第11話 願い
トントン、とドアがノックされた。
ロキアが何か忘れものでもしたのかな。そう思ってドアに近づくと、向こう側から、
「サクラ、いるか?」
とユキヒロの声が聞こえて、私はドアノブをひねりかけていた手を止めた。
「……何しに来たんですか?」
自分でも思った以上に冷たい言葉が出てきて驚いてしまう。
昼間の心の冷えていく感覚がまたゆっくりと私の中を蝕んでいく。
「謝りに来たんだ」
彼は、ドアの向こうでそう言った。
「謝罪なんていいです。ユキヒロは悪くないですから」
そう、悪くない。悪い人なんていない。ただ、ユキヒロは私を助けようとして、私はそれを拒絶した。ただそれだけのことだ。
「そんなことない。……ねぇ、サクラ。ドアを開けないでいいから、そのまま聞いていてほしい」
ユキヒロの声は、まるで壊れ物をそっと置いていくように優しい響きをしていた。
「俺、前世では病気がちだった。って話は前にしたよな」
私はこくりと肯く。ドア越しで見えていないけど、不思議とユキヒロが笑った気がした。
「あの時俺は、自分が世界で一番不自由だった気がしたんだ。病室の窓の外で飛んでいる鳥を見を見るたび、俺もあんな風に自由に飛んでいけたらって、何度も思ったことがある。そういう気持ちは、サクラが経験してきた時間に比べたら全然、瞬きのように短い時間なのかもしれないけど、きっと同じだったと思うんだ」
思い当たる節は数えきれないくらいにあった。空飛ぶ鳥、風に舞う葉、流れる雲、夜空の星、無邪気に駆け回る動物、訪れる人々、それから、それから、――。
目に見える、あるいは目に見えない全てのものに嫉妬していた。どうして私は他の全てと違って、こんなにも不自由なのだろうと。
「見方を変えれば、なんて話はしないよ。それで解決することもあるけど、それじゃ全然足りないこともある。どうしたって見たくない部分の方が大きすぎて、目を背けても、いや、目を背けたことで余計に意識してしまって、苦しくなることだってある」
ユキヒロは寄り添うように言葉を紡いでいった。音だったものが、じんわりと染み入るように言葉になって、心に染み込んでいく。
「なぁ、サクラ。俺は、この世界に来て、初めて自由を感じたんだ」
「……」
「初めて本気で走った。初めて木に登った。初めてあんなに高くジャンプした。銃を撃ってみたことだって、巻き割をしてみたことだって、洗濯物を干したり、食器を洗ったことだって、全部、全部、ここにきて初めてしたことだった」
私は来たばかりの頃のユキヒロの姿を思い出していた。食器の洗い方がわからなくて、ロキアに呆れられながら教えられていた。日が暮れるまで帰ってこなくて、戻ってきてみれば頭から血を流して帰ってきて驚いたこともあった。
「俺、サクラからはどんなふうに見えていた?」
「……楽しそうだな、って思いました。」
そう、楽しそうだった。ロキアに怒られている時も、うまく薪が割れず四苦八苦している時も、頭から血を流して帰ってきた時ですら、ユキヒロは心の底から嬉しそうに笑っていた。
それが、眩しくて、心の底から羨ましくて、正直、ちょっとだけ、疎ましかった。
「うん。楽しかった。本当に楽しくて、嬉しかった。万華鏡を覗き込んで、自分は自由なんだって思いこませていた時なんかとは、比べ物にならないくらい満たされてたんだ」
ドアノブをぎゅっと握り、歯をきつく噛みしめた。
「そんな話をして、一体なんだっていうんですか」
「……」
「私に希望を持たせようと、いろんなことをしてくれる人がいました。でも、誰にも結局、どうすることもできなかった。もう沢山なんです。希望を持つのは。外に連れ出してくれるなんて、砂糖菓子のような甘い言葉に心を揺さぶられて、奈落に突き落とされるのは。突き落とされた私を見て、申し訳なさそうな顔をする人を見るのは。もう沢山! この世界は、どれだけ私を苦しめれば気が済むんですか! ユキヒロ!!」
ドアノブをつかんだまま、その場で崩れ落ちる。嗚咽がこぼれて、左手で口を覆う。
ユキヒロは黙ったまま。また、逃げてしまったのだろうか。そのほうがいい。そのほうが私が傷つかなくて済む。必死に私を助けようとする優しい人の、悲しそうな顔を見なくて済む。
「サクラ。ドアを開けてくれないか?」
だが、その期待を裏切るように、ユキヒロの声が外から聞こえた。
「いやです。帰ってください」
「帰らないよ」
「帰ってください! ユキヒロなんて、どこへでも好きな場所に行ってしまえばいいんです!! 私を置いて、自分の好きな場所へどこへなりとも自由に行ってしまえばいいんです!!」
「嫌だ!!」
予想もしなかった大きな否定に、私の肩がびくりと震える。
「絶対に嫌だ!! サクラを放ってどこかに? ふざけんな!! そんな残酷なことを俺にしろっていうのか!? そんなのサクラだって許さない!!」
私は目を丸くしてドアの向こうのユキヒロの言葉に耳を傾ける。
「出ていくならサクラも一緒だ!! まだ見たことない世界を一緒に見るんだ!! それができないなら、俺だってずっとここにいる!!」
この人はなんてバカなことを、こんなにも大声で言っているのだろう。
「サクラ、ドアを開けないっていうのなら、俺にだって考えがある。これから石碑に行って、勝手に呪いを解いてやる。俺は絶対にサクラを呪いから救う。サクラが嫌だって言っても救ってやる。そのほうが絶対に幸せになれるって知っているから」
なんて身勝手な人だろう。こんな人は初めてだった。寄り添ってくれる人は沢山いた。苦しんでくれる人も沢山いた。でも、こんなにも自分勝手に私を救おうとする人は初めてだった。
「サクラ、ドアを開けてくれないか? 俺は、サクラと一緒に、この世界を見てみたいんだ」
ゆっくりと、ドアが開き、真っ暗な部屋の中から、涙で真っ赤に目を腫らしたサクラが顔を出した。
「……本当に、呪いを解いてくれるんですか?」
「必ず解く」
言い切ってやった。内心は不安で頭がおかしくなりそうだった。これで出来なかったら笑いものでは済まない。でも、そんな不安は今、この場では不要なものだ。ただ、絶対の自信で、サクラに救うと約束すること。それがここで俺に求められている強さだ。
「……私、見てみたいものがあるんです」
「何を見てみたいんだ?」
「ルクセンメリアの、世界一高い城壁を見てみたい。マーティア街道から見える広大な草原を見てみたい。フィルディオンから見える、ガウス海の夕焼けを、ウルキアに聳え立つ荘厳なリクの樹を、プラントリムの活気ある朝市の様子を、他にも、もっと、もっと沢山、見てみたいものがあるんです」
堰き止めていたものが決壊して、サクラの口から洪水のように願いがあふれ出してくる。
「……全部、見せてくれるんですか?」
「うん。一緒に見に行こう」
サクラは目を見開き、大粒の涙を流して俺の胸に縋りついた。
「約束、ですよ」
俺はこくりと肯き、サクラが泣き止むまで胸を貸し続けた。
もう、後戻りはできない。この涙を裏切ることは許されない。覚悟は決めた。あとは動くだけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます