正体を暴け(1)

もう一人が、振り返り。


 “それ”は驚いたような顔をこちらに向けて浮かべる。しかしそれは、自分にだけ送られた嘲りを込めた笑みにじわじわと切り替わる。それがわかった。相手が瞬きをすると、次に開いた瞼の奥が緑色にきらめいたように見えたのは気のせいではない。自分だけにわかるようにわざとそうしたのだ。


 黒澤が湊に何かを言ったが、もはや聞こえない。「紹介するよ、うちの新人」と言ったかもしれない。その新人は、棚に預けてあった湊の装備品を見てわかっただろう。ここに自分が来ていることを。


 だがそんなことを考えるよりも先に、湊の体は動き出していた。

 踏み込む。

 黒澤が驚いて静止する声が聞こえたかもしれない。高見が目を丸くしながらテーブルからビールを避難させていたように見えなくもない。目の前の男は腰からナイフを抜いたかもしれない。全てがどうでもよかった。


 湊は警棒を振り上げて、“それ”に殴りかかった。勢いよく振り下ろされた警棒は、コンクリートの床に叩きつけられ、ぎぃん、と耳障りな金属音を響かせる。その衝撃が義手を通り越して肘まで伝わり、湊は顔をしかめたが、目前に迫ってきたのは膝か。撃ち抜かれる寸前に素早く真横に飛んだが、力の加減ができなかったのか、棚に体ごとぶつかってしまったせいで飾ってあった小物が床に転がり落ちた。高見が肩を跳ね上げらせるのが視界に見えたから、彼女の私物が飾ってったのだろうか。あとで一発、彼女に殴られるくらいなら我慢はできるが。そのまえにこいつを打ちのめさなければ。

 

 息つく間もなく、明らかにこちらの急所を狙ったナイフの切っ先が突然現れ、湊は警棒でそれを弾いた。耳障りな金属音が響く。次いで自分の顳顬こめかみを狙ってきた打撃が本命ということはわかっていたので、そちらを見もせずに肘で撥ねる。痺れが昇ってきた。少し驚いた顔を見せた“それ”の顔面めがけて、湊は身体を捻り、速度を殺すことなく警棒を突き出す。ナイフに弾かれたが、湊は一瞬で腰を落とし間髪入れずに足を払った。バランスを崩した“それ”に膝を撃ち落とし床に倒したところで、ナイフが床に転がった乾いた音が聞こえてきた。それを横目に映しつつ、首に手をかけ押さえつけた。


 湊はそのまま瞬発的に息を吸い、右手で握りしめていた警棒を一気に振り下ろす。なんとも言い難い異音を発して、警棒が相手の右手にめりこんだ。硬くも柔くもない感触を突き抜ける。しゃっくりのような悲鳴が聞こえた気がしたがどうでもいい。おそらく高見だろう。警棒を握る自分の手は、逃げ場のない力が分散しようとしているせいで震えていた。次いでその顔面に拳を撃ち落とそうとしたところで、自分の耳元で衝撃が走った。破裂したかのような感覚に思わず片目を瞑るも、体を転がせて体勢を持ち直す。両膝をついた状態になり、わずかに“それ”と距離ができた。思わず舌打ちをする。じりじり痛む横面は、どうやら黒澤に蹴り飛ばされたらしい。

 居たことを忘れていた。


「いきなり何しやがる」

 黒澤が怒声を発しながらこちらに向けた拳銃の照準と視線がぶつかった。湊は唇を噛んで黒澤を睨め付けた。彼が狙いを外すなんてことはないはずだ。湊は鋭い眼差しはそのままに、無言で右手から警棒を離した。からん、と乾いた音が響く。先が歪んでひしゃげていた。


「それを、…よし、警棒を遠くに」

 黒澤は、慎重に言葉を選んでいるように見えた。目を逸らさず、湊は彼の指示通りゆっくりと…動く。息を止め、どちらの動きも視野にいれながら(ついでにソファの裏に隠れている高見も)相手から離れて、腰を屈めた姿勢を経由し、膝を伸ばして立ち上がる。


 黒澤が厳しい顔のまま何度か頷く。しかし彼が、ふらふらと起き上がろうとしている相手を一瞥した時、黒澤の表情に驚きが乗ったのを見逃さず、湊は一瞬で、床に転がり落ちた恐らく貝殻の装飾品だろう。それを思い切り蹴り飛ばした。不意をつかれた黒澤は身を屈めて逃れたが、さすがに目前まで接近していた湊へ瞬時に銃口を向けることはままならず、左前腕で顔を多い、湊の打撃を受け止めた。


 明らかに怒りを含んだ表情で見上げられるが、湊はその視線より、後方から向けられてくる一打を読み、黒澤の太ももを蹴りつけた勢いを使って飛び上がった。体を捻りながら、次いでこちらに向かってきた“それ”を蹴りとばすことはできたが、滞空が長すぎたのだろう。舌打ちする間もなく、下から振り上げられた黒澤の拳が、自分の鳩尾に突き刺さるのを受け入れるしかなかった。自分の動きの悪さを呪いたい気持ちを抱えながら、背中から床に倒れこむ。


 拳を受け止めた場所が痛むのと同時に嫌悪感が猛スピードで細胞分裂を起こしているのを感じて、吐き出しそうな気分になったが。足を振り上げて即座に跳ね起きると、持ち直した“それ”に羽交い締めにされナイフの切っ先が目尻の淵に触れるであろう距離に見えた。すぐに肘を打ち、相手のつま先を踵で踏みつける。拘束する力が緩んで、そこから逃れると同時だった。


 今度は自分の顔面に衝撃が走る。拳が見えていたような気がしたが、次の動きの脳内計算が完了するよりも、黒澤から放たれた拳の方がわずかに速かった。あまりわからなかったが、黒澤自身もヒットしたことに今更ながら驚きを隠せない顔を見せた。こちらが顔をそらすことも踏まえて打ち込んだのだろう。結局、“それ”と同じ方向に倒れこむことになり、湊の視界には天井が映った。ダクトがむき出しで頼りない電球がぶらさっがている、ただの天井。次いで右目周辺から、耳や首、頭へ染み渡るざわついた皮膚の不快感。思わず顔をしかめそうになるが、歯を食いしばりながらすぐに上体を起こすと、肩で息をしている黒澤が、困惑混じりの顔で改めてこちらに銃口を向けていた。

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