聖人を裁く話

 大国の取締局役人パブチは対面した男を扱いかねていた。汗が顔から卑鉄製の尋問机に落ちた。確かに似ているしどう見てもそうとしか思えないのだが、しかし理性はあり得ないことと否定していた。想像もしていなかったのだ。


「おネえちゃんよお、お前こんなことしていいと思ってんのかよ。おれによお」


 思い描いていたとおりの深い色の声と声に相応しくない軽薄な口調。彼女はもともとはここにその高い身長を侮辱された際と同じほどの強い憤りをぶつけて相手の存在を否定するために来たのだった。かの人はそれほどまでに彼女の中で強い存在だったのだ。ここにいるのはその名前を騙る酔っぱらいか何かのはずで、それを好きなだけなじって殴って書面を取ってから叩き出せばすむだけのはずだった。


「竜貫きのゴオルギー様だぞおれはよ。今はお前、おネえちゃんの顔立ててこんな輪っかハメられてやってるけどなあ、なあ、なあ。知ってるだろ? 霊の棲んでない鉄なんてなんにもならんの。な? 話聞いてるだろ? な?」


 否定しようにも否定出来なかった。目の前の血塗れ甲冑で髭面の偉大夫は、祖父もその祖父からまた伝え聞いた、かつてそして今まで彼女が夢想し続けた、あの悪漢聖人ゴオルギーその人でしかなかったのだ。

 ゴオルギーはしばらく口を止めると、眉間に皺を寄せて鼻当てのある兜の下から上目で見た。


「……あのさあ……そろそろそれ、拭いたらどうよ?」

「泣いてない!」


 泣いていた。顔は熱かった。混乱していた。思わず机を叩いてしまった。

 究極の理想といざ対面してしまったとき、整理できず吐き出しようもない怒りのようなものが身の裡におこり、それは自分そのものを内側から焼いていき、こもった熱は思考を狂わせていく。

 そのことをいざ知ったパブチは、こんなことになるならいっそのこと会わないほうがまだましだったと、すっかり情けなく変わってしまった瞳でゴオルギーを睨みつけた。


 ◆


「……あなたが聖ゴオルギーその人であったとしても、殺人は許される行為ではありません」

「へえ」

「この国は法が支配しています。誰であっても法に則って裁かれることに例外はありません」

「ほおん、ふうん。そうかそうか。いや大した世の中になったもんだなあ! 平原の伊達男たちなんてのもいなくなったのかよ?」


 ゴオルギーはふんぞり返り、尋問机に脚を載せると天井を眺めた。後脚だけでバランスを取っている椅子がギシギシと鳴る。手首と足首に嵌められていたはずの鉄輪は尋問机のクリップボードの上ですでに農耕文明まで発展していた。鉄輪から分離した無数の鉄生命体が彼らの神であるゴオルギーに向けて手を振り歓声をあげている。何かを発酵させた酒らしきものを掲げている生き物もいた。ゴオルギーも鷹揚に手を振り返した。


「生贄は不要だあ。よく生きるのだぞ」


 ゴオルギーは顎髭を一本抜くと放り投げる。それは彼らの居住地の中心に突き刺さった。大きな驚きの声とともに、たちまちのうちに周りで祝祭が催された。下賜された伝説の御柱の表面を削って住民たちは思い思いの儀礼用の武器や鎧を作っていた。

 パブチはあぜんとしながらも、このいかにも簡単に行われた奇跡を強いて視界に入れないようにしていた。私の所属は取締局。奇跡の所掌は神霊局。私には関係がない。心を乱されてはいけない。私のなすべきことは尋問だ。

 誰を? この聖ゴオルギーをだ。

 その時ゴオルギーと目が合った。その瞬間にまた瞼と口の端が痙攣し、脇の下に熱が起こるのを感じた。

 どうやってこの偉大な悪人を法で裁くというのか?

 尋問室に積み重なっているのは何十もの衛兵の死体の山。ゴオルギーをここから牢へ連行しようとした際に皆殺しにされたのだ。山頂から崩れた死んだ衛兵長の腕がパブチをなじるように殴った。痛みよりも驚きでパブチは奇声を上げ、腕が当たった片足を上げた。


 パブチが法の番人たる役人を目指したのは祖父から度々聞かされた悪漢聖人ゴオルギーの伝説が原因だった。

 こんなに悪い男がいるなら、どう対抗すればいいんだろう? と彼女はずっと考えていたが、その答えはある日見た、祖父が賭場での盗みを原因に街の衛兵に袋叩きにされているシーンにこそあった。

 あの悪くて大きな祖父ですら、衛兵が持つ書状を見た瞬間に凍りつき、懇願し、殴られるままになっているのだ。衛兵はどれもみな大した体格はしていなかった。すなわち祖父は書面に敗けたのだ。書面とは法だ。

 法さえあれば、わたしだってあのゴオルギーのような男だってひれ伏せさせられるかもしれない。それともあのゴオルギーなら、どんな法も打ち破ってしまうのだろうか?

 それを思ったとき、パブチの中に初めの炎が灯ったのだった。


 それからはいかなる相手にも挑みかかり、全て打ち負かしてきた。あらゆる法典を紐解き、あらゆる判例と運用を駆使し、誰も知らぬような、しかしまだ廃止されていない古代の聖典に基づいて対手を死刑に導いたこともあった。

 賄賂はとらず、妥協もせず、内部告発もためらわず、ただ法の力だけを思う存分にふるい続けた。

 初めての壁だった。

 パブチは額を抑え、ため息をつきながら改めて手元の書類をめくった。ズメトリヤ下町地域の安酒場での乱闘とその結果としての殺人。酒場は半壊。取り押さえようとした者は皆殺し。なんとか酔漢に偽装した衛兵が「河岸を変えよう」などと巧みに誘ってここまで連れて来たのだという。最中にはゴオルギーに酒を飲ませ続ける必要があったが、組まれた肩に手のひらのかたちの深いアザを残した衛兵は酔った口でなんとか会計隊に経費を請求しようとしていた。

 そもそも……


「あなたはどこから来たんですか?」

「んん? 雲の上さ。おれはあそこで産まれたよ」

「そういうことではなく……」

「なあネえちゃん。そろそろ手は読めて来てんだよ。どうせ定住する住居を持たないって罪か何かで引っ張ろうとしてんだろ? ベラベラ話しすぎだよなあ。もう丸見えなんだよなあ」

「では質問を変えましょうか……あなたは、なぜ来たんですか?」

「そこに酒があったからだろ。くだらないこと聞くんじゃねえよなお前?」

 

 パブチは鉄生命体の居住地の上で鋼鉄製の卓上ランプを振りかぶった。クリップボード上の農村から甲高いどよめきが上がる。

 ゴオルギーは殺意の篭もった目で睨みつけた。


「お前。下がれ。余の産み出した奇跡だぞ」

 

 しかしパブチは少しも下がることなく、わずかに震える声でいった。

 

「では扶養家族ということですね」

「は?」

 

 パブチはランプを振りかぶったまま、ゴオルギーから目をそらさずに、汗を垂れ流しながら言った。


「あなたは神性を持つかどうかは別に、すでに死亡記録が残っている人間です。こちら写しです。既に死んでいる人間の犯罪を裁くことはできません。犯罪を起こした後に被疑者が死亡した際はまた別ですが、現行法はある人間が生きている間に起こした犯罪についてのみ対象としているからです。ですがこの生命体は生きていて、知性もある。人造生命といっていいでしょう」

「……ふうむ」


 ゴオルギーはまくしたてられる言葉に注意しながらも、懐から蜂蜜酒の瓶を取り出して一口飲み、口元を拭き、瓶を壁に投げつけて叩き割った。


「続けよ」

「労務紀38年、今から120年ほど前ですが、魔女クリンゲルの死体から産まれた二足キノコがクリンゲルの扶養親族とされた判例があります。もともとクリンゲルが襲撃された際にたまたま懐に持っていた菌株が死後その死体を糧に数万匹に繁殖し、その後二つの農村が飲み込まれたそうです。それを知らずにクリンゲルの財産を相続した遺族は、この二足キノコの群れについても扶養義務あるものとして認定され、未納の出生税の追徴課税で破産する羽目になりました」

 

 ゴオルギーは押し黙ったままパブチを睨みつけていた。彼の背後のどこからか風が起こり、甲高い音を立ててパブチに吹き付け始めた。

 パブチは風に載って放射される強い怒りを感じながらも、向かい風に向けて叫ぶように喋り続けた。


「悪漢聖人ゴオルギー、あなたなら今も生きている子孫を探すのにそう手間取らないでしょうね? 何人のお子さんがいたことでしょうか。直系の子孫だって探せるはず。だってなんといったって、あなたはあのゴオルギーなんだから! 私どもの組織に出来ないことありません。すぐに見つかる! あなたの子孫にこの文明全てへの出生税、酒税、その他全ての──」


 振り下ろされた槍は掲げていたランプもろとも鉄生命文明を消滅させた。尋問机を貫く大穴を紫色の炎が舐めていた。息が数拍止まったあと、突然浅く、速く再開し始めた。パブチは恐怖とともにゴオルギーを見た。とうとう彼の槍が出てしまったのだ。衛兵を屠るときにも素手だったのに。あの槍が。嫌な汗が吹き出した。身体で燃えていたあの炎の熱も、今だけは感じられなかった。からだが震えだした。

 死ぬ。勝てないのか? 法が敗ける?

 聖ゴオルギーのこちらを冷たく射抜く瞳。衛兵たちの死体がまたひとつ山から崩れる。私が呼んだ衛兵。その死には悪いとは思わない。彼らは戦うことが仕事だからだ。それで死ぬこともある。それで彼らが死んだだけだ。

 では私の仕事はなんだ。勝つことだ。この机を挟んで向かい合ったものをどんな手を使ってでも打ち負かすことだ。それで死ぬこともある。それで私が死ぬだけだ。

 でも勝たずに死ぬのは納得がいかない。許せない! 許してはいけない! 打ち負かし生きる! それがなすべきことなのだ!

 パブチは目を見開く。震えは止まった。思考は焼ける白一色に染まり再び身体のうちに熱がおこった。燃えるような情念の炎。ランプの残骸を投げ捨て、胸ポケットより祖父から贈られた盗品の万年筆を取り出し、逆手に持つと、それを理想の敵に突き立てるべく叫びながら襲いかかった。


 ◆


 平原はよく晴れていた。


「死人って言われるのは納得いかねえのよ。今生きてるだろ」


 跨った大柄なロバをゆっくりと進ませながら、聖ゴオルギーは顎髭を弄っていた。短いたてがみの隙間では、鼠の死体から発生させた骨生命体たちがまた別の文明を構築していた。


「おれたちがどうやって帰ってきたのか知りたいんだろ? それからおれたちのことをパブチちゃんの言う”法”で好きなように名前つけりゃいいさ。裁く裁かれるはそこからだろうよ」

 

 パブチはゴオルギーの後ろに座りながら、呆然と流れる空を見ていた。そういえば仕事をサボったのは初めてだなあとも思っていた。


「それまではおれたちは、雲とか風とか嵐とか、そういったもんさ。起こったものでしか判断するっきゃないんじゃねえの」

 

 机とか死体とかそのままにしてきたなあ。私も死んだ判定になるんだろうか。死体が見つからないからどうなるんだろう……しばらく休職なのか……? 給料が減る。

 パブチは誘われるままにゴオルギーについてきてしまった理由は強いて考えないようにしていた。胸元には万年筆が元通り戻っていた。


「とにかく”流出の中心”まで行ってもらわにゃな。そこそこかかるだろうが、まあ何、酒ならあるさ」

「おれ”たち”?」


 パブチはふと気付いてそう聞いた。聖ゴオルギーは振り返って笑いながら答えた。


「おれが出てくりゃ、勘定取りに追ってくるやつもいるってことさ。パブチちゃん、なんたっとおれはあのゴオルギーなんだからな」


 髭の聖人はいかにも面白そうに笑っていた。

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