失った輝き
教室の中で僕はノートを取っていた。僕は高校三年生で三年七組の教室の後ろの方の席に座っていた。先生は黒板に数式を書いている。僕はそのたびにノートに数式を書き込む。僕はただ残りの時間がどれくらいしか考えていない。先生の話すことも黒板の数式もただ無意識に記憶するだけだ。
授業が終わると、担任の先生がやってきてホームルームが始まった。僕は鞄を机の上に置いて、時間が過ぎるのを待った。先生の話が終わると、僕は廊下へ出た。
「中村君」
僕の幼馴染の京子が僕を呼んだ。
「何?」
僕はちょっと照れ臭くて冷たく返事をした。
「一緒に帰ろうよ」
「うん」
僕らは下駄箱まで階段を降りて行った。京子と僕は家が近所だった。小さい頃から一緒に遊ぶ仲だ。中学生の頃、僕は女子に対して過敏に反応するようになった。女子に抱いた様々なものを隠そうとしていたのだろう。隣を歩く京子もそんな異性の一人だった。
「中村君は東京の大学に行くんでしょ?」
京子はなんでもなさそうに僕の隣を歩く。校舎の外に出ると、オレンジ色に空が染まっていた。
「僕の成績じゃ地元の国立大は難しいだろうし。そうなると東京に行くしかないからね」
京子は地元の国立大が第一志望と言っていた。
「じゃあ卒業したら離れ離れかもね」
僕らは校庭の道を歩いた。僕はただ気恥ずかしさを感じていた。どうしても京子を女性だと意識してしまう。
僕らが歩いている道の隣には田んぼが広がっていて、遠くに緑色の山が連なっている。風は涼しくて心地がよかった。
僕らは途中で河原に腰を下ろした。川がせわしなく白いしぶきをあげて流れている。僕はこの町の景色がとても気に入っていた。
「寂しくなるなぁ」
京子は座りながら僕を見ていた。僕はなんだか胸がどきどきした。京子に抱いている様々な思いが見透かされるような気がしたからだ。
「夏と冬はたぶんこっちに帰ってくるよ」
僕は小石を拾い、川に投げた。
空は徐々に暗さを帯びていく。風の温度は低くなっていた。僕は無意識のうちに言葉を選び、何を話したかも意識せずに京子と過ごしていた。
大学二年の秋、僕は二十歳になった。講義室で教授の哲学についての講義を聞いていた。僕は後ろの方の席に座り、ただ講義を耳に傾けた。いったい教授は何を伝えたいのだろうか。僕はその講義の意図を考えた。
二十歳になった時から、僕の意識は拡大を続けていた。大学に入学した頃のように友達と過ごすことを楽しむことは減ってきた。世界はとても簡素なものに見えた。僕は自分の内側に沸き起こる思考や想像などを観察していた。高校時代には考えられなかったことだ。あの頃はもっと常識というものの中にいたのだ。どうしてか最近は常識というものが作りこまれたもののように感じてしまう。そして大学の講義自体も無意味なものに思った。
僕は講義室にただ座り、そして高校生の頃の京子を思い出した。今彼女はどうしているのか少しだけ気になった。そして今まで京子のことを思い出すことすらなかったのだ。
講義が終わり、僕は大学を出て、駅まで歩いていた。よく整備された並木道を歩いた。辺りには住宅しかない。
僕は大学から歩いて二十分ほどの自分のアパートのドアを開けた。部屋の中には必要なもの以外ないから、なんだか物置のようにすら見える。
僕は京子に電話をかけた。数回の着信音の後に京子は電話に出た。
「久しぶり」
少し大人びた京子の声がした。
「やあ、久しぶり。さっき講義を受けた時に京子のことを思い出してさ」
「中村君から電話がくるなんて、珍しいわね」
「なんだか、一度電話したくなってね」
僕は京子と話すことで安心していた。
「今年の夏は実家に帰ってないんでしょ?」
「ちょっとアルバイトが忙しくてね」
僕は今年の夏休みは毎日のように引っ越しのアルバイトをしていた。その時は京子や実家の家族のことすら考えなかった。僕はただひたすらに体を動かし続けていた。エネルギーはいくらでも湧いてくるようだった。そして秋になり、大学が始まると、突然自己を動かしていたエネルギーは消え去った。
「今年の冬は帰ってくるの?」
「たぶん帰ると思う」
僕らは互いの近況を話し合い、電話を切った。高校生の頃のように京子のことを意識することはなかった。そして人に対して感じる親しみのようなものもなくなっていた。僕は高校生の頃とはすっかり変わってしまった違和感を抱き続けていた。
僕が実家に帰ったのは大学三年の夏休みだった。窓の外には緑色の稲の田んぼが広がり、太陽がとても明るく輝いていた。路肩にはひまわりが咲いていた。僕は実家の自分の部屋の中で小説を読んでいた。エアコンの風が室内を涼しくしている。
京子と駅で待ち合わせをしている午後の三時まで後、二十分だ。僕はエアコンのスイッチを切って、部屋を出て、階段を下りた。玄関で靴を履き替えて、外に出ると、夏の熱気を感じた。
駅の周りにはコンビニしかなくて、駅のホームには天井もない。さびれた看板に駅名が書いてあるだけだ。京子はしばらくしてやってきた。Tシャツに肌色の短パンを履いていた。
「久しぶりねー」
少し大人びた京子は髪を後ろで結んでいた。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
「私は元気よ。中村君、地元に全然帰ってこないから心配してたの」
僕らは切符を買って、改札を抜けて、ホームに行った。
「隣町で今日花火大会があるのよ。それで誘ったわけ」
「花火大会って夜からじゃないの?」
「まぁそれまでカフェでも行って時間をつぶしましょうよ」
電車が来ると僕らは乗り込んだ。車内には数人しか人がいない。僕らは席に座った。十五分ほど電車に乗ると、目的の町に着いた。
駅前は塾とかスーパーがあって、僕らの住んでいるところより栄えていた。僕らはそこから歩いて、カフェに入った。店内で僕と京子はアイスコーヒーを注文した。カフェの中は僕らくらいの若者や老人がいて、席の半分は埋まっていた。
「最近できたカフェなのよ。私休みの日にたまにここに来るの」
「大学生活はどうなの?」
「順調にやっているわ。今は公務員試験の勉強をしている」
「公務員になるんだ」
僕は京子と話しながら、店内をときどき観察していた。目の前には京子がいるのに、どこか自分が一人だけのような気がした。
午後の六時に僕らは店を出た。花火大会の行われる場所へと行った。空は暗さを帯びていた。
「向こうに高台があるのよ」
僕は京子の隣を歩いた。石の階段を上り、坂を上ると、高台があった。
花火はそれから三十分後くらいに始まった。カラフルな火花が空に散らばって、その後に大きな音がした。僕は一瞬高校時代に帰ったような気がした。あの頃は世界が輝いていたのだと思った。
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