(8)
今日は曇りだった。
曇り空は、小説やドラマだと嫌なことが起こる前兆の演出として用いられることが多い。現実の世界ではその例に漏れてほしいものだ。
別にそこまで不安になるようなことでもないはずなのに、俺はそんなことを考えていた。
六月二十六日木曜日、芽森が風邪で学校を休んだ。
「この時期に風邪ってのも珍しいよなあ」
「そうだよねー」
朝のホームルームを終えた教室で、俺と仲間ちゃんが芽森の机を眺めながら口々に言った。
芽森が学校を休んだ理由を知ったのは、担任の篠崎先生の言葉を聞いたときだった。つまり、芽森から俺への直接の連絡はない。それが俺をどこか不安にさせる理由なのかもしれない。
「仲間ちゃんは、芽森からメールとかきた?」
「ないんだよねぇそれが。まあでも、変に心配かけたくないから私たちに連絡しないって腺もあるけど」
「そうだといいんだがな……」
右隣の仲間ちゃんは自分の机にぺたっと右頬をくっつけると、急ににんまりして口を開く。
「ふふ、やっぱクリ坊は芽森ちゃんの彼氏だね」
「な、なんだよ急に」
「風邪ってだけでこんなに心配してるんだもん。そういうところが恋人っぽいなーって感じがしてさ」
「別に心配ってわけじゃ……なんつーかこれは、少し気になるっていうか……」
「それって心配以外の何者でもないと思うよ。少し前までの私なら、こんな状況を『羨ましいなー』なんて思っちゃったかも」
仲間ちゃんは続けて「たはは」と笑う。こんなことが言えるなんて、やはり夏が近い仲間ちゃんは油断できない。
「…………」
俺は言葉が見つからず、黙ってしまった。
俺と芽森が付き合い始めても、俺と仲間ちゃんとの人間関係は変わらなかった。
この先、どんなことがあっても仲間ちゃんだけは俺との接し方を変えないだろう。そんな気がする。
それについてはもう、感謝してもしきれないわけで。
「なんか……サンキューな、仲間ちゃん」
「ふむ、どういたしまして。……ていうか、お礼言うの遅いよ」
チャイムが鳴って、俺と仲間ちゃんは一時間目の準備を始めた。
今日は黒板見ても視界の端には芽森はいない。それを思うだけでもどこか寂しいものがあった。
その日の部活を終えると、俺は芽森の住む脳解寺に来ていた。
たかが風邪程度でお見舞いに行くのはおかしいのかも知れない。別に彼氏としての使命感なんてないけど、俺が行きたいと思っているんだから仕方がないだろう。
行く前に芽森に『お見舞いに行ってもいいか?』と、メールしたけど、返信はない。そしてまた少し不安が募った。
本堂の横にある住居の前までついた。意を決して玄関のインターフォンを押す。
十秒ほど待つと、スピーカーがプツッと鳴って、およそ二ヶ月ぶりの声が聞こえてきた。
『はい』
「栗山です。黒野さんですよね?」
俺が言うと、何故か少し間が空いた。
『ああ、そうだ』
「お久しぶりです。あの、芽森が風邪っていうんでお見舞いにきたんですけど、上がっちゃ駄目ですか?」
そこでまた間が空く。何か考え事でもしているのだろうか。
『別にいいが……今開けるからちょっと待っててくれ』
少し待つと、玄関のドアが開く。
「こんにちは」
「まあ上がってくれ」
そう言う黒野さんの顔には、はっきりと疲れがうかがえた。顔から上の毛は眉毛とまつ毛くらいしか残っていないので、クマの黒さが目立った。
通されたのは芽森の部屋ではなくて、前にも来たことのある六畳の居間だった。
「茶淹れるから待ってろ。適当に座っててくれ」
「あ、はい。ありがとうございます」
黒野さんは居間を後にしたが、芽森を呼ぶ気配がないように思えた。俺はとりあえず座布団のひとつに腰を下ろす。
しばらくすると、黒野さんが俺とちゃぶ台を挟んで座る。持ってきた湯のみは二つだけだった。
「芽森なら、今自分の部屋で寝てる」
「そう、ですか」
なにやら空気が重く感じる。
黒野さんが芽森を呼ばないのは、芽森の休養のためだろうか? でもそれだと、俺をここまで連れてきた意味がない。
俺は黒野さんが次にどういう行動をとるのか気になってしょうがなかった。すると、おもむろに目の前の口が開く。
「お前には本当のことを言っておくが」
俺は身構えた。どんな言葉がきてもいいように。
「芽森が学校を休んだ理由は、風邪じゃない」
その瞬間、きゅっと胃が絞めつけられるような感覚が襲った。今しがた身構えた意味はまったくないものになってしまった。
「どういう、ことですか?」
おそるおそる、というのは正にこのことだった。
芽森が風邪以外の理由で休むとなると、やはり呪いが関係しているのだろう。芽森に関わった全ての人物の記憶を書き換え、芽森の存在を示す全てのものが消失する、壮大で凶悪な呪い。それに関することが簡単なものであるはずがない。
黒野さんは疲れた顔を俺に向ける。
「このままだと芽森の呪いは解けそうにないからな、俺は昨日から今日にかけて一晩中、本堂で芽森の厄を祓っていた。もちろん芽森も一緒にな」
俺は言葉の意味がわからなかった。わからないことがたまらなく怖かった。
「え……何を言ってるんですか? 解けそうにない?」
黒野さんは俺の疑問を無視して話す。
「手を抜かない本気の『厄祓い』ってのはな、する方もされる方の相当体力を使うんだ。だから今の芽森は疲弊しきっている。それが学校を休んだ本当の理由だ」
「ちょ、ちょっと待ってください。言ってる意味がわかりません!」
厄祓い? 疲弊してる? 何でそんな話になってるんだ。
黒野さんは「はぁ……」とため息を吐くと、めんどくさそうに真相を話す。
「芽森の呪いに関してお前に頼ることをやめた。それだけだ」
「頼ることをやめたって……俺はもう必要ないってことですか? でも黒野さん言ったじゃないですか『栗山に全てがかかってると言っても過言じゃない』って、『俺には助言くらいしかできない』って!」
黒野さんは頭をガリガリ掻いて話す。
「そういう言葉はな、こんな風にどうしようもなくなった場合を考慮しないで考えた場合の言葉だ。もうお前には頼らねぇ」
……何から何まで納得いかなかった。
俺は芽森のことを想っていないと言いたいのか? まったく俺の海馬に、芽森の存在が焼きついていないと言いたいのか?
それらの質問を口に出すのをぐっとこらえて、俺は重要なことから質問する。
「……それで、その『厄祓い』っていうのは後何回やるんですか?」
「はっきりとはわからんな。十回で済むかもしれんないし、百回やっても終わらない可能性だってある」
「な……」
その言葉が意味するのは、『最低でも後十回程度はやる』ということだった。芽森が疲れて学校を休むほどのことを、後十回も……。
「お前の言いたいことはわかる。だがいつになるかはわからんが、続けていけば確実に結果は出る。それに、いいか栗山? 厄祓いってのはなるべく間隔を空けず、畳み掛けるようにやるものなんだ。だから芽森の体力が持たせながら、短期間で何度もやるし、しばらく学校を休むことになる」
「そ、そんな……痛めつけるようなこと……」
胸にも腹にもはっきりとした痛みが襲ってきた。芽森が苦しんでいるという事実を受け入れたくなかった。
「くっ」
痛みに耐え切れず、無意識に体が動いた。しかし、後一歩で居間を出られるところで、手首をつかまれてしまう。
「どこへ行く気だ」
「決まってるでしょ、芽森の所です」
俺の左手首には、その大柄な体格に似つかわしい握力がこめられているのがわかる。だが、胸や腹ほど痛くはなかった。
「それは駄目だ。お前と会話できるような状態じゃない」
さらにズキンと胸が痛んだ。何だそれ? 完全に虐待じゃないか。
「芽森を、いじめないでくださいよ」
「何だと?」
黒野さんの口調が威圧的なものに変わった。俺は怯まず、黒野さんに向き直って言葉を続ける。
「芽森をいじめないでください……それに、自分で言うのもなんですけど、俺は必死に芽森のことを想ってますよ。はっきりとはわからないですけどきっと海馬にも残ってます」
俺が言うと、黒野さんはギロッと俺を睨んだ。
「栗山ぁ、てめえ本当で言ってんのか? ふざけんなよ」
説教ではない、本気の大人の凄みは半端のない怖さだった。
「お前は知らないだろうが、今まで俺はお前から何度も同じような言葉を聞いてきた。結果、芽森の呪いは解けなかった……。結局お前は何も変わってねぇんだよクソガキ」
「ぐ……」
反論が思いつかなかった。義務感とか使命感とか、そんなものを放棄して、ただただ単純に芽森のことを想っているつもりだったのに……。
芽森の力になれないことが悔しくて涙が出そうだった。
「とにかくお前にはもう用がない。ここに上げたのはその話をするためってわけだ。それがわかったんならもう帰っていいぞ?」
黒野さんは首をくいっと動かす。
「……わかりました。今日はもう帰ります……だけど、このまま芽森をほっとくようなことは絶対にしませんので」
「勝手にしろ」
出されたきりお茶に背を向けて、俺は居間を後にした。
勝手にしろだって? その言葉、覚えといてもらいますからね。
六月二十七日金曜日、黒野さんの言ったとおり、今日も芽森は学校を休んだ。
「あらら、なんか長引いちゃってるね……」
ホームルームの最中、芽森の欠席を知った仲間ちゃんが、残念そうに声を漏らした。
このホームルームの時間、俺の頭に残ったのがその言葉だけだったのは、ずっと考え事をしていたからだ。
……黒野さんは一体何がしたいのだろう?
芽森の呪いを解きたいのはわかるけど、こんな風に芽森の身体を痛めつけるようなことをするなんて、やけになっているとしか思えない。
大体、厄祓いっていうのは具体的には何をするんだ? 神主がお払いするみたいな感じか? でもそれってお寺っていうより神社でやることだよな……。じゃあ、お経を延々と唱えるとか? まさか……棒で叩くようなことはしてないだろうな。
厄払いについて何も知らないからこそ、考えたくないことまで考えてしまう。
そして何より疑問なのは、黒野さんがどの時点で、何を持って、俺を見限ったのかわからないということだ。
「クリ坊」
「…………」
「おいおーい!」
隣に座った仲間ちゃんに右肩を押し引きされて、体が左右に揺れる。いつの間にかホームルームは終わっていたようだ。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「ねえ、クリ坊は芽森ちゃんと連絡とれてるの?」
その言葉が意味しているのは、仲間ちゃんが芽森と連絡をとれていないということだった。
「いや、とれてないな。昨日何回かメールしたんだけど……」
考えたくない可能性として、メールも打てないほど疲弊しているというのがあった。だから何らかの理由であえて無視していると思いたかった。
「私も多分クリ坊と同じ感じで、何回かメールしたんだけどまったく返事がなくて……それで何か急に不安になってきちゃって……ねえ、芽森ちゃん大丈夫かな?」
大丈夫……ではない。確実に。でも仲間ちゃんに心配をかけさせたくないから嘘をつこう。
その考えが不自然な間を生んでしまう。
「…………大丈夫だろ。たかが風邪だ」
仲間ちゃんは目を丸くしてこちらを見る。
「もしかしてクリ坊、何か知ってるの? さっきも何か考え事してたみたいだし。ねえ、クリ坊どうなの? ねえったら!」
「知らねぇよ!!」
自分でも驚くほどの大声が出た。クラスメイトが一斉に静まり返って、チラチラとこちらを見ているのがわかった。
仲間ちゃんは、あっけにとられたような顔をした後、しゅんとして顔を伏せる。
「わ、悪い仲間ちゃん、急に大声出して」
「……ん、いいよ。こっちこそごめんね、急に問いただすようなことして」
「…………」
仲間ちゃんの優しさが、俺には心苦しかった。このまま仲間ちゃんは何も知らなくていいのだろうか? そう問われれば確実にそうではない。仲間ちゃんは芽森の友達なのだから。
再び芽森のいない一時間目が始まる。ふと窓を見ると、いつの間にか雨が降っていた。
「何ぃ!? 今日もめもりんは休みなのか!?」
「はい、なんか風邪が長引いてるみたいで」
放課後の部室で俺が言うと、飾先輩は全身から力が抜けるように肩を落とした。
「そうか……それは残念だな」
それから俺はいつも通りの席に座って、いつも通りラノベを読む。
飾先輩は椅子に座って、なにやらコイントスの練習をしていて、仲間ちゃんがキーボードを叩く音がいつもより部室に響いている気がした。
急に頭が掻きたくなったので掻く。「はぁ……」と、ため息をつく。カタカタと貧乏ゆすりをする。
ふと、隣から声が聞こえてきた。
「栗山君。めもりんのことか?」
ピンッとコインを弾く飾先輩。
「……何のことですか?」
「さっきからやけに落ち着きがないようだが……っと、ふむ、表か。思った通りにはいかんな」
飾先輩がコインをキャッチしながら言った。
「別に、いつも通り過ごしているだけですけど」
「私を見くびるなよ?」
そう言って、コトッとコインをテーブルに置く飾先輩。百円玉だった。
「君はわかっているのだろうが、私は初めに訊いたのは『めもりんのことでそんなに落ち着きがないのか?』という意味だ。しかし君は、その質問には答えず、『いつも通り過ごしている』と言ったな? 『別に芽森のことじゃないです』と、言えばすむところをだ。回答を避けているようにしか思えん」
……なんなんだこの人。馬鹿のくせに、一著前に図星ついて。
「考えすぎですよ。そんな腹の探りあいみたいな会話をした覚えはありません。……じゃあ今言いますよ。別に芽森のことじゃないです」
「いやぁ、どうだろうなぁ……」
飾先輩はしたり顔だった。このまま退く気はないようだ。
「正直に言うと、私はめもりんのことが気になって仕方がないのだよ。何故なら昨日も今日もめもりんにメールをしたが一向に返事をよこさないからだ。そこでどうしたものかと考え、めもりんの彼氏である君を尋問してみることにしたんだ」
「そんなの勝手だし迷惑すぎます。やめてください」
俺の言葉には答えず、飾先輩は質問する。
「栗山君、君は何か知っているな?」
「……何言ってるんですか。もっと具体的にものを言ってもらえないと答えられませんよ。……あ、でも、飾先輩がそんなのもわからない馬鹿だっていうなら話は別ですけど」
「ほう……」
飾先輩は怒った顔をしなかった。
「仲間君」
「は、はい」
俺の前に座って、そしらぬ顔をしていた仲間ちゃんの体が跳ねた。
「まことに残念だが、どうやら我々はこの件に関して完全に部外者なようだ。……だがそれを悲しむことはない。同じ部室で同じ時間を共有してきた同士にも話せないこともあるだろう。だから栗山君は何も悪くはない。ただ根性も糞もないフヌケ野郎だったというだけの話だ」
なんだその安い煽り。それに無茶苦茶な物言いにもほどがある。もはや煽りにすらなっていないように思える。
「じゃあ――」
でも、安いからこそ、そんな簡単な言葉に言い負かされるのはいやだった。
「言いますよ全部。俺が芽森について知ってることを」
俺は言った通り、全てを二人に話した。
芽森の呪いのこと。虐待まがいの厄祓いで学校を休んでいること。そして俺たちと芽森がだいぶ前に出会っていたこと。
「我々は……以前からめもりんに出会っていたというのか……」
「な、なんか映画みたいな話になってきたね……」
飾先輩は唖然としていて、仲間ちゃんは苦笑いを浮かべていた。
「ぶっちゃけ、俺だってこんな夢物語みたいな話を完全に信じているわけないんです。でも、芽森はいつだって呪いを解こうと必死だったし、黒野さんだって無茶苦茶必死で……」
「ふむ、まずはその黒野とかいう住職の首根っこを掴んで、豚箱にぶち込むのが良さそうだな」
飾先輩はそう言って取り出したのは、スマホだった。
「ちょ、ちょっと待ってください! 何する気ですか?」
「決まっているだろう。警察に電話するんだ」
「いや、でも俺たちだけで大事にするのはちょっと……第一、虐待なのかというと凄く微妙なんで、警察が素直に動いてくれるかどうか」
「ええい! 君はその厄祓いとやらをやめさせたいんじゃないのか!?」
それは答えの出ていないことだった。
「……それが、自分でもよくわからないんです。でも、厄祓いを続けていけば確実に呪いは解けるわけですし、芽森の存在を海馬に焼き付けるなんていう、確実性のない方法よりそっちのほうが……」
「確実性ならある」
飾先輩はきっぱりとそう言い切った。ようやく俺と芽森の関係を理解してくれたのだろうか。
「私が、こんなにめもりんを想っているからな」
……そっちか。
その後の説得で、何とか警察には電話しないですんだ。
「仕方ない……だが次の月曜の時点でめもりんから何の音沙汰もなかったら、いい加減私も行動に移すからな」
「……はい」
解決策はまだないままだ。当然ように部室内の空気は悪くなった。仲間ちゃんがそんな空気を変えようとしたのか、おそるおそる口を開く。
「そ、それにしても、クリ坊と芽森ちゃんが前にも付き合っていたなんてねぇ。びっくりだよ」
「ああまったくだ。栗山君だけ爆発しろ」
「……ほっといてくださいよ」
それが今日最後の部員同士の会話だった。
俺は自分の部屋でボーッとしていた。
六月二十八日土曜日。机の上にある置時計を見るとデジタル表示で午後五時三十二分だった。
俺は今どんな行動を起こせばいいんだろう? ずっとそれを考えて、ずっと行動に起こせないでいる。要するに俺には行動力がなかった。そのせいで、ここ二日まともに眠れていない。
……俺は、本当に腰抜けだ。黒野さん言う通り、何も変わっちゃいない。
――そんな気だるい意識の片隅でスマホが鳴った。
手探りで見つけ出して、そのまま手に取る。そして画面を確認すると、思わずがばっと体を起こしてしまった。
「芽森……」
送信者の名前にはたしかに『芽森』と書いてあった。
無我夢中で内容を確認する。
『これから反町(たんまち)駅の前にきて』
次の瞬間には、俺は財布とスマホを持って部屋を飛び出していた。そのまま階段を一気に駆け下りる。
「ちょ、あんたどこ行くの? 血相変えて」
玄関で母親に声をかけられた。
「ちょっと友達と会ってくる!」
本当は彼女なわけだけど、今はそんなことどうでもいい。めんどくさい。
「夕飯はー?」
返事をしないで、家を飛び出した。
自転車で自宅の最寄り駅に向かう。反町駅とはその駅のことである。つまり芽森は俺の家の近くまで来ているということだ。
片手で運転しながら、スマホを操作し、『すぐいく』となんとか四文字打ち終えて、すぐさま送信する。そのままペダルに精一杯体重を乗せて、ひたすら漕ぐ。汗はかいたが、その作業は不思議なほどに疲れなかった。というか疲れる暇もない。
芽森に会える。これから起こるであろうそんな事実で、頭は一杯だった。
駅前に着くと、そこには一番見たかった後ろ姿があった。緑がかったセミロングが風に揺れている。
俺は自転車を本当にそのまま捨ててしまうように乗り捨てて、声をかける。
「芽森」
目の前の後ろ姿がゆっくりと振り向く。
「あ、久しぶり栗山。って言っても三日ぶりか」
顔を確認する。その笑顔はたしかに芽森のものだった。
……だがそれは、疲れきった笑顔だった。目の下に出来上がったクマが妙に生々しかった。よく見ると髪の毛にも艶がなく、全体的にぼさっとしているように見える。
芽森の健気さを感じて、俺の芽森に対する愛おしさや庇護欲を示す針は一気に振り切れてしまう。
「わっぷ」
次の瞬間には俺は芽森を全力で抱きしめていた。
「芽森……芽森……」
芽森の体温。芽森の匂い。何にも変えられない唯一無二の感覚がそこにはあった。
「く、栗山……くるし……」
「あ、ご、ごめん」
俺は慌てて芽森を開放した。芽森は「ふうっ……」小さく息を吐くと、「でも、会えて嬉しいわ」と言って笑った。
芽森の話を聞くと、黒野さんの言っていた通り、最近は暇さえあれば厄祓いを行っていたらしい。その内容は、正座してひたすら経を聞かされたり、自ら読んだり、何度も滝に打たれたり、火をつけた葉っぱの上を裸足で歩いたり、というものだった。
「終わった後はすっごく疲れてるんだけど、なんか変な感覚のせいで寝付けないことが多くて……。黒野さんは呪いが解けていってる証拠だって言うんだけどあまりに気持ち悪いのよね……なんか血管の中を虫が張ってるような……」
芽森は言いながら、ふるふると肩を震わせた。俺はその右肩に手を乗せる。
「無理に言わなくていい」
「ん……ありがと」
正直、聞いている俺のほうが無理だった。
……とにかく、もうその話を聞いて意思は固まった。
「芽森、もうあの寺には戻るな。一緒に逃げよう」
「……うん」
俺は自転車を押して歩き、芽森がその隣を歩く。今のところ当てはない。
ドラマや映画における愛の逃避行というのは、必ずと言っていいほど成功しない。そんなことは重々承知だが、この世界はドラマでも映画でもなく紛れもない現実だ。
それに、呪いさえ解けてしまえばもう芽森があの寺に住む必要はなくなるわけで、今日は六月の二十八日である。このままなんとか土日を切り抜けて、月曜に学校を休んで(もちろん無断で)、七月に入ってしまえばこちらの勝ちだ。
もちろんその時点で俺が芽森についての全てを思いだしていればの話だが。それについてはもう考えない。考えてもしょうがない。
……さて、どこに行くべきか。
この六月を乗り切るには、最低三回は寝泊りをしなければならない。俺と芽森の所持金的にはその余裕はあるのだが、条件的に足のつきにくい場所に泊まらなければならないというのがネックだった。
黒野さんが俺の家を知っているかどうかはわからないが、もし知っているなら、『俺の家周辺のビジネスホテル』なんて、すぐに足がつく。警察に電話でもされたら一発だろう。
となるとネットカフェか。
「なあ芽森、熟睡できないかもしれないけどネットカフ――」
「あ、あたしっ! ベッドで寝たい!」
「……お、おう、そうか。わかった」
即答された。むしろ食い気味だった。
でもまあそうだよな、芽森は相当疲れが溜まっているようだし、ちゃんとした寝床で寝たいのは当たり前か。俺の配慮が足りてなかった。反省。
「うーん、そうなると、ちょっと無理言ってでも誰かの家に泊まらせてもらうか……仲間ちゃんとか飾先輩あたりに」
芽森は「んー……」唸って、
「それはやめましょう。さすがに三泊は迷惑だと思うし、警察沙汰になったら迷惑なんてレベルじゃなくなるわ」
「まあ、たしかにな……」
依然として俺たちは当てもなく肩を並べて歩く。
唐突に芽森が「こっちの方はどうかしら」と言って、雑居ビルに挟まれた路地に入った。行く当てもないので俺はそのままついて行く。
すると、やたら西洋チックな建物が現れて、芽森はその前で足を止めた。ファンタジーの世界にある城の一部をそのまま借りてきたような風貌で、看板には宿泊料金のほかに休憩料金が明記してある。
……うん。どう見てもラブがつくホテルだった。
「あ、あの……芽森さん……?」
すがるように芽森を見る。すると、慌てたように口が開く。
「こ、こういうホテルなら黒野さんにもバレないんじゃないかしら? まさかここに泊まってるなんて思わないだろうし」
「えっと……」
たしかにそうかもしれないが……これはさすがに……。
「ほら、行きましょ?」
芽森は俺の手をやんわりと掴んで引く。
「だ、駄目だ駄目だ! いくらなんでもここは……他の場所を探そう!」
すると芽森は、少しだけ顔を伏せた後、真っ直ぐ俺に向き直って言う。
「いこ?」
その言葉の威力は絶大だった。
言葉だけじゃない。艶やかな表情や、やりなれていない仕草、絶妙な力加減で伝わる芽森の手の平の柔らかさ。それら全てが俺を魅了してやまなかった。
「う……」
堰を切ったように力が抜けていく。もはや逆らうのは不可能だった。
意識がしっかりしたものに戻るころには、俺はホテルの一室にいた。
受付で俺も芽森もどうしていいかわからず、かなりの時間を食ってしまったことは覚えているが、常に地に足が着かない感覚だった。
……こうやって見渡してみると、意外と普通の部屋だ。もっと薄暗くて、目に映るもののほとんどがピンクや紫なんじゃないかと想像していた。
何だこんなものかと油断した途端、当然のようにダブルベッドに置かれた二つの枕と、ガラスのテーブルの上にこれまた当然ように置かれた二つの正方形の小袋が目に入ってしまう。どうやらスタッフのお膳立ては完璧なようだ。
それらから全力で目を逸らした後、軽く咳払いして、俺は言う。
「とりあえずお前は座れよ。疲れてんだろ」
俺はテレビに向かい合った二人がけのソファーを顎で示した。
「う、うん……」
「お、俺、コンビニで適当に晩飯買ってくる!」
いたたまれなくなって、俺は逃げるように部屋を後にした。芽森に何が食べたいかぐらいは聞いておくべきだった気がする。
「どうしてこうなった、どうしてこうなった、どうしてこうなった、どうしてこうなった、どうしてこうなった、どうしてこうなった、どうしてこうなった――」
ロビーへ降りるエレベーターの中で俺はひたすら呟いた。
……いやいや、まだどうにもなっていないし、これから何か起こるわけでもないんだ。落ち着けよ俺。
二人で夕食を食べ終えて、芽森はバスルームに入った。
シャワーの音が生々しく部屋に響く。
何もしなければ部屋からガラスを通してバスルームの様子は丸見えなのだが、そのガラス窓にカーテンをかけられるようになっていた。助かったような少し残念なような……。
俺は雑念を払うように、「ふうっ」と文字通り一息ついて、スマホを操作する。『七月まで友達の家に泊まる。学校にはちゃんと行くから』。そんな嘘八百の文面を母に送信した。
しばらくすると、バスローブ姿の芽森がバスルームから出てきた。
「はー、案外いいお湯だったわ」
……俺は思わず喉を鳴らしてしまう。そこまで露出が多いわけでもないのに、バスローブという格好はやはり背徳的すぎる。要するに、こっちまでいけない気持ちになる。
「……あんまりジロジロ見ないでよ」
「ご、ごめん」
芽森は恥ずかしそうに身をよじる。この場所でその格好で、そういう仕草は本当にやめて欲しい。マジで理性飛ぶから。
「じゃ、じゃあ、次俺入るから」
口から言葉を出して、無理やり理性を保つ。
そしてバスルームに入ると、奇妙なものを見つけた。
あれれーおかしいぞー? 何でこの椅子、漢字の『凹』みたいな形してるんだろー。
……うん。これは見なかったことにしよう。
俺が先ほど買ったTシャツとステテコの格好でバスルームを出ると、芽森はまだ起きていた。
バスローブ姿でベッドの上にうつ伏せになって頭を上げ、スマホをいじっている。その姿勢のおかげで露になった胸元には……残念なことにあまり目がいかなかった。いいんだぞ芽森。俺は別に小さくたって気にしない。
髪を乾かして、歯を磨いた。後はもう寝るだけだ。
ちなみに俺はソファーで寝ることになっている。こればっかりはしょうがない。
シャワーを浴びたら、さっきまでのそわそわした気持ちは大分落ち着きを取り戻した。
よし、この流れなら寝られる。そう思って、ヘッドパネルの『全消灯』のボタンに手を添えて芽森に呼びかける。
「じゃあ、電気消すぞー?」
「……手、出さないんだ」
ポチッと電気を消す。
……ん? あれ? ちょっと待て? 俺たちってたしか、付き合ってるんだよな? それに今……芽森のやつ何て言った?
ポチッと電気をつける。
「……出してもいいのか?」
俺の言葉を聞いた芽森は、恐怖の混じったすまし顔をして、おそるおそる質問を返す。
「いいって言ったら、栗山はどうするの?」
「そ、それは……わかんない……けど……」
無意識に、いや、確実にはっきりとした意識を持ったまま、俺は芽森に身を寄せていく。その間、自分でも怖いくらい芽森から目が離せなかった。
芽森は体を起こして小さく震えていた。覚悟を決めようとしているのかもしれない。
俺はベッドに座る。芽森は何も言わない。
そしてひたすら見詰め合う。その時間が長いのか短いのかよくわからない。それくらい不思議な時間だった。
「ん……」
いつの間にか、お互いの顔の距離はゼロになっていた。芽森の唇は信じられないほど柔らかくて、このまま眠りについてしまいそうなほど心地いい。
だが、息が苦しくなって離れる。芽森の顔を見ると、儚げな表情を浮かべ潤んだ瞳で真っ直ぐこちらを見つめていた。俺は、抑えきれなかった愛しさが口から漏れてしまう。
「芽森……お前、どうしてこんなにかわいいんだよ……。絶対守ってやるから……」
「栗山、あたし、こんな気持ち初めて……」
噛み合わないやりとりをしてから、再び唇を重ねた。
俺は芽森の背中に右手を回して、ゆっくりとさする。左手は、芽森の右手の指と絡み合っていた。
そういえばさっきのはファーストキスだったなぁ。こんな場所だけど、芽森とできて良かった。今になってそれに気づく。
先ほどのものより、少しだけ長い時間が過ぎた。
このままくっつけていると、間違って舌を入れてしまうかも知れない。これはファーストキスじゃないんだし、そういうのもいいかもしれないが……いや、やめておこう。
お互いの顔が離れる。
そして俺たちは、みたび見詰め合った。
『――結局お前は何も変わってねぇんだよクソガキ』
ふと、黒野さんのそんな言葉が頭をよぎった。
変わってない? ああそうだ、俺は今だって何も変わっちゃいない。絶賛クソガキ中だ。
だったら今から変わってやる。まともなガキになってやる。変わりすぎて後で吠え面かかないでくださいよ?
自分がムキになっているのはわかっている。でも、俺は頭が良くないから、ムキになるという選択でしか意思を示せなかった。
呼吸を整えてから、俺は芽森に向き直って、
「芽森……いいか?」
「いい……わよ……」
芽森は顔を背けて、たしかにそう言った。
「栗山が……その……脱がして……自分で脱ぐの恥ずかしい……から」
「あ、ああ……」
俺は芽森のバスローブに手をかけた。すると芽森が声を漏らす。
「や」
「や?」
「やっぱりまだ、心の準備がああああああああ!!」
芽森は、叫びながら思い切り俺を突っぱねた。俺はベッドから転げ落ちて、壁に頭を打ち付けたようで、痺れるような痛みが後頭部に走った。
俺は今にもなくなりそうな意識の中で言う。
ですよねー。
「そういうことじゃないと思うのよ! やっぱり黒野さん間違ってる!」
芽森はベッドの上で声を上げつつ、全力でスマホを操作する。なにやら文字を打っているようだ。
「いや、どういうことだよ……頭いてぇ」
俺はあきれ気味に言った。
「あ、ごめん。もしかしてコブになっちゃったかしら?」
芽森が手を止めて、そのまま俺の頭を優しくなでる。ドキドキはするが、もう理性は飛びそうにない。
「ん、いや大丈夫。つーか、こっちこそごめん。芽森すごく疲れてるはずなのに、あんな風に、無理やり迫ったりして……」
「それはいいわよ。あたしだって一度はオーケーしたんだし……」
少しの間、沈黙が流れる。
「もう寝ましょう?」
「……そうするか」
俺は言った後、ヘッドパネルに手を添えて、再び口を開く。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
電気を消して、俺は暗がりの中ソファーに向かった。
ちゅんちゅん。
どうやら朝になったようだ。スズメが鳴いているが、いわゆる朝チュンというものではない。
「ふあっ……」
時計を見る前にベッドに顔を向けると、芽森はすやすや眠っていた。この寝顔を忘れるのはちょっと無理そうだ。
どこかで朝飯を食べた後、どこかで時間を潰そう。そう芽森に話して、俺たちは自動精算機で会計を済ませホテルを出た。
ホテルの前に止めた自転車に手をかけて、サイドスタンドを蹴ろうと顔を伏せたその時だった。
「よぉ、お二人さん」
俺が顔を上げると、今一番見たくない顔がそこにはあった。
「な……」
Tシャツにジーンズというラフな洋服に身を包み、したり顔で立っていたのは、紛れもなく黒野さんだった。
何故ここが分かったんだろう? なんにせよここで芽森を渡してしまったら完全にゲームオーバーだ。俺は急いで芽森の前に回りこんで、端的に言う。
「芽森は返しませんよ」
黒野さんは何故か怪訝な顔をして黙り込む。それは怖い沈黙だった。
「……あーそうか。まだそういうことになってんのか。言っとけよな芽森」
「ごめんなさい。黒野さんが説明してくれるなら、それでいいと思ってたから」
芽森は続けて笑った。俺はその笑顔が理解できなかった。というか、この状況そのものが理解できなかった。
「え……?」
俺が困惑していると、黒野さんはゆっくりと口を開く。
「栗山。俺は芽森と組んでお前を騙していた。すまんな」
「は……? え……?」
たくさんの疑問符が頭の中を支配する。本当に何もわからないので「ど、どういうことですか?」と質問するしかなかった。
すると黒野さんはあっけらかんと答える。
「とりあえず、厄祓いについての話は全部嘘だ。というかそんなもんやったこともねぇ」
「な……」
俺は唖然とした。
「……芽森。本当か?」
「ほんとよ。今まで騙しててごめん」
……芽森がこう言っているということは、嘘ということが真実なのだろう。それを理解した途端、俺は肩から力が抜けるようだった。
「な、なんだ……」
でもそうだとすると、色々と疑問も出てくる。
「でも、芽森も黒野さんもあんなに疲れた顔をしていたのに、ですか?」
黒野さんはタバコの箱を取り出して、その中の一本を口にくわえてライターで火をつける。
「俺の場合のあれは、お前がうちを訪ねてきたときに、信憑性が増すようにするための演出だな。適当に断食して、適当に睡眠時間を削っただけだ。芽森の場合は……何だったっけな?」
適当に断食って。なんていうか、さすが住職。
「あたしは、初めは演出のつもりなんてなかったし、普通に徹夜してただけよ。録りためてたアニメ観たり、ひたすらネットサーフィンしたりして……まあ、引きこもりみたいな生活だったけど、案外楽しかったかな」
楽しかったのかよ! 心配して損したよ!
……まあいい、もっと重要な疑問がある。
「一体、黒野さんはなんのためにそんなことを?」
黒野さんは天に煙を吐き出して、答える。
「前提として言っとくけどな、先日俺はお前について思ってることを話したが、あれは八割がた俺の本心だ。クソガキとまでは思っちゃいねぇが、どうしようもねぇ腰抜けのガキだとは思っている。今もだ」
どっちにしろ、ひどい言われようだ……。
「このままだと本当に芽森の呪いは解けない。だから俺は、お前を煽りに煽って焚き付けることにした。お前があの日うちを訪ねてこなかったら、電話してでも煽るつもりだった。腰抜けの腰を上げるためにな。……まあ、警察に通報されてたら本当にまずかったが」
「そう、だったんですか」
軽々しく黒野さんは言うけれど、警察に通報して、もしそれが上手くいってしまっていたなら、黒野さんは社会的地位を失ってしまっていただろう。それだけのリスクを負っての行動だったのだ。芽森のための自己犠牲をいとわない、とても度胸のいる行動。俺にはちょっと真似できそうにないレベルの。
……そうかなるほど。今思うと、あの時の黒野さんの『勝手にしろ』という言葉は、力ずくなら芽森を好きにしていいという許可だったのかもしれない。
「ところがお前は真性の腰抜けだったようで――」
「ぐっ」
はい、否定できません。
「昨日も一昨日も何の行動も起こしやしない。だから俺は、芽森をお前のところに向かわせた。なんか疲れた顔していから丁度よかったんでな。……そういや、芽森は芽森で相当やる気があったみたいで、『いけるところまでいくわ!』って意気込んでたな。『ゴムって向こうにあるのかしら』とかなんとか……。そういうつもりで向かわせるつもりじゃなかったんだが」
「く、黒野さん! 勘違いに気づいてたんなら指摘してよ! ていうか、後者のやつは言ってないわよ!」
思わず赤面する芽森。かわいい。
「勘違いしてた方が結果的に上手くいくそうだったから黙ってた。……というのは建前で、面白くなりそうだから黙ってた。すまんな」
ニヤニヤしながら黒野さんが言った。それを聞いた芽森は「もー……」と声を漏らして、言葉を続ける。
「た、たしかに、あたしは昨日から覚悟してたけど、……その、結局色々あって、海馬に記憶を焼き付けるっていうのはそういうことじゃないと思ったのよ。だからあたしは黒野さんに中止することをメールしたの。黒野さんはすぐに了承してくれたわ。それで今日に至るわけ」
「なるほど……」
全ての点と線が繋がったというか、パズルの最後のピースがはまったというか……。
とにかく今は安堵していいと思った。
「はぁ……良かった……」
――でも出来るなら。出来ることなら。この夢物語のような芽森の呪いそのものが嘘であってほしい。そう淡い期待せずにはいられない。
だから俺は、すがるように黒野さんの次の言葉を待った。
黒野さんは携帯灰皿に煙草を押し付け、顔を上げて言う。
「これで話は終わりだ。帰ろう」
……まあ、そりゃそうだよな。
俺は苦笑しながら言う。
「はい。帰りましょう」
黒野さんが前を歩き、俺と芽森が肩を並べて歩く。押す自転車がカラカラと鳴る。
今日は日曜日にふさわしい晴天だった。それに、この季節のわりには今日は空気が乾いている気がする。朝特有のすがすがしい空気もあいまって、とても心地よかった。
――俺は、俺の記憶の中で初めて黒野さんに会ったころのことを思い出す。黒野さんは、『俺には助言くらいしかできない』と言っていた。やはりこの言葉は大嘘だ。
これだけ芽森のことを考えて、結論が出たら迷わず行動に移すことができる。その思いは、ちっぽけな恋愛感情なんよりよっぽど尊いはずだ。だからこの人の海馬に芽森のことを焼き付けても意味がないというのは、なんとも残酷な運命だと思う。
そのことを俺よりも、誰よりもわかっているはずなのに、黒野さんは芽森のために奔走することをやめない。
ここから見える背中は大きいなんてもんじゃなかった。
二人と別れる直前、俺は黒野さんに声をかける。
「あの」
「なんだ?」
俺は気をつけして、体を折りながら叫ぶように言う。
「この度は、ありがとうございました!」
黒野さんは頭を掻いて、
「まあ、今回のこれで七月に呪いが解けるかといえば、正直なんとも言えねえからな。だから礼は全てが解決したときにとっとけ。今のは聞かなかったことにする」
「……はい。ありが――」
「だから言うなバカ」
バシッと頭を叩かれた。
「いつっ、すいません」
二人と別れた後、自転車を押して俺は帰路につく。
そういえば、仲間ちゃんと飾先輩に事の顛末を伝えないとな。後でメールしよう。
なんとなくそんなことを考えた。
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