度の語彙力じゃ例えられない、唯一無二の充実感が心を満たしていく。
「くりぼー!」
おそらく笑みが堪え切れてない。何でただ走ってるだけなのにこんなに楽しいんだろう。これも夏パワーのせいかな?
私は顔を戻しつつ、息を整え、彼の横につく。そしてすぐさま声をかける。
「一緒にかえろー」
クリ坊は少し不思議なものを見るような目をして口を開く。
「ん? 今日は仲間ちゃんもこっちなの?」
「うん、ちょっち駅前で買いたい本があってね」
「なんだ、先に言ってくれれば待ってたのに」
「ついさっき買いに行こうって思ったからさ」
「ああ、なるほど」
歩き慣れてない道を、クリ坊と肩を並べて歩く。
朝は晴れていたのに、いつの間にか曇っている。
二人で、教室でするような取り留めのない話をする。これから夏休みだね。とか。でもその前には期末もあるね。とか。そういえば篠崎先生の婚活はうまくいってるのかな。とか。
したい話、し終わった話は数あれど、本当に私がクリ坊に言いたい台詞は喉に突っかかって出てこない……気がした。いや、喉じゃないな。胸の辺り? とにかく、場所も言葉も判然としない。
「クリ坊は、さ、私の水着姿とか浴衣姿、見たい?」
判然としないまま、どういうわけかそんな質問を思いついたので訊いてみた。
「……なんだよ急に」
「いいから」
「ん、そりゃまあ……見たくないなんてことは絶対ないっつうか……見たい……かな」
なんとも煮え切らない返事が返ってきた。
「ふーん……」
語尾を細めて相槌を打つと、今度は何故だかクリ坊の顔が見れなくなって、思わず顔を背けてしまう。
――その視線の先、私たちから五歩ほど後ろに、一人の少女がいた。
知らない少女だった。
私が存在を認識するとほぼ同時に、その少女の口が小さく開く。
「待ってよ」
声に反応して、クリ坊も動きを止めた。
少女の緑がかったセミロングが風に小さくそよぐ。細く小柄な体型に、袖の短い涼しげなカットソーが良く似合っている。
顔立ちはまごうことなき美少女なのに、その大きな瞳は多分まだ私の知らない感情を湛えていて、見ている方は恐怖すら感じるようだった。絶望なんてとっくの昔に経験し終えているんじゃないかと、変なことを勘ぐってしまうぐらいだ。
「あたしに、何か言うことないの?」
私たち二人のどちらに言っているのだろうか。視線からうまく読みとれない。
「えっと……クリ坊のお知り合い――」
私がその言葉を発した瞬間、何故か少女の気がさらに落ちたように思えた。返事はない。
「かな?」
続けて言いながら、今度はクリ坊の方を見てみる。するとクリ坊は少しだけ目を見開いた。
そのわずかな動作を、少女は逃さずに反応してみせた。露骨に顔に光が射したのが視界の端でもわかる。
クリ坊は依然固まっていた。沈黙がこの状況の危うさを物語り始めたとき、ようやくその口が開く。
「いや、知らないな」
それを聞いた少女は、ゆっくりと表情を変えていく。
出来上がった顔は、何度も味わってきた絶望をまたも突きつけられて、無理矢理咀嚼させられているような……とにかく見るに耐えないものだった。
少女は虚ろな目をしたまま、一歩、二歩とクリ坊に近づいていく。クリ坊の近くまで来ると、今度はニッコリと笑顔を浮かべて言う。
「じゃあ約束だからね」
「へ?」
――次の瞬間。
あえて腰を乗せずに肘から上のスナップだけで繰り出された、鞭のようにしなる一撃が、的確にクリ坊の左頬をとらえるのが見えた。パンッと乾いた音が住宅街に響く。
ってええええええ!?
「つっ……」
クリ坊はあまりの唐突な出来事によって、痛みより驚きが先に立っているようだ。そのままよろけて体が右に傾く。
「一発だけって約束はしてないわよね!」
傾いた体を首の上ごと左手ですくい上げるような、二撃目。重力を味方に付けたその二撃目は、初めのものより重く鈍い音がした。
ていうか、唖然としてる場合じゃない。
「ちょっと! 何やってんのさ!」
私が自転車を放って声を上げる間にも、三撃目、四撃目が容赦なくクリ坊の顔面に打ち込まれる。クリ坊が抵抗しないのは、先ほどの二撃目が顎に入ったせいかもしれない。
「あんたはっ! あんなにあたしと一緒にいたくせに! あたしのことっ! 覚えてる気満々って大見得切ったくせに!!」
「やめなよ!」
私がなんとか少女を羽交い絞めにすると、少女は首をひねって、キッと鋭い視線で私を睨んできた。
「美夏も美夏よ!!」
気づく。
少女は泣いていた。
尖らせた瞳には文字通り目一杯の涙が溜まっていて、容量から漏れ出た滴がポロポロと落ちている。
ふいに少女の顔はハッとする。しまったと言わんばかりの表情だ。私もそれにつられるようにハッとしてもう一つ気づく。
「私の名前を、知ってるの?」
その問いに少女は答えず、グッと歯噛みすると、なんと今度は私の右手を噛んだ。
「つっ、痛っ!」
加減を知らないような力で噛みつかれた痛みで、私の力はあっけなく喪失して、少女をその手から逃してしまう。しかし、少女はそのまま脱力するように腰を落としてしまった。
私が視線を下に向けると、住宅街の道路に倒れ込んで頬を押さえているクリ坊が見えた。小さな声で「う……」と唸っている。
この状況を理解する前に行動しよう。私はそう考えて、クリ坊に駆け寄り「クリ坊! 大丈夫!?」と声をかける。「なんとか……」と返事はできても、立ち上がることができないようだった。
私の手から逃れた少女も、同じように地面に這い蹲っている。いるのだが、よたよたと向かう先は私たちではなく、あさっての方向だった。
「どうして……どうしてこんなことになっちゃうの? あたしが何をしたっていうのよぉ!」
まるで、神にでも問いかけているようだった。
私がこの光景を何一つ理解できないのは、きっと現実離れし過ぎているからなんだろう。少なくとも修羅場とかそんなありふれた次元ではない。だから対処の仕様がない。
私が戸惑っている間にポツポツと雨が降ってきた。その雫が道路の所々に黒いシミを作っていく。
やがて、少女は道路の上で膝立ちになった。
「うぅ」
――慟哭。
とても少女のそれとは思えない、恥を忘れたような野太い声が耳を劈き、身体に響く。
雨は夕立だったようで、すぐにその勢いを増していく。少女はずぶ濡れになってもかまいもせずに膝立ちのまま叫び続ける。
……ああそうか。と、納得したのは目の前の少女についてではなく、自分のことだった。
考えてみれば、夏はきたけど梅雨はまだ明けていないんだった。だから今日みたいに浮かれるのは少し早かったのかもしれない。目の前の惨劇をその警鐘と考えるのが、一番合点がいく。
もうすぐ期末だし、まずはそちらに気を向けるべきだと思った。
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