その夜(1)

 湊はガレージの裏手を壁に沿ってぐるりと歩いた。いつの時代のものかわからない落書きがそのまま放置されて削れている。雨は止んでいた。痩せた庭に適当なコンクリート片を見つけてそこに腰を下ろした。足を伸ばして項垂れる。自分のあとを付いて来た人影に気づいていたが、湊は黙っていた。


「一人になりたいところ、邪魔しにきたぞ」笠原だった。ポケットに手を突っ込みながら横まで歩み寄る。雨露残るフェンスの外側にある街灯が、わずかに彼の影を伸ばした。

「わかってるならついてくるなよ」

 湊がぶっきらぼうに告げる。

 

 沈黙。

 どこかからか動物が喧嘩する鳴き声が聞こえて来た。それがおさまるまでぼんやりしていた後、湊が再び口を開いた。ため息と諦めが混ざった声色だった。

「また負けた」

「そうだな」笠原は即答する。

「伊野田のIDが戻ってくることはないのか」

湊は見上げて訊いた。

「すでに死亡したIDとしてデータバンクが更新されている」

「気に入ってたラベルなだけ、残念だな。またおれは、ひとりじゃなにもできない奴に戻っちまったわけか」

「29歳児。俺より年上で、年下だ」

「笑える。一人じゃ車の手配もできなきゃ歯医者にも行けないな」

「いまのおまえは赤ちゃん以下」

「ビールは飲めるのに?」湊は鼻で笑った。つま先で転がっている小石を蹴飛ばす。

「そう嘆くなよ。新しいIDの取得はできる。時間はかかるがな。琴平さんがガレージに高額報酬を支払うかわりに、街で腕のいい弁護士を紹介してもらう。しかしおまえがそういうものに関心があったなんて驚きだ」


「自分でもびっくりしてるよ。ガレージであいつを、あー、ウェティブを見たとき、すごく腹が立ったから。愛着はあったんだな」

「ふーん。まぁ考え方を変えてみろよ。おまえは誰にでもなんにでもなれる人生を送れるってな。おまえの前に敷かれたレールはない、好きな道をいける」

「まぁ、前向きでいい考えだが、新しい場所へ行くたびに荒れ地を全部自分で開拓するのは骨が折れるね」

「そのために、まわりをうまく使えよ。言葉を覚えて、感謝を覚えて、意地を張るのを忘れろ」

 そう笠原に言われ、湊は訝しげに彼を見上げた。どうも調子が狂う。


「久々に会って急に説教なんてどうしたよ、違う?褒めてる?」

「次は誰になりたい?」まるで死にゆく奴に言うような言い草だが、湊自身もその意図はわかった。しばし考える。

「…こういうデカイ街でスーツを着て歩く」 湊は周りをぐるりと眺める。住宅街が広がり、反対側にはオフィス街が見え、また逆の方には廃れた地域が広がっているはずだ。

「ん?」

「おれは、アタッカーとしか動いてこなかったから。例え名前が変わったとしても、自分の行く手を邪魔するウェティブを叩くには、これ以外は何もできないんだよ。だからまったく違うことをしたいね」

「例えば?」

「そうだな、弁護士だな」

「さっそくメトロシティの影響を受けてんな」

「いいじゃないか、そういうことを考えるくらい。おれに今ついてるタグも、取下げの申し立てするんだろ」

「もちろんだ、このIDは架空のものだから、当然前科なんてない。証拠がない。すぐに取り下げられる」

「そういう仕事をしてみたいねぇ。あのビルのどっかでさ、コーヒー飲みながら熱心に資料を見返したり、顧客に電話かけたりなんてな。そういう、まぁ普通の仕事だよ」

「そうか」

「聞いといてそれだけ?」


 湊は笑いながら笠原を小突いた。フリをしただけだが。

「ところでさっき高見さんと話して来たけど、今夜はガレージに泊まってもいいそうだ。まぁ、俺はあの機体を調べてる途中だから残るけど。あの人は嫌がりそうだ」

「黒澤さんか?そうだろうよ。おれはモーテルに戻る」黒澤の顔を思いだし、恨めしげに自分の顔右半分をさすった。スリンガーとしてはとても息が合うのがわかるが、どうも苦手だった。


「それがいい。にしてもあの機体は…ありゃいい出来だ。ウェティブが笠原工業の社員でも脅かして作らせたんだろうが。かなり精巧だ。頭上のが円環が無ければ見た目はほとんど人間だな」

「さすが元おれ」

「もう冗談も言えるようになったか。あの機体のログをたどった。よく行ってた場所があったから、まずはそこを調べるよ」

「そうか。まかせた。おれは今日はもう寝たい」

「子守唄でも歌おうか」

「いらない」

 湊が腰を上げた。一度ガレージに戻るつもりだろう。その後ろ姿を追いながら、笠原が訪ねた。

「ところで俺、おまえをなんて呼べばいいわけ?」



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