沼地の宿屋の話

 どろどろどろどろどろがたん。がたん。繰り返し繰り返し。曇りの泥濘を行くゴムを履いた木の輪と輪。痩せた馬豚に曳かれるのは浮き彫り飾りの小さな客車。さぞ重たい中身なのだろう、車輪は深く沈んでいる。流出中心から近いこの町に影と持ち主の区別はつかず、朝と昼の区別もない。薄暗闇が立ち上がり、かの陽光は遠く聞こえる噂話、囲う沼地の気を吸って吐き、いつも乏しい油灯。

 宿屋はこの町に一軒しかないものだから、名前はなかった。あたりに他の町もないものだから、住民達はこの町をなんという名前でも呼んでいなかった。町はただの町だった。


「困るね」


 ピュービル博士はまばらで細長い顎髭を弄びながら、宿帳をめくりつつぼやいた。興味の光を少しも見せない丸い眼鏡越しの両目には、それでも何かの文字を取り込まないと退屈でしょうがないとも言っていた。


 禿げた頭で小柄で老いた宿屋の主人はそれにも一切構わないようだった。博士はそれを見て片眉を上げると、三週間前の頁を指でつまみ、隅を少しだけ裂いて見せ、そしてちらりと見上げた。


 宿屋の主人はそれにも一切構わないようだった。博士はため息をついて宿帳をたたむ。そこに豚馬車を停めたオオグルとキチゴが戻ってきた。簀巻きにした小柄な男を抱えていた。


「やあ、このオオグルは力が強い! おまけにいつも気もよく素直で朗らかだってんだから、こんなのに好かれる博士の人望ってのもいやあ大したもんです、才能も人望も稀代の宝物ですよ! ええ本当に……」

「そこから否定の接続詞が入って前言を翻し自分の手柄を自慢する段階に入るわけだな? 君の喋りにも大概うんざりしてきたよキチゴくん」


 オオグルに抱えられたまま暴れる男を少しも見ることなく、ピュービル博士は万年筆をくるくると回しながら、自慢気なキチゴを見て眉をしかめた。


「わたしも豊富な世辞を持っているわけでないし、それに貴重なそれをきみにくれてやるほど腹は太くないんだよ」

「ちょっと博士……」

「わたしの施してやった心霊手術で脳を精霊で増強させてすることが回りくどい言葉遊びか? きみの家のあの飼い猫を替わりに手術してやったほうがよかったかもしれんな」


 博士はそこで施術後の猫の姿を脳内で描きつつ、止めた万年筆を顎にあてて呟いた。


「本当にそれはいいかもしれないな。案外なにか喋りだすかもしれない。きみよりもマシなこととか」

「旦那さん。キチゴは今回は仕事してたよ。おれは見た」


 抱えた男を締め付けつけたまま、よく通る太い声でそう言うオオグルの焼けた左足を博士は見る。


「それは?」

「焼けた」

「なぜ?」

 

 オオグルはキチゴを横目で見た。


「おれのせいですか!?」


 キチゴの頭の手術跡から這い出してきた《生ける炎》がキチゴをじろりと睨むと、ぽん、と煙を残して消えた。

 キチゴはその跡を見てわざとらしいほどの大きなため息をつくと、博士をキッと睨んで指差した。


「あんたのせいでもあるでしょうが! こんなん埋め込んで!」


 それを見もせずに頬杖をつきながら宿帳の空きページへデタラメに万年筆で落書きをしていた博士は、最後に『何事も使いよう』、と付け足して、ページを閉じた。


                 ◆


 ズメトリヤ奉仕刑務所から脱走した心霊手術の第一人者ピュービル博士とその被験者オオグルは、一路流出中心へと向かって旅をしていた。概ねオオグルの体躯にまかせた脅しにより旅の足は調達していたが、ときおりピュービル博士がそのピュービル博士だと知ったうえで、心霊手術の提供を要求するものもいた。

 その時には博士は気前よく手術をしてやった。そのうちの一人が車盗人のキチゴであった。キチゴは豚馬車の窃盗と引き換えに、博士に心霊手術を要求したのであった。

 悲しむべきことはキチゴに教養が不足していたことであり、心霊手術のなんたるかを全く知らず、ただ『いい服を着ているやつらはみんなあの手術跡がある』との思いから、ケチな盗人から成り上がるためにピュービル博士にこの取引を持ちかけたのだった。

 そして当然博士の新式実験の犠牲となり、時折全身が燃え上がる身体になった彼はいい服を着るどころではなくなってしまったのであった。

 博士曰く、心霊手術は心霊手術なのだし、手術は成功したのだし、一切嘘をついた覚えはない、多少説明は急いだかもしれないが。そういうこともある。とのことであった。

 ピュービル博士の周りにはこういった、彼の手術を受けた者が集まるようになっていた。オオグルとキチゴがさらって来た男もその一人であった。


「さて……トロムくんだね? 元気そうで何よりだ」


 博士は椅子に縛られた男を観察していた。男は先程の暴れ様とは打って変わって、冷たい目をして博士を見返していた。


「術後も良好なようだ。よく動いている様子だね。喜ばしい、喜ばしい。それについては喜ばしいね。ただやっていることが良くない……」


 博士は一歩大きく足を踏み出すと、トロムに顔を近づけ睨みつけた。


「どうしてきみらはわたしの手術に報いようとしない……?」


 そして振り返りキチゴを万年筆で差す。


「"きみら"には"きみ"も入っているのだぞキチゴくん! せっかくただの盗人から逃れられるような手術をしてやったというのにそれでやるのが放火と火事場泥棒のあわせ技だと?」


 キチゴに向けて万年筆を何度も振りながら叫ぶようにして叱責は続いた。


「わたしの手術の価値と! それを受けてのきみらの行いの価値が! 釣り合って! いないんだよ! 全く! 経済が! 全然ね!」


 その間キチゴの全身に万年筆から飛んだインクのしぶきが飛び散っていた。キチゴはすっかりこれを避けようとするのは諦めていた。


「きみもだぞトロムくん。なぜきみは……その……」

「だって見たいじゃないですか」

「知らない婦女子の裸体をか!?」


 開き直ったトロムの顔に反省の色はなかった。


「だって見えるようにしたのはセンセイじゃないですか」

「わたしはそんなことをさせるためにきみの脳をかっ開いたのではない!」

「でも勝手にぼくの頭開いたのはセンセイじゃないですか」


 トロムはへらりと笑って続けた。


「路地裏で何かでぼくの頭ブン殴って」

「多分砂入った袋だ。あれは傷がつかないんだよな。おれもそうだった。おれの女も」


 太い声で懐かしむようにオオグルが言った。遠い目をしていた。


「息子にはその一発はいらなかった。あいつはおれと嫁の手術の最中に帰ってきちまったんだ。それでおれと嫁の開いた頭と血まみれの家と博士を見て気絶したもんだから……」


 高速稼働を始めたオオグルの脳内から低くブウウウウウウンと音がするとともに、彼の周囲に当時の光景の幻影が再生され始めた。博士はキチゴにブンブンと手振りをする。キチゴは苛立った顔をしながら速やかに手袋をはめ、半開きになったオオグルの口に手を突っ込み舌を持ち上げ、そこに鎮静剤を投与した。直に幻影は収まり、虚ろな目をしたオオグルが残った。


「全く。全く全く」


 ピュービル博士はうろうろと部屋を歩き回りながら言った。


「力を手に入れたのならなぜそれをより高みを得るために使わない? なぜ? わたしには理解できない! 降って湧いた力だぞ」

「ぼくの暮らしじゃあお目にかかれない女の裸体を見れたんすからあ、高みっちゃあ高みでしょう」


 それを聞いてキチゴは下品に笑い、トロムもあわせて笑った。ソファに深く沈んだピュービル博士は顔を手で覆い、悲しそうに何事か呟いていた。

 キチゴが突然笑いを止め、トロムにも口を閉じるよう合図する。そして言った。


「扉。何が見える」

「おと……こだ」


 トロムは額の円状手術跡から光を漏らしながらそう呻いた。


「キツい。よく……見えない。見たことがない。なんだこの……人か? 凄く光って……」


 施錠されたドアを開けようとする音がし始めた。


「ああおいまたか! おい、オオグルを起こせ! ケッシーはまだか!?」

「狩りに出てからしばらく経ちますからもうすぐでしょう」


 慌てる博士にキチゴはオオグルへ興奮剤を飲ませつつ言った。一瞬置いて卑しい目つきで博士を見る。


「あのう、わたしも一錠ばかしいただいても」

「きみ、前に興奮剤をやったときどうなったか覚えて……」


 ドアが吹き飛んできた。トロム目掛けて飛んできたそれをオオグルの巨体が背中で受け止める。戸口の向こうには宿屋の主人が立っていた。

 両目は威厳に輝いていた。それは厳かに宣言した。


「我はお前達をこの世に悪を為す者共と裁定した」


 老いて曲がった背中から燃える剣を二振り取り出した。


「かの流出により蘇りしときより、天と地のいくさも終わったというのに何の使命があったものかと考えていたが」


 老人は両手に正義の剣を構えて一同を眺め回した。


「それここにこそあり!」


 オオグルはソファごと博士を、縛り付けた椅子ごとトロムを抱えて燃える剣の切っ先から飛び退いた。博士はトロムの手術跡に銀の手術器具を突っ込みかき回している。そしてすばしっこく飛び回るキチゴを負って老人に部屋が破壊される雑音に負けぬよう声を張り上げた。


「どうだ! 読めたか!」

「読めない!」

「何!?」

「何か奴の上に文字が見えるけど読めない! 何語だよ!」

「ああなるほど教養が低いとそういう問題もあるのか……対処しなければな」


 新たな問題の発生に感心する博士にトロムは叫んだ。


「なんだよ! 何が書いてあるんだ!」

「名だよあいつの。あれはおそらく神話の前触れだから、名さえわかれば弱点も」

「どっちの教養が低いんだよ、どう見ても聖アルリエルだろ!」

「何? きみ、この手の問題に詳しいのか?」

「まあ、いや」


 トロムはあらぬ方向を向いて呟いた。


「覗き見の賜物というか……」

「なんとまあ。死後はせいぜい頑張ってくれたまえ。しかしかの裁きの人相手となると、そうだな。オオグルくん! 耳を!」

「どっちの耳がいい」

「近い方でよろしく」

「わかった」


 オオグルへピュービル博士は何事か囁く。その瞬間、裁きの剣がキチゴの身体を切り裂いた。裂け目からは生ける炎がはみ出て苦しげに踊りだす。その様を見て聖アルリエルは顔をしかめた。


「下賤! 汚れた炎よ!」

「人の腹切っといてそれはないでしょう旦那あ」


 生ける炎はキチゴの顔をいくつも作り、聖アルリエルにまとわりついた。


「いやあおみそれしました旦那、とても敵いませんや……。旦那はこんな炎じゃ焼けはしないのはわかっていますし、ここは一つやつらの弱点をお教えする替わりに何卒わたくしめを火種の一つにでも使っていただければ……」

「その裏切りが貴様の罪をより重くすることがわかっていてのことか! 恥を知るがよい」

「へへえ、しかし旦那様のお味方をすればその分秤の反対側も重くなるだろうってことでして……」

「貴様の罪は既に重すぎる! 散れ」


 聖アルリエルが轟音とともに足を踏み鳴らす。キチゴの炎は吹き散らされ、そこに老人の姿は無く、常人よりも頭三つほど背が高いすらりとした男の髪と肌は尊く冷たい金属の輝きを放っていた。

 

「罪深きものどもよ……貴様らに赦しはない!」


 罪深きものどもの跡はすでにどこにも見当たらなかった。裁きの人は怒りの叫びとともに一呼吸で宿屋を破壊した。

 憑依されていた宿屋の主人とともに、町唯一の宿屋は消滅し、程なくして名前のない町それ自体も滅んでいった。


                 ◆


「でそれが新入り?」


 豚馬車を走らせるケッシーは客車に向けて叫んだ。ゆったりとした馬賊の民族衣装に身を包んだ彼女はあくまで朗らかな顔をしていた。


「そうとも、ケッシー、そうとも。新入りだ。仲良くしてやってくれたまえ」

「まあ覗き魔って言いますけどねえ」


 博士の返事にキチゴは付け加えた。語学書に目を通していたトロムはじろりとキチゴに睨んだ。


「なんだよ本当のことだろ? 聖女様が趣味だってなあ」

「何、そうなの? じゃああたしは大丈夫じゃないのおお、おお、おお揺れたねえ!」


 疑問に思ったトロムは跳ねる客車からちらりとケッシーを透視した。肌の表面に走る邪悪な文様に睨み返され、トロムは慌てて目を背けた。透視が入ったままだったので、そのままオオグルの裸体を目にすることになってしまった。

 嘆き声をあげて膝と膝の間に頭を鎮めるトロムの様子を感じ取り、ケッシーは大声で笑いを上げた。彼女の頭の中には沢山の悪魔が詰め込まれていた。

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