空と地球儀、遠い旅

裏瀬・赦

第1話

 空を横切る薄い境界線を見上げて少女は眩しさに目を細めた。

 視線は世界を飛び出し遥かな天上へ。大地と天空の切れ目にはゆるいカーヴを描いた線が視界の端まで伸びている。

「広いわねー」

 気軽な声は反響もせず消えていく。風を吸い込んだ空は雲を押しやって青々とした虚空をいっぱいに広げた。

「雨でも降れば面白いのに」

 遥か向こうで入道雲が天へと手を伸ばす。空の境界線に届いて、天井に突き当たったかのように潰れていく。もう、この世界に正常な天気は訪れない。

 下を見る。乾いたアスファルトから雑草・雑樹が顔を出し、日光を求めて背を伸ばす。かつては人が支配していた大地も狂った自然には勝てず、新たな自然の法則に従って強者を受け入れる。ここでは植物と太陽が最大の力を持っている。例え万物の霊長が自然を捻じ曲げる力を振るったとして、為す術もなく屈服させられるのが見えている。

 否。人類は変貌した世界に屈服した。地上と人類の大部分を放棄し居住可能な地域へと逃げ込み慎ましやかに暮らすことを余儀なくされた。文明体系は大きく後退しもはや生き残ることだけに必死の体であった。

 そんな大地に少女が一人。何かを待っているかのようにじっと世界を見渡している。

「おっ」

 地上に煙が上がっていた。規則的に舞い上がる砂の先頭に動くものが手を振っている。少女は手を振り返した。

 

   ***

 

 割れたアスファルトに響く軽快な音=二輪車+サイドカーの駆動音。青い空/白い雲/錆びた高層ビル──の上に立つ影。白いワンピース+白いつば広の帽子+揺れる銀髪+褐色の肌=天使か夏の幻影か。振り向く影に、彼はそっと手を振った。

 二輪車の速度を下げた少年──乱雑に伸びた黒い髪/宝石の如く黒い瞳/赤く日焼けした肌/少し筋肉がついた細い体躯=背伸びをし始めた高校生の様子。陽射しの降り注ぐ暑い中をヘルメットも被らず、咎める人もいなくなった中を進んでビルの下で止まる。

 二輪車=荒れた大地を軽々と走り抜ける太い車輪/大出力を産み出す大きな二対の駆動機関/リアに放熱ブレード×4/空気力学と流体力学を馬鹿にしたような二股に別れたフロント──俺の考えた未来バイクといった面持ち。

 サイドカー=流線形の外装/太陽をこれでもかと反射する白い色/二輪車に負けず劣らずな大きなタイヤ──都会を持て余すお転婆お嬢様といった佇まい。

「おーい!」

 張り上げた少年の声──ビルの中ほどまでも届かず。少女の姿は見えない。

 考える間もなく/不要だと言わんばかりに少年はすぐさま二輪車にまたがった。

 異様な音を上げる駆動機関──高く悲鳴のような音と金属が擦れ合うような音──「キィャァァァアアアア!」「SHOU! SHOU! SHOU!」「ヒィィィイイイイイ!」「VOVOVOVOVO!」

 細かく振動する二輪車のグリップを汗まみれの手で強く握る/大きく前に押し出す/震える太腿で車体を挟む──うつ伏せのような前傾姿勢に。

 突如持ち上がるフロント──ビルの壁面に前輪が乗る/後輪が大地の上で空回転する/双の車輪が空中をかきむしるように回転する──爆速はロケット発射の勢い/ビルの壁面を奔り始めた。

 駆動機関の音──小/中/大と変化。ビルの屋上に響き始める。

 なんだろう、と少女が縁から離れた瞬間、二輪車が屋上を越えて空中に躍り出た。

 唖然とした顔×2──下は驚嘆/上は驚愕=間抜け顔。一瞬の沈黙を置いて重力が顔を近づけていく。

 ずん、と車輪が二輪車の重量を受け止める。既に2人の顔は元に戻っている。

 着地した少年──不慣れな様子で二輪車から降りる。

「こんにちは」

 敵意はありません/友好的にいきましょう/相手は女の子だし、といった朗らかな笑みで挨拶──どうしてこんな場所に女の子が? と目がうるさいくらいに語っている。

「こんにちは」

 怪しい/訝しい/信用できるの? ──値踏みするように鋭い視線が少年に突き刺さっている。

 互いに互いを見つめ合うこと5秒。評価を決めたのは少女が先だった。

「そのバイク、空飛べるの」

 無表情/眉の一本も動かさずに/それでいて興味深そうな様子を隠せずに少女が二輪車を指さした。

「えっと……まだ壁を走れるくらいかな」

 言い淀む少年の内なる声──それは君より重要なこと?

 少年の表情から何かを悟ったか少女は再び口を開く。

「ところで、あなたはどうしてこんな場所にいるの」

 思わず半目になる少年──それはこっちの台詞だ。しかし嫌われまいとしたか彼女に合わせたか当たり障りのない答えを返す。

「旅の途中。行きたいところがあって」

「それって何処」

 無表情と冷静さを崩さない少女──本当に天使のように。

「ヒッチハイクでもするのかい?」

 軽口で答える少年──ヤバい事情があったら即座に逃げようとグリップに手をかける。

 しかし意外に、軽口に少女は頷いた。

「連れて行って欲しい場所がある」

 驚いて声が出なくなった少年に畳みかける。

「今すぐとは言わないけど、必ず辿り着けるようになる場所」

「それって……」

 軽く頷いた少女──空を指さした。

「“上”」

 端的な言葉──少年の驚きを取り戻すのに充分/むしろ理解の範疇を超えて間抜け面に。しかしすぐに我を取り戻して、

「この二輪車が何か知っているの」

「知ってる。元々は“上”のものでしょ」

「……でも、僕が行く場所はそうと決まっている訳じゃないよね」

「嘘(ダウト)。“まだ”飛べないと言ったのは飛べるようになると知っているから。それに飛んで行きたい場所なら“上”しかあり得ない」

「違うよ」

 今度は少女が警戒して一歩を下がる。

「じゃあ、あなたの目的は何」

「僕の目的は、その上さ」

 少年──少女がそうしたように指を上に伸ばす。

「“上”の上って……」

「空の向こう、宇宙さ」

 あまりの驚きに馬鹿馬鹿しくなったのか/途方もない計画に呆れたのか──肩を落として少女は力なく言った。

「……じゃあ途中で降ろしてもらえればいいわ……」

 気が抜けて表情が緩まった少女に少年が手を伸ばす。

「これからよろしく。僕はカオン」

 頑なになるのももう無意味ねと少女が手を差し出す。

「ほどほどにね。わたしはミトリ」

 軽く握ってどちらからともなく暑さで手を離す。

「それじゃ行きましょう」

「あ、運転は僕がするよ!」

「当たり前ね。わたしはこういうもの苦手なの」

 いそいそと乗ろうとするミトリを抑えながらカオンは二輪車に跨った。

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