第4話

 翌朝、目が覚めると少女の姿はどこにもなかった。


 6時のアラームが鳴って、まだ眠たい頭をもたげると、晴れ上がった空から降る日差しがカーテンの隙間から漏れていた。その光の中に浮かび上がったベッドには、かすかに少女のいた痕跡を思わせる、乱雑にどけられた掛布団と、へこんだマットレスが寂しげにたたずんでいた。


「まあ、こんなもんだよな」


 財布とられてねえかなと思ってかばんを漁ると、中学校から使い続けている黒い財布はちゃんとあった。




 そしてまた仕事があった。


 9時半まで残業し、濃いクマの浮かぶ目でパソコンをにらみつける上司に退勤のあいさつを告げると、上司は片手を軽く上げただけで声も出さない。管理職って大変なんだな。


(まだ終バスがあるからこの時間に帰らせてもらえるけど、転勤して徒歩通勤になればあの人みたいにハイパーブラック社畜になるのだろうか)


 相変わらず人の乗っていない路線バスに乗りながら、そんなことを考えていた。


 窓の外では暮らしの光が次々とスターボウのように通り過ぎてゆく。一見明るいように思えるが、その実明かり以外は何も見えない。恒星の輝く宇宙空間。まるで銀河鉄道に乗ってしまったようだ。


 宇宙のような暗闇の中、ふと、俺は昨日の少女の顔を幻視した。


 なんの偶然なのか、ばったり出くわした家出少女。口が悪く、かと思えば変なところで素直だった。それが思春期という時間の作り出す、甘く、苦く、はかない夢であることに気が付くには、今朝になるのを待たねばならなかった。


 今日は家に帰っただろうか。

 それとも、また夜の街をほっつき歩いて、あるいは行く当てもなくさまよっているのだろうか。


 子どもであるということは、もろいということだ。いくら高校生とはいえ、教え導く存在がなければいともたやすく道を踏み外してしまうだろう。それは身をもって体験していることだ。


 とはいえ、俺は行きずりの赤の他人に過ぎなかった。彼女の人生に足を踏み入れるには、あまりにもよそ者でしかなかった。そのくせあの晩ベッドの中で丸められた背中に、多くの苦悩を見出してしまった。


 どうしようもない無力感。

 他人の傷を見て見ぬふりしかできないという罪にも似た感覚。


 ああ、まただ、と俺は思う。また俺は何もできないのだ。子どもの頃も何一つできやしなくて、大人になっても自分のことで精いっぱいで、他者の苦しみにはやたらと敏感なくせに何かできるわけでもなく、それどころかそれを見ながら自分がその苦しみを味わっていないことにひそかに安堵の息を吐く。俺はその程度の人間でしかなかった。




 バスが停まる。


 あれ、と思うと、最寄りの駅だった。


「お客さん、いつもここで降りてるでしょう」


 老齢の、低くしわがれた声が車内に響く。


「す、すみません」


 慌ててかばんを持って降りる。

 バスは何も言わずに去っていく。

 そして帰り道をとぼとぼ歩く。


「あ……」


 再会は突然だった。


 昨日はうずくまっていた少女は、今日は民家の塀に背中を預けながらスマホをいじっていた。黒く長い髪の毛のかかった横顔は、容易に忘れがたいものだった。


 少女は、俺の姿を見て驚いたような声を出した。


「あれ、お前昨日の……」

「や、あはは。昨日ぶり?」

「お前がいつ俺の部屋を出たかは知らんが昨日ぶりだろうな」


 少女は変わらず紺のブレザーを羽織っており、その下に、薄いクリーム色に見えるカーディガンをまとっている。街灯の明かりでははっきりと色の判別ができない。


「……お前、もしかして帰ってないのか?」

「やだなあ、帰ったよ。下着替えに。まあ、それだけだけど」

「それだけって……」


 親が心配する―—と言いかけて、言葉をのんだ。少女の親はめったに家に帰ってこない。


「おっさんこそまたこんな時間まで仕事? 身体壊しちゃうよ」

「壊れたら本望だよ」

「なにそれ。おっかし」


 俺が歩き出すと、少女は俺の斜め後ろについてきた。


 ついてくるという行為に、理由はなかったのかもしれない。ただ知り合いに会ったから途中まで一緒に歩こうと思っただけかもしれない。


 けど、俺には、その行動が、彼女が出しているわかりづらいSOSのサインであるように感じられた。


(わかりづらいんだよな、子どもって……素直なようでいて、大人よりもよほどわかりづらい)


「今日もウチ、来るか?」


 俺がおずおずというと、彼女は嬉しそうに笑った。

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