第2話 ロキア
食事を済ませた後、(ちなみに食事中一度もサクラさんの顔を見ることができなかった)「一度着替えたいでしょう?」とサクラさんは俺に着替えを手渡した。
今の今まで意識していなかったが、確かに俺の服装は患者着のままで、動きにくいことはないがこの格好のまま外に出るのは気が引けた。
彼女が持ってきた動きやすいラフなシャツと丈の長いパンツ、それから革靴に履き替える。初めて着た服装だが、意外に着心地もよくそれほど違和感もなかった。
「ロアナがあなたの寝ている間に採寸して用意してくれたんですよ。寒かったら上着もありますからね」
「ありがとうございます。……あの、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
「? なんでしょうか?」
「どうしてここまで良くしていただけるのですか」
倒れていた人を助けたというだけなら、わざわざ新品の服まで用意してくれるだろうか。ましてや相手は見たこともない服装をした謎の男性だ。彼女が馬鹿が付くほどのお人よしであるというなら話は別だが、普通ここまで丁寧な扱いをされるものなのだろうか。疑うというほどではないが、ただの親切心というには違和感を覚える。それとも、異世界からの来訪者には親切にしなければいけないとか言ったしきたりでもあるのだろうか?
彼女は俺の質問に、少しだけ目を細めてほほ笑む。どきりと心臓が脈打った。とても10代かそこらの女性が浮かべるものとは思えないほど、深みを湛えた笑みだった。
「そうですね……。私は昔、あなたのいた世界の方に救われているんです。だから、次、もし私の前に異世界から来た人が現れたら、その恩を返そうと決めていました」
彼女は懐かしいものを思い出すように、そして、それを噛みしめるように、そう語った。
その瞳の奥に何を思い浮かべているのか、そんなことはさっき会ったばかりの俺にはわからない。だが、察するに彼女はきっと、その恩を本人に返すことができなかったのだろう。だから、その時の恩を俺で埋め合わせをしていると彼女は言う。そのことに不快感はなかった。
恩をすべてもらった人に返せるわけではない。むしろ多くの人は、もらった恩のほんの一部だけしか返さずに、その大部分を故意にしろ、そうでないにしろ、踏み倒して生きている。事実、俺も、こうして今ここにいること自体が恩を踏み倒していることに他ならない。自分が死んだという事実に気づいてからずっと俺の中にある、真綿で締められるような苦しさは、きっとその後ろめたさからくるものなのだろう。
「わかりました。ありがとうございます」
「信じていただけるのですか? 私が言うのもなんですけど、ユキヒロさんからしたら、不審なことばかりだと思うのですが……」
彼女が恐る恐るというように俺の顔を窺う。その表情に答えるように、俺は笑みを浮かべた。
「正直サクラさんのことはよくわからないし、ここがどういう場所で、どういう世界なのかもわかりません。でも、サクラさんが嘘をついていないのは何となくわかります」
「どうしてですか?」
「まっすぐ俺のことを見てくれたから。目が、嘘を言っていない」
「目が、ですか?」
小首をかしげるサクラさん。
「なんとなく、ですけどね。それに、サクラさん美人だから。男ってきれいな人のことは無条件で信じちゃうんです」
冗談めかしてそう伝えると、彼女は目を丸くして、それから口に手を当てて、小さく笑った
「それはまた、困った性分ですね」
「ええ、全く」
まだまだ分からないことも多いが、とりあえず彼女を信じてみよう。そのうえで、俺にできるものを返そう。恩は返さないといけない。それはきっと異世界とか元の世界とか、そういうものとは関係のない不変の真理なのだから。
♯
サクラさんはこの結晶の森でロキアさんという世話係の人と二人で暮らしていた。
ロキアさんはサクラさんと同じ10代後半くらいの外見で、黒髪に釣り目な目元が一見きつそうな印象を与える女性だった。
ロキアさんの仕事は主に森の外への買い出しだった。
サクラさんは何か事情があってこの森から出ることができないらしく、森の外に係る仕事はすべてロキアさんが行っているらしい。森の中を女の子一人で出歩いて危なくないのだろうかと心配になったが、サクラさん曰く「ロキアは強いから平気ですよ」とのことらしい。釈然としないが、ロキアさん妙な迫力というか、威圧感があって、とてもじゃないがそれをロキアさんに聞く勇気は俺にはなかった。
それと、もう一つ大きな変化があった。体が病気は何だったのかってくらいに、すこぶる健康になったことだ。それどころか身体能力や体力が目を見張るほどに増している。軽く森の中を駆けてみても息切れ一つしなかった時には、あまりの感動にその場で泣き崩れてしまったほどだ。そのあとテンションが上がりすぎて木に登ったり岩から岩へ飛び移ったりと遊んでいたら、足を滑らせて盛大に頭を打った。頭から血を流して帰ってきた俺を見て、サクラさんは「何があったんですか!?」と慌てふためき、ロキアさんは「バカじゃないの」とバッサリと斬り捨て(でも手当はしてくれた)、タイニーは腹を抱えて死ぬほど笑っていた。
とにかく、俺は動くようになった体を試したくてたまらなかった。
薪割り、洗濯、掃除。住まわしてもらっている恩もあったが、それ以上に体を動かすのが楽しかった。積極的にいろんな手伝いをしていると、サクラさんもだんだんと打ち解けてきて、他愛ない話をする機会も増えてきた。呼び方も自分だけが呼び捨てでユキヒロと呼ぶのは忍びないと言うサクラさんの頼みでサクラと呼び捨てで呼ぶようになった。
「じゃあ、サクラで」
「はい。……ふふ。なんか楽しいですね」
そう言ってサクラはふふっと笑った。ドキドキするのでやめてほしい。
サクラは花の巫女という官職なのだという。だが、彼女のもとで暮らし始めて一週間が経っても、巫女らしいことをしている様子は一度も見られなかった。
「巫女の役割はもうずいぶん昔に終わっています。でも、戒めだけがそのままの形で残っていて、この森から出ることができないんです」
「それは、寂しくないのか?」
「ロキアがいますから。彼女には世話になりっぱなしです」
彼女はその美しい翡翠色の瞳に、切ないほどの諦めを湛えてそう答えた。
その理由を知りたいと思ったが、何となく触れてほしくなさそうな彼女の雰囲気に負けてしまい、結局何も切り出すことが出来なかった。
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