夾竹桃

おり。

夾竹桃

 おびただしい数の薔薇があちこち顔をのぞかせていた。アーチ状に組まれた支柱に群がるようにして、紅白入り混じる、色とりどりの可愛らしい花々が咲き誇っている。

 午中ひるなかの花園ともなれば、陽光の反射も相まって、葉の光沢、花弁についた水滴、それらの美しさに磨きがかかる。

 花園は静かではあるが、その存在感は決して、あの細々こまごまとした人間たちがうごめきあう、市街の雑踏ざっとうにも負けていなかった。素朴さとはかけ離れた薔薇たちは、黙して語らず。ただこちらに花弁をもたげて、窮屈そうに寄り添っていた。


 花園に植えられてあった一輪の花を手折ると、指先を棘が引っかいて、ぷっくりした小さな赤い膨らみが、私の指先を伝っていった。

 私は自らの身に何が起きたのかを理解できず、呆然としてそれを眺めていた。痛みよりも驚きや動揺がまさっていた。

 指先の赤い一雫が、地面に垂れた。土はすぐさま、黒く滲むようにして私の血を吸い込んだ。

 私は地面にしゃがみ込み、自身の血液が汚してしまった跡を見た。地面の染みを見ていると、そこに吸い込まれてしまいそうな、何だか不思議な気持ちになる。そんな感覚を打ち消そうとして、汚れた地面を手で擦った。

 うずくまっている私に気がついたのか、兄と母がやってきた。

 私の指を見て、母親は大慌て。この母は少しの傷であってもそれが致命傷のように騒ぎ立てるものだから、冷静に努めようとしている人間をもっと不安に陥れてしまう。ずいぶんと傍迷惑な行為を働く人間なのだ。

 そんな母をよそに「綺麗な薔薇には棘があるものだ」と兄は笑った。

 彼の何てことはないという態度は、私の気分を落ち着かせた。もちろん、彼自身はそのような意図はないのだろうが、無神経であることがたまには良い方向に働くこともあるのだ。

「むやみに触れてはいけないんだ。美しいものだからね」

 兄の顔を逆光が黒く照らした。

 なるほど、そういうものなのか、と幼いながらに得心した。綺麗なものに触れてしまったから、私は罰を受けてしまったのだと。

 つまりこの棘が、棘に作られたこの傷こそが、花園で唯一綺麗なものなのだ。


 兄は「傷の手当てをしなくては」と母に伝えた。母は鞄の中をまさぐった。彼女は絆創膏を探す仕草でさえ、いちいち艶っぽく振る舞う。動く度毎に嬌声のような咳払いをする。そうするように癖付いているのだった。

 見つかった絆創膏を指に巻いた。ガーゼの部分に血が染み込んでいくのが分かった。


 ふとせかえる香水のような匂い。

 花園は、少しくさかった。


 母も兄も花ばかりを見て、そうして笑い合ったり、見初めた花を写真に撮ったりしていた。あのように、無邪気な様子で楽しんでいる家族を美しいと思った。色とりどりの花が咲き乱れる中では、二人の可愛らしい姿も、何だか夢の中の出来事のようだ。

 

 花は嫌い。誰からも愛されるような可愛らしい装いをして、この世に生まれてくる。

人もそうなのかしら。今の私には、そうした仕草が鼻についてしまって、どうも苦手だ。誰かに愛されるには、おべっかを使ったり、おもねるように美辞麗句を並べたりして、騙し騙し生きていかなければならない。そういうのは、自然の愛され方ではなくて、けばけばしくあつらえられた、いやらしい愛され方のように思う。

 花は人が持つことのできないものを、その麗質を備えている。花は愛されるべくして愛されるし、そうなるのが当然のように咲き誇っている。人の奮励は花の窈窕たるに如かず。それが妬ましくて、花を見るとき、私は自分の醜さを見ている気分になるのだった。

 そう思っていたのに、よく見てみると人を傷つける棘がある、見えないところに人を殺す毒を持っている。私はそういう花のほうが好きだ。

 私はこれまで、母の言うような花の良さも、兄の褒める花の美しさも、私へのあてつけのような気がして悔しさしか感じなかった。けれど、誰かを傷つけるための、そういう稟性の花は綺麗だった。それだけには、何の嫉妬も覚えなかった。なんて言えば二人には胡乱な目で見られてしまうに違いないけれど。

 だって、薔薇も、水仙も、夾竹桃も、鈴蘭も、どれも綺麗で魅了されてしまうのだもの。

 刃物だって、人を傷つける物だけれども、父はギラギラ光るそれを、大切そうに眺めていた。私は案外、父に似ているのかもしれない。


 母も兄も可哀想だった。二人して笑っているときに、父が来ると、ぴったり笑うことを止めて、戸惑ったあげく気まずそうに黙ってしまう。

 父が叱るわけではない。二人が笑っているときにだって、わずらわしそうなすらしたことはない。それなのに、何だか父の前では笑ってはいけないような、二人とも勝手にそんな気がして黙っているのだ。


 父も可哀想だった。父だって本当は、家族が笑って過ごしている姿を見たいだろう。ただ、一緒になってはしゃぐなんてことが、ちょっぴり気恥ずかしくて、ちょっぴり憂鬱ゆううつで、悲しくなるから笑わないのだ。格好は毅然きぜんとしているが、胸臆では、はるかに寂しい思いをしているのだ。そのような自意識すらも、私とひどく似ていた。


 そんな可哀想な家族を見るたびに、自分の中にある侘しさを見つめているような気分になる。私は、母の不貞によって生まれた子供であるから、どうしようもなく、この家族にとっての毒なのだ。

 母の後ろめたさは、私のせいだ。

 父が精一杯気にしていないように努めても、一緒に笑うことができないのは私のせいだ。

 母と私が言い争いをするときなんて、「こんなにも意見が合わないなんて、あなたは一体誰に似たのかしら」と、母は大抵これを言いかけて、気がついたように口ごもる。瓜の蔓に茄子はならぬと言うけれど、私も巡り巡ってこの人に似るのだろうか。それとも……。こんなことがある度に、冷や水を浴びせられたような気分になる。私と母と、二人合わせて惨めだった。

 兄は、私達のいさかいが始まると、にわかに慌てながらその場からいなくなる。兄はよく私に構ってくれるが、それもただの取り繕いでしかないことを、とうの昔から知っていた。私を見つめる際、その眼差しが異端を思う色で満ちていたことを、私は知っていた。

 ごめんなさい、と心の中ではいつも思って、決して口には出さない。それを言えば、兄もいっそう悲しくなる。

 謝罪は少しの慰めにもならないで、人をみすぼらしくさせる。父も同様に、母の姦通を咎めず、謝ることすら許さず、ただ一人で泣いていた。

 この家族は私のせいで、実に可哀想なのだった。

 

 少しだけ、やりきれない思いがして、指先の傷を舐めた。私の母に似ていない部分は、あの人の性格なのだろうか。私に流れている血のどこかに、私達家族の毒はある。

 ときどき、母の言うことにカッとなったり、疎外感に嫌気が差したりして、めちゃくちゃにしたくなる。そんな思いをするのは、とても疲れる。疲れることは、なるたけしたくないけれど、ふとしたときに、身も心もさらけ出して、恥ずかしい思い、耐えられない思い、全部をこの家族におかえししてやりたいと思う。

 今の私を生み出してもらった、累積の所業に少しでも報いたいと思う、それを親孝行というのではないかしら。きっと私は、荊棘にはなれないけれど、毒となって、この家族を彩ることができる。

 不道徳によって造られた家族なのだから、そうして一生をみだりな生活で、裏には哭声を隠しながら生きるとよろしい。もう私は、どうしようとも苦しいことから逃れるつもりはないのだから。

 泰然としている家庭も、実を覗けば、緊張の糸が張り詰めているものだ。それらの均衡は、ずっと、ずっと、心許こころもとなく拙いものだけれど、今まであったどんな家庭よりも、妖しく、美しく揺らめいている。

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