第6話

 家にあがって俺と少女はすぐに風呂を使った。折から迫りくる夏の足音と梅雨明け間もない今は、蒸し暑さと灼熱の日光で汗がべたついた。普段なら構うこともなかったが、少女がいるとなんだか気を遣なければならないような気がした。


「さ、作るか」


 台所。


 寝巻に着替えた俺たちは、並んで立っている。少女は今日も準備よくパジャマを準備していた。


「お前、カレー作ったことある?」

「ないってば」

「じゃあリビングでテレビでも観てろよ。テラスハウスとか録画しておいたぞ」

「いや観ないから。てかそもそもテレビ観ないし」


 珍しいな、と思った。


「なにか手伝わせてよ。宿泊代にさ」

「そうか。……うーん、じゃあにんじんとじゃがいもの皮むいといてくれ。ピーラーここに入ってるから」


 と言って、台所の上方に備え付けられた棚を開け、ピーラーを手渡すと、少女は何も言わずに野菜を洗い始めた。それを見て、俺も玉ねぎの下処理を始めた。




 ほどなくしてカレーが出来上がった。


 茶色くどろりとした液体の中に長時間煮込んで形を崩しつつある野菜が浮かんでいる。

 味見もしてみたが、悪くない。

 辛党の俺にはちょうどいいピリリとした辛さ。

 そして昔実家で味わったような気がする濃い味。


「お~、美味そう」


 少女も出来栄えに感心したように、隣で小さく拍手をしている。


「久々につくってみたが、案外なんとかなるもんだな」

「おっさん、もしかして女子力高い?」

「カレーくらいレシピ見りゃつくれるさ」


 炊いておいたご飯にカレールーを豪快にぶっかけ、二人分をテーブルに配膳する。


「いただきます」

「いただきま~す」


 スプーンで一口食べる。

 うん、カレーだ。


 向かいに座る少女を見ると、「おいしい」と言いながらひょいひょいと口に運んでいる。子どもらしい純朴な表情を浮かべ、子どもらしい食欲で。


「そういやさ」


 と、少女がカレーを食べる手を止め、もの問いたげに俺の目を見た。口にカレーがついていたから、「ついてるぞ」と言うと、ティッシュで拭った後、


「おっさん一人暮らしだよね? なんで椅子二つもあんの?」

「ああ……備え付けなんだよ。もとからあった」

「ふ~ん」


 興味なさげな相槌を打った後、興味なさげに再びカレーを食べ始めた。




 食事が終わる。


「これくらいやらせてよ」という少女に後片付けを任せ、俺はベランダに出た。


 相も変わらず雲一つない夜空の中に星が浮いていた。

 国道を走る自動車が、四階のベランダから見下ろされる。


(そういやアイツ、星が好きだったんだっけなあ)


 思い出す。


 コンビニだってろくにない田舎町。

 ふくろうの鳴き声と近所を通る一級河川のざわめきに満ちた夜。

 肩をすぼめて歩く俺の前を、真昼間の陽気さで歩く後ろ姿。

 肩を並べて丘の上で見た宇宙。神様が宝物を壺の中に大切にしまい込んだかのような真空の神秘。


 もう――届かない。

 地平線の向こうに消えた懐かしき夢。


 夜風が吹く。


 初夏のそれは生暖かく、頭を切り替えるにはとても頼りない。

 半ズボンのポケットからケースを取り出し、白い棒を一本取り出す。


 火をつける。


 線香花火のような光が閃く。


「何してんの?」


 洗い物を終えたらしい少女がベランダに入ってくる。


「ヤニの呼吸壱の型をしてる」

「おっさん鬼滅知ってんの?」

「ちょっとだけな」

「へえ~。うちのクラスでも流行ってんだよね。私は知らないんだけどさ」


「ねえ」と少女の声が聞こえる。


 横を向くと、手すりに半分くらい身を乗り出した少女が夜空を見上げていた。

 地上に降り注ぐ月明かりに照らし出された少女の横顔は、やはり大人びていて、だがしかしまだ子ども特有の不安定さをにじませていた。


「なんだよ」

「一本ちょーだい」

「……お前さ、いくつよ」

「17」

「未成年はタバコ吸っちゃダメって未成年者喫煙防止法にも書いてあるんだぞ」

「いーでしょ別に」


 少女の顔をじっと見る。

 今はこちらのほうを向いていて、俺のことを笑顔で見ていた。


 俺はこの顔を知っている。


 俺がかつて持っていた、そして成長するとともに失った顔だ。


「……わかったよ、一本だけな」

「わーい、太っ腹っ」


 俺が渡し、火をやると、少女は深く吸ってから紫煙を吐き出した。「きくぅ~」と少女の白い顔が言った。

 その煙に何を乗せて吐いたのだろうかと思った。


「そういや、カレー余ったな」

「余ったね。作りすぎだから」

「食が細い俺じゃあ食いきる前にダメにしちまうな」

「……そうだね」

「……またうち、来るか?」

「……いいの?」

「いいさ」


 少女は、再び煙を吸って、吐く。「げほげほ」とむせる。


「じゃっ……じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな?」

「あんまり日をあけんなよ。夏場のカレーは痛むのも早いんだからな」


 そう言って、俺は笑った。

 つられるようにして、少女も笑った。


 月明かりが二人だけの空間を、スポットライトのように照らし出していた。しかしそれは室内から漏れる人口の光にたやすく押され、所在なさげに夜の闇の中に霧散していた。

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