(7)
中間テストを終えると、すぐに六月になった。
今日六月二日月曜は衣替えの日だ。俺は今年初めて、半袖のYシャツに袖を通し、薄手のスラックスを履いて登校した。
「体かるーい! ブーン!」
夏の化身こと仲間美夏は、ブレザーから解放されて本来の姿を取り戻したようで、教室で両手を伸ばした飛行機のポーズではしゃぐ。
「はぁ……はぁ……待ってよ美夏……ていうかコレ何の遊び?」
その後を同じポーズで追いかける芽森。なんだこれ。
そして俺の机の前には野郎が一人いた。川原だった。
「それにしても、栗山と三枝さんが付き合うことになるとはなぁ」
「……いつまでその話してんだよ」
「最近気づいたんだけどさ、お前が三枝さんと付き合い始めたのって、多分出会って一ヶ月もたってないころだろ? 手がはえーんだよまったく。爆死しろよまったく」
バカお前、芽森にためを考えたら手は早いほうがいいんだよ! だいたい、俺と芽森は前にも付き合ってたんだぞ? これはなるようになった結果だっつーの!
と、言えるわけがないので、俺は黙った。
「そういや、お前らってもうキスしたんか?」
「つっ……えっと」
俺が言葉に詰まると何故か川原は急に顔を引きつらせる。
「ま、まさかそれ以上のことしちゃってるわけ……?」
「してねーよ! ……後、キスもな」
……実のところ俺と芽森は恋人らしいことをまだ殆どしていない。キスどころか、手を繋いですらいない。
芽森の境遇を考えると、それが良くないということはわかっている。でも、付き合い始めた以上、後は俺の気持ちしだいであり、それ以上の結果を急ぐ必要はないのかもしれない。
「ほう、そりゃ初々しいことで」
川原はそこでニヤリと笑って、「三枝さーん!」と芽森を呼ぶ。嫌な予感しかしない。
「おい、何のつもりだ」
「いいから」
走り回っていた芽森は足を止めた後、両手を膝につく。仲間ちゃんはそのまま飛んでいってしまった。
「はぁ……はぁ……な、何よ……」
「悪いね急に呼び止めて。じゃあ単刀直入に聞くけどさ、こいつのどういうところが好きなの?」
そう言いながら川原はくいっと親指で俺を指す。
「あぅ……」
川原の言葉を聞いたとたん、見る見る顔を赤くする芽森。うわーかわいいぞこれ。
「ど、どういうところって……そりゃえっと……」
「芽森! 答えなくていいから!」
俺は四メートルほど離れた芽森に声をかけた。すると、すかさず川原が余計なことを言う。
「まあ答えづらかったら別にいいけど。何か栗山のやつがさぁ、もっと三枝さんともっとイチャイチャしたいらしいんよ。そこんとこよろしく」
「…………」
芽森は黙ってしまった。
そして俺はここで『そんなこと思ってねーよ!』とは言えない。それは芽森に対する拒絶を表す言葉だし、第一、俺自身イチャイチャしたいに決まっているし。
「い、いい加減にしろ! 余計なお世話だバカ!」
とりあえず俺はそう言いながら川原の頭を叩いた。
「いっつ……なんだよ、せっかく気をきかせてやったのに」
「それが余計なお世話だっつーの!」
そこまで怒ってはいないつもりだったが、顔は熱かった。多分照れのせいだ。
初夏を迎えた総文部の部室は若干蒸し暑かった。だが、この部室にはクーラーが無いので、今はまだまだマシな方だろう。
放課後、俺たち四人はいつも通りそれぞれが同じテーブルに向かっていた。ちなみに俺と芽森が付き合い始めた今でも、席の位置は以前と変わらない。
俺は明日提出の宿題をして、その前に座った仲間ちゃんはパソコンに向かって、隣の飾先輩はトランプタワーを建設していて、左前の芽森は本屋のカバーのついた文庫本を読んでいる。
……さっきから視界の端にチラチラと視線を感じる。それが誰のものかは最初からわかっているが。
俺は意を決して、芽森の方を見る。
目が合う。
「…………」「…………」
芽森は戸惑った顔をしていた。多分俺も。
ほのかに頬を染めて、真っ直ぐこちら見つめる芽森は、『何でこんなにかわいいの? ねえ何で?』と、問いただしてやりたいレベルのかわいさだった。
そんな気持ちを打ち消すように、俺は「コホン」と咳払いして、話す。
「……言っとくけど芽森、今日川原が言ってたこと気にしてるんなら、真に受けなくていいからな?」
「わ、わかってるわよ」
言って芽森は顔を伏せた。そして少し間をおいて言う。
「でも、てことはさ、栗山はさ……」
顔を上げる芽森。
「なんだよ……」
「あ、あたしと……その……イチャイチャしたくないってこと?」
「うがあああああ!!」
その声に反応して横を見ると、飾先輩がトランプタワーに正拳突きを繰り出していた。何枚かの散らばったトランプが俺の前までくる。
「甘ああああああい!! 甘すぎるぞ二人共!! 諸君はマックスコーヒーか!!」
仲間ちゃんはそんな飾先輩を見て「あはは……」と苦笑いを浮かべていた。
「んっ……」
芽森は自分の発言がどれほど恥ずかしいものだったのか悟ったようで、小さく声を漏らすと再び顔伏せた。
「い、いや、そんな甘くないと思いますよ。前にも言いましたけど、俺たちまだ何も恋人らしいことしてないっていうか……」
「馬鹿か君は! その初々しさが逆に甘いと言っているんだ! ……ん、いや、これは甘いというより甘酸っぱいというべきか? 訂正、諸君は酢豚か」
「えっと、たしかに酢豚は甘酸っぱいかもしれないですけど――」
「ええい! そんなことはどうでもいい!」
えー……。
「なぁめもりん! 目を醒ませ! 栗山君のような積極性のない男性と付き合ってもつまらんだろう?」
向かいに座った芽森に問いかける飾先輩。芽森は顔を上げないまま「そんなことは……」とつぶやく。
「……そうか、めもりんは誰でもいい誰かに愛されたいのだな? そうだな? そうに違いない! ならば私がいくらでも愛でてやるぞ!」
ガタッと席を立つ飾先輩。それとほぼ同時に芽森の体がびくっと跳ねた。
「ちょ、こないでください!」
「まあそう遠慮するな……ぐへへ」
飾先輩は両手の指をわきわきさせながら、問答無用で芽森に近づいていく。俺は自然と身体が動く。
「待ってください」
気づくと俺は、後ろから飾先輩の右肩を右手で掴んでいた。
「やめてくださいよ。芽森が嫌がってるじゃないですか」
「栗山……」
芽森のそんな呟きが聞こえた後、仲間ちゃんは「おー」と感心したようにパチパチと拍手した。飾先輩はくるっとこちらを振り返り苦虫を噛み潰したような顔をする。
「……この、彼氏面しおって」
「いや、彼氏ですけど?」
その一言が、飾先輩に火をつけたようだった。
「ほう……ふふ、そうきたか。よろしいわかった」
飾先輩の不適な笑顔は、何か遊びを思いついたときのそれだ。遊びの天才である飾先輩にとってみれば、戦いですら遊びの延長にすぎないのかもしれない。
「全面戦争といこうじゃないかね」
「望むところです」
飾先輩が提案した勝負は、腕相撲だった。
部室の隅にあった学習机を引っ張り出して、それにお互いの肘を置いて、がっちりと掴み合う。
「じゃあ腕相撲一回勝負で、勝った方は芽森ちゃんからほっぺにチューしてもらえる、ということでいいですね?」
レフェリー役を買って出た仲間ちゃんがそう確認しながら、掴み合った手の上に手のひらを置く。
「オーケーだ仲間君!」
「負けませんよ飾先輩!」
「ね、ねえ、いつの間にか決まっちゃったけどあたしに決定権はないわけ?」
この勝負、女子との戦いとはいえ決して油断できない。
何故なら俺は、飾先輩の運動神経が女子のそれとは思えないものだと知っている。だとすると腕力だって相当なものなのかもしれない。
「それじゃあ、始めますよ。レディー……ゴッ!」
仲間ちゃんが言いながら手のひらをどけると同時に、俺は出せる限りの力をこめた。
……よしいける。いけるぞ。ゆっくりとだが、お互いの右手は俺の左側へ傾いていく。
だが残り約四十度、そのとき、状況が変わった。
「な……」
動かない……だと……。
「へー、君の力ってそんなもんなんだ。案外たいしたことないんだね」
俺はこの口調に聞き覚えがある。リミッターを外した本気の飾先輩だ。
「かざりんのターン! いっくよー♪」
「ぐっ……」
ものすごい力によって、少しずつ右手は引き戻される。
……だがおかしい。飾先輩のリミッターを外すには、『愛でること』に全神経を集中させなければならない。腕相撲をやりながらそれが可能なのか?
「栗山君、君は『愛の力』ってあると思う?」
「は? 何言って……」
「おとぎ話だけの力なのかな? いや、かざりん違うと思う。事実、こうやってめもりんのことを想うだけで、力が溢れ出てきて止まらないわけだし!」
な、なるほど。飾先輩は愛でること放棄したわけではないのか。むしろそれに注力しているからこそ、これほどのパワーが出せるのかもしれない。
それと、この人はレズとかではないだろう……多分。まあ、あくまでマスコット的な愛情に度が過ぎてしまった結果、俺に嫉妬しているだけなんだと思う。
でもそれだって紛れもない愛の形の一つなわけで、その強大な愛の力に俺は飲み込まれようとしていた。
……万事休すか。
そのとき、耳に声が届く。
「栗山! 負けたら承知しないから!」
芽森の顔を見る余裕はなかった。
だが声だけで十分だ。
「んがあああああ! 負けねえええええ!」
「なっ!?」
愛の力だって? 考えてみれば、そんなものが存在するなら俺にだってあるに決まってんだろ。使えるもんは、なんだって使ってやる!
俺は全力をこめた。全力というのは常に出せるものじゃない。この勝負がスタートしたとき俺は全力ではなかったのかもしれない。
すでに右手は俺の右側につきそうだったが、なんとかスタート地点まで持ち直す。
「ど、どこにそんな力があるの!」
俺は黒野さんに頼まれたんだ。『仲良くしてやってくれ』、と。それは飾先輩の役目じゃない。
「芽森のことを想うのは俺の役目なんでねぇ!」
そのまま一気に勝負を終わらせにかかる。全力を出すことだけに全力なので、今どれほど右手が傾いているのかわからない。
「わ、わたしはこんな……こんなところで……」
つん。と、静かに飾先輩の右手の甲が、テーブルについた。
「では芽森ちゃん。勝者のクリ坊選手のほっぺにチューを!」
「ん……」
芽森は突っ立ったまま、お決まりの赤面を見せた。飾先輩は部室の隅に体育座りして、ぶうたれている。
「め、芽森。どうしてもしたくないってなら無理には――」
「おいおいクリ坊選手、何言ってんっすか」
仲間ちゃんがマイク代わりに使っていた蓋つきのサインペンで、俺のわき腹をぐりぐり。少し痛い。
芽森は厳かに口を開く。
「そ、そんなの……」
芽森はくわっと前を向いて、
「そんなの、出来るわけないでしょおおおおおおおおお!!」
部室を飛び出していってしまった。
「あらら……」「ざまぁ」
仲間ちゃんが呆れ気味に言って、飾先輩の得意げな声が聞こえた。
……うん、まあこうなるだろうなとは思ってたよ。
その日の帰り道、俺はいつもより気恥ずかしい感じで、芽森と肩を並べて歩く。
『いや、彼氏ですけど?』『芽森のことを想うのは俺の役目なんでねぇ!』
今日の自分の発言がフラッシュバックして、思わず頭を抱えてしまう。……ぐああああ何言ってんだ俺、恥ずかしいいいい。
「ねえ栗山……手、大丈夫?」
そう聞こえたので、気を取り直して右にいる芽森に顔を向けると、心配そうに俺の右手に視線を注いでいた。俺は頭から右手を下ろして見てみる。
「ん、大丈夫だよこれくらい。少し冷やしとけば」
あの勝負で俺の右手には多少痣がついてしまったけど、痛みはないし、問題ないだろう。
「ほんとに大丈夫かしら。ちょっと見せて?」
芽森はそう言って立ち止まり、半ば無理やり俺の右手を左手でとる。そしてそのまま芽森は左手に乗せた俺の右手を自身の右手でなでた。
「痛そう……」
「だ、だから大丈夫だって!」
おおふ、お、女の子の手ってこんなに柔らかいんですね。やばい、気持ちよすぎる。
そんな感じで、雑念に支配されかけたそのときだった。
――一瞬の出来事だった。右頬に感じたのは女の子の手とはまた違った柔らかさ、言うなれば未知の感触。
「え……え……」
何が起こったのかすぐはわからなかった。でも、その後の頬を赤くした芽森を見てなんとなく状況を察した。
「ご褒美は、ほっぺにチュー、なんでしょ?」
感涙ものだった。
「えっと、ありがとう」
思わずお礼を言ってしまう。
人通りがないとはいえ、嬉しさと恥ずかしさで死にそうだ。
「……ん、恥ずかしくて死にそうだわ」
芽森も同じ気持ちらしい。それもまた嬉しかった。
そういえば、飾先輩も右手に俺と同じぐらいのダメージを受けているはずだし、芽森のこんなことされたら本当に死んじゃうかもな。絶対させないけど。
すると芽森は厳かに口を開く。
「こ、このまま、手ぇ、繋いでていい?」
あ、俺もう死んでもいいや。
「いい、けど」
「じゃあ、駅までね」
「おう……よ、よろしくな」
右手に芽森の体温を感じながら、俺はタイミングを見計らって歩き出す。
自分が手汗をかいてしまうかもしれないことを考えると、初夏の蒸し暑さが恨めしかった。
それから駅で別れるまで、会話らしい会話はできなかった。
芽森の顔は真っ赤だし、俺も顔が熱かったし、駅近くまで行くと人通りも増えてきたしで、こういうのに慣れていない俺にとってみれば、会話するなんてレベルが高すぎる。芽森はある意味慣れているのかもしれないが(そうは見えないけど)。
でもこの時間のおかげでわかったこともあった。
うじうじする青春も案外悪くない。
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