(9)
六月三十日月曜日は、色々と大変な模様です。芽森が。
教室に芽森が入ると、仲間ちゃんが全力で抱きついていたし、部室に入ると、飾先輩が同じく全力で抱きついていた。
二人は今、芽森の呪いのことを知っている。以前から出会っていたことも知っている。そして、今日が芽森のことを覚えている最後の日なのかもしれないということも知っている。
俺には抱きついたときの感情なんてわかりっこないけれど、それについて思うところがあったからこそ、二人は芽森を抱きしめながら涙していたんだろう。
その日の総文部の活動は、例によっていつも通りだった。ついでに弛緩した空気もいつもと同じである。
部室に朱が差し込んだころ、おもむろに飾先輩があくびをして、そのまま話す。
「ふあっ……ん、では諸君、そろそろ帰るか」
俺が返事をする。
「そうですね」
仲間ちゃんが帰りを促す。
「帰ろ帰ろ」
芽森は少し顔を伏せて、
「……あたし、帰りたくない」
その一言で、部室は静寂に包まれる。皆が芽森の次の言葉を待っているようだった。
「明日になったら、あたしはこの場所にいれないかもしれないわ……だったらもうみんなとずっとここにいたい……いたいんだもん」
芽森は今にも泣き出しそうだった。
「芽森……」
俺は芽森がここまで露骨に自分の心境を話すところを初めて見た。だからこそ、かける言葉が見つからない。
すると仲間ちゃんが優しく諭すように言う。
「んー? 何言ってんの芽森ちゃん。学校っていうのは来たら帰らなきゃいけないんだよ?」
「うむ、そのために別れの挨拶というものがあるのだ……さて」
飾先輩はそう言うと、スタッと椅子から立ち上がり鞄を手に取る。芽森はハッとしてその様子を見上げる。
「……飾先輩、もしかして帰るの?」
「いかにも」
しれっと答える飾先輩。
「やだ! 帰らないで! もっと一緒にいてよ!」
飾先輩は、なんとも例えづらい苦笑いを浮かべる。
「ははっ……あーまさか、めもりんの方からこんな言葉をもらう日がこようとはなぁ……とても嬉しいが、すまん。今すぐに帰らないと、見たいテレビ番組が始まってしまうのでな。なあに! 明日は存分に可愛がってやるから安心しろ! 安心して前に進め!」
飾先輩はバス通学だ。学校の目の前にバス停があるので、ここで別れるのは別に不思議なことではない。スタスタと飾先輩は早足で扉の前まで歩き、ガラッと扉を開けて矢継ぎ早に口を開く。
「ではめもりん、また明日」
別れの挨拶を聞いた芽森は、慌てて席を立ちながら声を上げる。
「かざりせんぱ――」
パタリと扉が閉まる。そこにはもう飾先輩の姿はなかった。
芽森は口をあけたまま、その扉を見つめていた。仲間ちゃんはその様子を見届けると、ゆっくりと腰を上げる。
「そんじゃー私も帰ろうかなー」
「美夏!」
芽森はすぐ仲間ちゃんに向き直って、そのままがばっと抱きついた。
「帰っちゃやだ……帰らないでよ、美夏」
もう芽森は泣いていた。今朝仲間ちゃんが芽森に抱きついたときとは、間逆の構図である。
「あはは、困ったなぁ……」
「あたし、もう耐えられない……みんながあたしのこと忘れちゃうなんて……耐えられない」
赤裸々に、芽森は自分の心境を吐露する。
芽森が自分を忘れてしまうこと前提で話しているのは、そう思っていないと、いざ呪いが解けなかったときに耐えられないからなんだろう。まるで自分に暗示するかのように……。
「私が芽森ちゃんのこと忘れるわけないじゃん。友達、いや、親友なんだから! これからもずっとね! それ以上の理由はいらないよ!」
俺は思う。この台詞を仲間ちゃん以外の人が言うと、薄っぺらくて、押し付けがましいものになっていまうだろう。だが仲間ちゃんの場合、迷いなどなく、ひたすら、心の底から芽森のことを親友だと思っている。だからこそ芽森にも言葉が届くんじゃないだろうか。
「ん……」
芽森が脱力したのがわかった。その隙に仲間ちゃんはするりと逃れて、そのまま優しく芽森の頭を撫でる。
「じゃあまた明日ね。芽森ちゃん」
いつもの帰り道。もうすぐ駅に着く。そしたら俺も芽森と別れなければならない。
隣を歩く芽森はさっきから黙っている。言葉を探しているようには見えず、ただただ気を落としているようだ。
「そういやさ――」
そんな芽森に、俺は無理やり話題を振る。
「なんで俺のことずっと『栗山』って呼んでんの? まあ別にそのままでもいいんだけど」
芽森は俺をじとっとした目で一瞥して、
「それって今する話かしら……」
「……悪い」
「まあいいわ……栗山を下の名前で呼んじゃうと、いざというとき、あたしは呼び方を一々リセットしなきゃいけないでしょ? いきなり異性を下で名前を呼ぶのは、やっぱりハードルが高いからさ。それがなんか……嫌なのよ……。その点、美夏の場合は女友達だから、リセットされても、もう一度『美夏』って呼び始めるはそう難しくもないんだけどね……」
「なるほど……そうだったのか……」
それは生々しい理由だった。
芽森が言う『いざというとき』とは、『俺が芽森を忘れたとき』のことだろう。
……やはり芽森は自分が忘れられることを前提に生活している。そう思わせてしまうのが誰の責任なのかと誰かに問えば、確実に『俺の責任』か『誰も責任でもない』の二択になる。そして俺は自分の責任だと思っている。
「なんか、ごめん」
もはや、俺は何について謝っているのかわからなくなってきた。ついでに考えすぎて頭が痛い。
そして芽森は何故か少し怒った顔をこちらに向ける。
「もうっ、いきなりしょんぼりしないでよ! こんなときに!」
「……いや、さっきまでしょんぼりしてたのはお前じゃんか」
「あたしはもう平気なの! だから栗山も平気になって!」
「滅茶苦茶だなおい! つーか俺は元々しょんぼりなんてしていない!」
「はんっ、どうかしら? どーせあたしの呪いのこと考えすぎて、思いつめてるんでしょ?」
「んなわけあるか。大体、俺はお前のこと覚えてる気満々だっつーの!」
ふと、俺は言い合いながら涙が出そうになった。
それを誤魔化すように周りを確認すると、いつの間にか駅に着いていた。後はもう、それぞれが別の路線の乗り場に行くだけなので、芽森とはここで別れることになる。
「そこまで言うなら約束ね」
そんな言葉が聞こえたので、俺は涙をこらえて身構える。
「次会ったときあたしのこと覚えてなかったら、思いっ切りひっぱたくから」
俺は声が震えないように、力強く言う。
「ああ、望むところだ」
「ん、よろしい」
そして芽森は屈託なく笑った。呪いなんて関係なく、この笑顔だけは脳に焼き付けてかなければならないと思った。
「じゃあね栗山、また明日」
「また明日」
普段よりも少しだけかしこまった挨拶を交わし、俺たちはそれぞれの乗り場に向かった。
否応無くやってくる明日を、希望を持って迎えるために。
時刻は午後の十一時二十三分。
日付が変わった瞬間に、俺を含む芽森に関わった全ての人々の脳は、一気に書き換えられることになっている。それについては芽森の呪いが解けようが解けまいが同じことだ。
俺は自分の部屋で椅子に座り、ボーッと天井を見上げていた。
……もう寝るか。
風呂には入ったし、宿題もしたし、歯も磨いた。もうやることはない。日付が変わる瞬間に一体どんな感覚に襲われるのか考えるとなんだか怖いし、その前に意識を閉じてしまいたい。
俺は電気を消して、ベッドに寝転び、夏用の薄い掛け布団を手繰り寄せる。
そして目を閉じる。少し暑いけど、今日はクーラーをつけなくても寝苦しく感じるほどではなさそうだ。
明日芽森に会ったら、どんな顔でどんなことを言おう。
意識が、徐々に薄くなっていく感覚が自分でなんとなくわかった。今日はよく眠れそうだ。
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