雨が降っていた。

夜依伯英

あおぞら

 ペトリコール。湿度が高くなると植物はそういう名前の物質を分泌するらしい。雨の前の匂いはなにか、世界観的な現象であってほしかった。僕が幼い頃から嗅いでいた土の湿った匂い。あれは僕にとって雨の先駆けだったけど、今ではそれはアスファルトに変わった。小学校、中学校と家からさほど離れていない処にあった。僕らは畑なり田んぼなりの間を縫って走り回ったものだった。そんな過去も、もう戻ってこない。たった二年前まではそうしていたのに、今では遠い記憶で。それがどうしようもなく寂しかった。高校は電車で四駅の距離。どの程度の田舎なのかにもよって、それの意味するところは変わってしまうのだろうな。極めてローカルな定規。

 その日も雨が降ってきた。南の海と、それから北の冷たい海域から来た気団がぶつかり合って停滞する。それは梅雨と呼ばれるものだった。健全な小中学生を陰鬱にさせ、健全な男子高校生の鼻息を荒げさせることもあるそれを、僕はあまり好いてはいなかった。それでも、梅雨のしっとりとした黒髪美人のような雰囲気と、それからあの雨の匂いは好きだった。気圧に左右される身体でなければ歓迎したのだろうけど。

 僕は雨の中、傘を差して歩いていた。神社に行きたくなったから。いや、過去に思いを馳せたくなったからというのが正しいのかもしれない。小さい頃、よく遊んだ。夏休みには蝉や甲虫と戯れる絶好の場所として僕の前にあったし、冬には友達と寒がりながら語らう場所だった。僕らのまだ短かった人生のあれやこれやを長々と話し合って、答えのない問いと軽率に遊んだ。まだ、それができた年齢だった。今はただ答えの分かりきった問いと戦わなければならないから、ちょっと疲れたのかも。神社はよく分からないけど石みたいなもので造られているんだろうな。しかし、僕がその単語を聞いて思い浮かべるのは緑色だった。それから少しくすんだ朱色。それは専ら鳥居だった。

 しとしと、なんて表現を考えた人は賢いな。ちょうどそういう言い方が似合うような雨だった。靴の端を少しずつ濡らしていく。中はすっかり蒸れていて、少し不快。傘を打つ雨音が、まるでフィクションのようで綺麗だった。境内にはところどころに水溜りができていて、連続的な波紋が重なり合っていた。どこに雨粒が落ちるのかは完全に不規則なのかな。そんな僕くらいの知識では知りえないことを考えていて、御堂の屋根の下で空を見上げているその人に気づくのは遅れた。彼女は梅雨のような人だった。なだらかに折られたシャツの襟、綺麗な首元。僕より少し年上くらいの綺麗な女の人。彼女は僕に気づくと、声を掛けてきた。

「やあ、そこのきみ」

 落ち着いた声だった。

「はい」

 そう返事をして、僕は彼女のもとへ歩み寄った。水曜日の昼間。制服姿でここに居るから違和感があったのかもしれない。ブレザーの肩は色を濃くしていた。

「きみは高校生かな。通信制とかの人? まあ、そんなことはどうでもいいんだ。私が気になるのはきみの所属じゃなくて、きみ自身だよ」

「僕自身ですか?」

「そうそう、きみ。きみは誰で、何をしにきたの?」

 彼女は首を傾けて、少しの間ができ雨音が歌った。

「僕は――」

 名前だけを告げる。彼女は「そっか」と短く息を吐いた。冬だったら綺麗な雪になっていそうな、そんな吐息だ。何をしているのかなんて、他人には恥ずかしくて言えるようなことではなかった。現実から逃げてきたんですよ、なんて言ったらどんな風に笑うんだろう。

「学校行かなくていいのかーとか言わないんですね」

「私は大人としての義務を放棄してるから」

 冗談っぽく響いたけど、僕には彼女が悲しそうに見えた。

「この時間にここにいるってことは、働いてないんですか?」

「仕事は夜なの。そういう意味じゃなく、義務を放棄してるんだ」

 僕は傘を畳みながら彼女の隣で雨を避けた。彼女の真似をして空を見上げると、くもりぞらが泣いていた。

「僕だって、放棄してますよ。何を放棄しているのかは、まだ分かりませんけど」

「なにそれ」

 そう言って、彼女は肩を揺らした。ずっと前から知っているような、懐かしい笑顔で。ずっと見ていたかったけど、そうしていたら壊れてしまいそうで僕は目線を落とした。

「私だって、本当のところ何を放棄しているのか分からないんだ。あ、そうだ。きみのことはなんて呼べばいい?」

「そのまま、きみでいいですよ。そう呼ばれるの好きなんで。僕はあなたのことなんて呼べばいいですか?」

 彼女はふふっと笑って「先輩」と言った。その様子がなんだか不思議で、愛おしく思った。

「じゃあ、先輩。ひとつ訊かせてください」

「なあに?」

「先輩はこんなところで何をしてるんですか? 失恋でもしたんですか」

 彼女は表情を崩した。

「そういうことにしておこう」

「なんですかそれ」

 僕がそうやって笑うと、彼女は、今度は小さく微笑んだ。

「好きだった人の口ぐせ。きっとあの人はこっちに興味はない」

「片想いだったんですね」

 僕は呟く。先輩がどこか遠い場所を見ている気がして、少し寂しくなった。

「そう、肩が重かったの」

 彼女のジョークに、僕は笑っておいた。

「先輩はいま、幸せですか?」

「そう見える?」

 柔らかく言った。綿のような。雨は心地よく僕らの空間を包んでいた。僕は正直に否定した。

「僕も幸せじゃないですよ。でも、不幸だから先輩に出会えた。それが嬉しいです」

「じゃあ私も嬉しい」

 僕が「じゃあってなんですか」と訊くと、彼女は悪戯っぽく笑って見せた。

「曖昧だけど、それくらいがちょうどいいんだよ。恋と一緒」

「よく分からないけど、そういうことにしておこう」

 彼女は「真似するな」と笑いながら、僕を小突いた。それから僕たちは雑多な話題を無生産的に話した。

「僕は多分、ずっと淋しかったんですよ。隣にいるはずの人がいないような感覚」

「そのポジションが私だといいな」

 そんな一言にどきっとさせられた。ずるいなぁ。そう思いながら、口角が上がってしまうのが分かった。雨がまばらになってくる。雲は割れ光が差し込み、辺りはジオスミンの、つまり雨が降ったあとのあの匂いで満ちた。夏が飽和している。彼女は空を一瞥すると、二歩前へ出て振り返った。

「そろそろ行くね、後輩くん」

 僕はなぜだか言葉が出てこなくて、頷いて応えた。また会えるような気がした。


 翌朝、空は乾いていた。いつものように電車に乗り、高校の最寄で降りる。向かう先は高校ではないけれど。僕は駅ビルのエレベータに乗り、五階にある書店へと足を運んだ。家の近くの書店のほうが量は多いけれど、種類の幅はこちらのほうがある。注意深く観察したわけではないから実際のところは分からないが、そうだと思っている。一瞬、今日くらいは学校に行こうかと考えるが身体が強張って、どうしようもなく怖くなった。昼食を適当に済ませた僕は、その日も神社に逃げ込んだ。

「あ、今日も来たんだ」

 先輩は、朱い鳥居の下の階段に座っていた。今日は半袖だった。僕がそれを見ているのに気づいた先輩は、そっと腕を隠しながら虚栄の笑みを浮かべた。傍に、開いた缶ビールが置いてあった。

「なに見てるの、えっち」

 僕はそれを無視して、隣に座った。そして、勝手に語り始めた。

「僕は、学校に行ってないんですよ。今更それを咎める先輩じゃないって分かってますけど、昨日言えなかったので。何も理由がないのに行かなくなったわけじゃないんです。むしろ、僕は学ぶのが好きだった。いや、だからこそかもしれません。結局、人は自分が優れていたいんですよ。彼らはそれを捨て切れなかった。もちろん、僕もです」

 やさしく言うなら、僕には友達がいないって話。直接的な言い方をすると僕の説明にそう書かれてしまう気がして怖い。

「きみは優しいね」

 今にも消えてしまいそうな声で、先輩は呟いた。それは僕に向けられた言葉ではなかったのかもしれない。表面上はそうでも実際は違う、みたいな。

「先輩、あの」

「ん、なあに?」

「いえ、なんでもないです」

 僕らにはこれで十分だと思った。先輩も「ずるいよ」と言ってくれたから。

「先輩、今日は暑いですね」

 昨日よりも格段に気温が上がっている。熱中症になりそうなくらいだ。

「きみ、身体は大事にね」

 その言い回しが、なぜか引っかかった。僕がそう思っているのを読み取ったように、彼女は「とにかく」と続けた。

「きみは不健康そうだから心配だよ」

「一緒に不健康でいましょうよ」

 そう言うと、彼女は飲みかけの缶ビールを僕に差し出した。僕はそれを受け取ると、少しだけ飲んで言った。

「ずるいですよ」

「意識した?」

 悲しそうに微笑む。僕はなんだか、彼女を抱きしめたくなった。彼女の頬に手を添えた。

「先輩、ちょっと酔っちゃいました」

 視界が先輩で埋まった。そっと腕を回す。彼女の頬に、涙が伝う。唇を離すと、堪らなく愛おしい泣き笑い。

「ありがとう」

 先輩はただ一言そう言った。一滴、空から零れ落ちる。続いて連鎖的に何滴も。それを避けようと、僕たちは御堂の屋根の下まで走った。思えば夕立と呼べそうな時間だった。

「キスでスイッチが入ったみたいだね」

「どっちの話ですか」

 僕の笑顔に、彼女のそれも重なった。

「えっち」

「先輩こそ。舌入れてきたじゃないですか」

 先輩は、「大人だもん」と言い訳した。空が黒に呑まれる。そのとき、雲に雷光が奔る。雨風は急激に強まり、神社の屋根くらいでは防げなくなってきた。

「先輩、どうします? 傘ないですけど」

「今日は車で来てるよ。路駐だけど。乗っていいから、来て」

 走り出した彼女の後ろを追う。車に乗り込むと、積載していたタオルで顔や頭を拭く。制服はびしょびしょだ。ワイシャツが身体に張り付いて不快。全身から熱が奪われていく感覚があった。しかし寒いわけではなく、ねっとりとした熱気が充満していて気持ちが悪い。

「ね、ちょっと休めるところ行こうか」

 そう言う先輩も全身濡れていて、目のやり場に困る。白い服は透けるに容易だった。彼女は車をだして、そのままどこかへと向かっていく。

「そこに行くんですか?」

「休めるところ」

 心拍数が上がっている気がした。

 やがて夜になって、僕は先輩の車で家まで送ってもらった。

「僕はこれから、雨が降るたびに先輩を思い出します」

 そう言って、その日は別れた。


 なかなか眠れなかったからか、寝坊気味で土曜日の昼を迎えた。外は雨。世界が青かった。くもりぞらも青に焦がれるのか。今日は先輩に会えるかな。そう思いながら、傘を差した。神社までの道中で、制服のすそは変色してしまった。神社は雨に洗われていて、階段は滑りそうだった。いつもより慎重に階段を上がると、奥に先輩が見えた。もはや僕らは、何のために来ているのか分からない。会いたいからだろうか。

「きみは休日でも制服なんだね」

「センスが問われませんからね」

 そんな挨拶を交わしたあと、先輩が提案した。

「私の家、くる?」

 僕は二つ返事で提案に乗った。彼女の車に乗って、家に向かう。道中は心地よかった。先輩がアイスコーヒーを用意していてくれて、僕はそれを少しだけ飲んだ。

「結構遠くに住んでるんですね」

 僕はそう呟いた。彼女の部屋はマンションの二階にあった。鍵を開けて、入る。靴はほとんど置いていなかった。僕のと先輩のが仲良く並ぶ。彼女はそれを、満足げに眺めていた。

「梅雨も本番だね」

「そうですね。今年は例年より少し遅い梅雨入りだったみたいです」

「でもあと少しで明けちゃうね」

 淋しそうに彼女は微笑む。テーブルに座るように手で促して、彼女はお湯を沸かす。キッチンに立つ彼女を見ると、なんだか幸せだった。

「部屋、綺麗ですね」

「ものがないだけだよ」

 彼女がお茶を持ってきて、僕の前にひとつ置く。

「ありがとうございます。いただきますね」

 温かい。僕の心もそうあった。これが錯覚じゃないことを願う。

「先輩は、いつも何をしてるんですか?」

 好奇心は猫を殺す。

「それは、きみには関係のないことだよ」

 怒っている? いや、彼女は哀しんでいた。苦しんでいた。微笑みを繕っていたが、それも崩れそうだ。

「話してくれないんですか」

「きみの前では、綺麗なままでいたい」

 そんなの勝手だ。そう言いたかった。でも、彼女の表情はどうしようもないくらいに僕を、僕の心を止めた。

「……綺麗じゃなかったとしても、先輩は先輩ですよ。僕の大好きな先輩です」

「名前も知らないのに?」

「そうです」

 そう答えても彼女は問い続ける。

「会って三日しか経ってない」

「はい」

 崩れていく。彼女が守っていた何か。臆病にずっと大切にしていた何か。

「きみは私の何も知らないよ」

 声が震えている。泣き出してしまいそうだ。僕は淡々と話し続ける。

「だから、知りたいんです。そして、あなたがどんな人であっても僕にとってあなたは先輩なんです」

「……こわいの。今まで私を好いてくれた人はみんな、私に興味がなかったから。彼らが興味を持っていたのは」

「先輩」

 僕は彼女の言葉を遮った。語気を強めて。

「僕は先輩の職業や、出自や、信仰や、そのほかのあらゆる全ての属性に拘らず、僕は先輩、あなたそのものだ好きなんです」

 先輩はその場に膝をついて、静かに涙を落とした。傍に寄り、抱きしめる。

「……お願い、今日は泊まっていって」

 搾り出すような懇願だった。僕は黙って頷いて、更にぎゅっと抱きしめた。

 夜、ベッドの上で彼女は語った。

「私ね、小さい頃にお母さんが死んじゃって、そのあと父親に虐待されて育ったの。それでもなんとか生きてたんだけど、性格はこんな感じに歪んじゃってね。自分の身体にしか価値が無いんだって思ってた。その価値すら薄いんだって。今は春を売る仕事をしてるの。ねえ、きみは私を愛してくれる?」

 僕は即答する。

「当然です。僕はあなたが殺人犯だろうと愛しますよ」

 彼女はやっと、少しだけだが笑った。僕は嬉しかった。

「でも、きみは私になにかできるの?」

 また先輩は、泣きそうな悲しみに濡れた声で、雨のような声でそう訊いた。

「んー、とくになにもできませんよ。ただ、一緒に絶望してあげます」

「君らしいね、好きだよ」

 僕らは微笑みあった。雨はいつの間にか止んだようだった。


 朝、空は曇っていた。僕のほうが早く起きて、窓を開ける。放射冷却のされていない空気はもやもやしていて、暑苦しかった。不快な感覚だったが、僕の隣には先輩が寝ていたから。僕が引き出しの中から遺書を見つけたとき、ちょうど先輩が目覚めた。

「ああ、それね。もういらなくなっちゃった」

「死にたくなくなったんですか?」

 僕が訊くと、彼女は笑った。

「私が死ぬならきみも死ぬでしょ? もう遺書はいらないよ」

 それは、遺書が僕に向けて書かれたことだということを示していた。それが分かったことを察した先輩は、更に続ける。

「私の死に興味がある人なんて、百歩譲ってもきみくらいだよ」

「百歩譲らなくても僕は気にしますよ」

 彼女は、本当に嬉しそうに笑った。僕たちが世間一般でいうところの不幸であることに変わりはなかったけど、それでも僕たちは確実に何かを得ていた。

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雨が降っていた。 夜依伯英 @Albion_U_N_Owen

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