第7話

 自分のデスクの前で馬車馬のように働いていると、隣に座る同期の巻島まきしまに飲みに誘われた。


「今日か? 平日ど真ん中だぞ」


 キーを叩く手を止めて横を向く。優しいまなざしが俺の顔をとらえている。

 巻島は安心感を覚える顔立ちだった。険のある社会にあっては貴重だといえるだろう。


「まあ、今日は妻が『たまには息抜きでもしてきたら?』って言ってくれたからね。お言葉に甘えようと思ってさ」

「ああ~」


 愛妻家らしい事情だった。


「でも明日までに終わらせないといけない仕事があるからなあ。悪いがほかの人誘ってくれ」

「酒の席を設けたいと思えるのはお前くらいなんだよ。それに仕事なら手伝うさ」


 そういって笑う巻島の笑顔はやはり優しさと善の光がさしており、確かについ去年まで「隠れ優良物件」とまで言われていたことはあるなと今更ながらに思った。

 そんな人間にここまで言われて悪い気はしない。コイツと違って定まった居場所もない俺の軽い身体はあっけなくアルコールの気分になった。


「まあ手伝ってくれるならありがたいし、俺も最近はさっぱり居酒屋に足運んでないからちょうどいいな。……よし、じゃあさっさと終わらせて帰るか」

「なんの話してるの? 仕事中に」


 ふいに、横やりから凛とした声が聞こえ、これまた同期の桂が話に加わってきた。いつも私服をまとっているが、今日はバシッとスーツを着込んでいる。


「ああ、巻島が今夜飲もうっつってさ」

「へえ。巻島も名屋なやも飲みなんて珍しいね」

「俺はともかく巻島は確かに珍しいよな。結婚してからずっと『妻が妻が』っつって誘っても来なかったからさ」

「じゃあさ、その話、あたしも加わっていい?」


 と言って、桂は切れ長の目を輝かせて俺たちを見た。

 一方の俺たちは顔を見合わせ、


「どうする? 巻島がだめっつうなら俺からいうぜ」

「う~ん、まあ……桂ならいいかなあ。名屋はいいのかい?」

「俺は別に、誰とでも」


 相談が終わる。

 巻島が彼女に言葉をかけると、桂は嬉しそうに「じゃあ最速マッハで仕事終わらせてくる!」と言って自分のデスクへと戻っていった。

 そんな彼女を見て笑っていると、上司から「ちゃんとやってるか?」という事実上のプレッシャーをかけられた俺は、慌てて仕事に戻った。




「っかぁ~、やっぱり仕事終わりのビールは最高だわ!」


 ジョッキを片手に、桂がおっさんくさい一言を言う。そんな彼女を見ながら、俺はビールをちびちびとやり、巻島はレモンサワーを飲んでいる。


 早い時間に会社を出たためか、明日が平日であるためか、居酒屋は人もまばらであり、予約をしていなかった俺たちも個室に通してもらえた。


「相変わらず桂はいい飲みっぷりだな」

「飲まなきゃやってらんないからよ!」


 と言って桂は、やれ最近親が露骨に孫を欲しがってるだのやれ他部署の誰それからの誘いがうっとうしいだのと愚痴をこぼし始める。酒が入ると愚痴っぽくなるのが玉に瑕だと、男連中には陰でこそこそ言われている。


 そんな噂などつゆ知らぬ桂は赤くなった顔を近づけ、


「総務の高木たかぎっているじゃん? アイツほんっっとしつこいのよねえ。何回食事の誘い断っても諦めてくんないし。やっぱ連絡先教えないほうがよかったかなあ」

「相変わらず、桂はモテるんだな」


 何気なく、そんな言葉が出る。


 社会に揉まれてなお手入れの行き届いた黒髪。

 意思を感じさせる切れ長の目に、北方生まれの白い肌。

 背が高く、プロポーションも整っている美人。

 それに加えて東京の良い大学を出ているときたもんだから、これで男に言い寄られないほうがおかしいだろう。


 誉め言葉のつもりで言ったのだが、思いに反して桂は微妙な顔をした。


「……この年になると、モテるなんて嬉しくないのよ。いくら有象無象が寄ってきても、生涯添い遂げられるような相手を見つけられないと意味がないの。……学生時代は、それこそよりどりみどりで毎日高笑いしてたけどね」


 そう言いながら、桂は皮肉気な微笑を浮かべ、左手の薬指を撫でまわす。この間まであった指輪を探すかのように。

 そのしぐさは、俺には分からない苦悩を、しかし如実に表しているようだった。


「重みがあるな、お前が言うと」

「うっさいわね! ……名屋こそ、そろそろ結婚とか考えたりしないの?」

「ああ、それは僕も思う」


 ここぞとばかりに、隣で静観していた巻島が口をはさんでくる。


「名屋は男として悪くないんだし、浮いた噂の一つや二つ、あってもおかしくないんだけどね。まったく聞かないからなあ」


 二杯目のビールに口をつけながら、俺は考えた。


 言うべきだろうか、彼らに。俺の事実を。

 人として、生物として醜い俺の内面を。


 ふと、脳裏に亜麻色の長い髪をなびかせる少女が浮かんだ。慌ててそれを拭い去り、俺は極めて平静を装いながら、


「まあ、今はまだいいかな」


 と、無難に答えた。二人は思い思いの反応をした。


 また臆病になっている俺を、どこか遠いところにいる俺自身が嘲笑っている声が聞こえた――ような気がした。

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