第二章 JとAとS

(10)

 時計が鳴る前に目が覚めた。

 枕元にあるその時計を見ると、デジタル表示で午前六時七分だ。いつもより一時間ほども早く起きてしまった。本来ならば、こんな時間に目を覚ましたくなかったと嘆く場面なのかもしれないけど、そうはならなかった。

 同じくデジタル表示の日付を見ると、自然と口角が上がってしまったからだ。

 七月一日。七月最初の朝がきた。

 唐突だが、私は夏が好きだ。

 生命力に溢れた夏が好きだ。

 夏に虫が多いのは、多分、最も生きやすい季節だからなんじゃないかと思う。まあ、私は生物に詳しくないから確証があるわけではないんだけど。

 でも、断言してもいいこともある。それは、人間は夏にこそ人間らしく生きることができる。ということだ。

 例えば、夏にする薄着という服装は、その人本来の体重に近い格好であり、その人本来の姿かたちに近い格好なのだ。だからこそ開放的な気分になれるのだろう。六月に私が衣替えしたときなんかは、狂おしくテンションが上がってしまって、今ならば空でも飛べるんじゃないかと思ったほどだった。

 後、ノスタルジックな夏も好きだ。これはもう主語だけでいい。

 陽炎、海水浴、打ち上げ花火、早朝に公園から聞き漏れてくるラジオ体操の音楽、夏祭り、セミの鳴き声、市民プールで遊んだ帰りに食べるアイス、三日連続で昼食に食べるそうめん、田舎に帰省したときに軒先で食べるスイカ。

 これら全てが私のエネルギーになる。何もかもが私に味方をする。そう思えるほど私は夏が好きだ。ついでに言うと八月十七日は私の誕生日だ。本当に良いこと尽くめである。

 今日から七月になった。ここから段々と本格的な夏がやってくる。毎年のことだけど、正直わくわくが止まらない。

 私の独壇場であり独り舞台、どちらも意味は同じだけど。

 ともかく、私の夏がやってきた。

 仲間美夏の夏だ。


 教室に入って、真っ直ぐに自分の席に向かって歩き、その席の左隣に座っている男子に元気よく挨拶しながら、ぱしっと背中を叩く。

「おっはよークリ坊」

「お、おはよ仲間ちゃん」

 この男子の名前は栗山――ええと、下の名前は何だっけ?

 まあ、私は『クリ坊』と呼んでいるし、これから呼び名を変える気もないので思い出さなくてもいいか。いいよね!

「ん、ていうかクリ坊、なんか元気なくない?」

「朝起きてからずっと、頭がぽかーんとするだよなぁ。心ここにあらずっていうかさ……」

「あらま、夏バテかねぇ」

 そう言う私も、実を言うとそんな感覚が少なからずあるのだ。意識の底で何かが喪失した部分を、無理やり塗り固められているような……。

「そんなんじゃダメだよー? 夏はこれからなんだから。夏休みに入ったら、私と色んなことしまくるんだから!」

「おい、俺を連れまわすこと前提かよ。……つーかその言い回しやめてくんない?」

「んー? なんでー?」

 私が言うと、クリ坊は気まずそうに顔を逸らした。これは余計なことを言ってしまった、という顔だろうか?

「……なんていうか……その、誤解を招くから」

 私がクリ坊の意図を汲み取ろうと、その顔をジーッと見つめると、クリ坊は自分の視界の端にいる私を探るように、チラチラとこっちを見てくる。その動作が異様にかわいく思えてきた。

「クリ坊ったら変なの……ぷっ、あはは」

「いや、何で笑ってんだよ」

「よくわかんないけど……楽しいからかな?」

「何言ってんだか……」

 そう、クリ坊と話していると楽しいのだ。

 いや、別に友達と話していて楽しいと思うことなんて普通のことのはずなんだけど、クリ坊の場合は、なんか、こう、胸があったかくなってくる。こんなこと最近まではなかったのにな……。

 あれかな? 最近おっぱいが大きくなって、ブラもひとつ上のサイズにしたから、谷間が蒸れてるのかも。あ、でもそれだとクリ坊関係ないか。

 そんな感じで、割と変な考えにいきついて、それを払うように慌てて首を振り、「ふぅー」と息を吐く。

 すると、クラスの女子同士の会話が耳に入ってきた。彼女らとは、クラスメイトで友達だけど同じグループではない、くらいの関係だ。

「なによもう! あいつったら、ぽっとでの後輩相手にデレデレしちゃってさ! そんなに年下がいいのかよロリコン野郎!」

「ほうほう……ねえ、それってもしかしなくても嫉妬から始まる恋だよね? いつからそんなことになってんの? 詳しく聞かせて?」

「もーちょっとー! からかわないでよ!」

 ……恋か。

 私はこれまで生きてきて、『かっこよくて気になる男の子』というのは何人かいたけれど、今思い返すと、どれもこれも恋ではなかった気がする。その証拠に、付き合いたいなんて微塵も思わなかったし、もし向こうから告白されていたとしたら断っていた。

 やはり、今までのものは恋ではなくて、『あ、この人イケメンだ』とか、『あ、この人は私のタイプだ』と認知しているにすぎないのだ。その延長線上に恋というものが存在するのだろうけど、どうもそこまで辿りつく気力がない。

 でも、私にもそういう甘酸っぱい経験があれば、もっと人の心に踏み込んだ小説が書けるのかな……。

 と、そこまで考え至ってようやく、今日初めて自分が物書き志望であることを思い出した。夏だ夏だと浮かれすぎて、今日ずっと小説のことを考えてなかった。こんな私のままじゃ、文芸部なんて作れっこない! まずい!

「こりゃまずいなぁ」

 そう呟いて、なんとなく窓の外を見ると、木々にひっついた葉っぱが夏特有の弱弱しい風に揺れていた。

「……まあいっか、夏だし」

 ひとまず変わるのは持ち越しってことで。

 ……ふむ、『夏』という言葉を漏らしたら、去年の夏のことがぼんやり頭に浮かんできたぞ。

 あれはたしか、夏休みが終わったが、夏はまだ終わっていない、去年の九月の上旬。

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