朝一のカフェにて

 普段乗らないバスに乗ってみる。目的地はよく知った場所だけれど、その道は未知である。初めて見た人工河川、見覚えがあるようでない公園、n丁目停留所がいくつも続く不安。はじめてのおつかいのようで、ついきょろきょろしてしまう。ふと前を見ると知らない人が、知っているゲームで遊んでいる。自分よりずいぶんとベテランのようだ。あれほど苦戦した敵を、ばっさばっさとなぎ倒し、アイテムを回収していく。心の中で小さく拍手をして横を見る。窓にそれなりの大きさの虫が張り付いてぎょっとする。外側にいる事を確認して、その甲虫の腹を見る。機械のようにぎちぎちと精巧に動く脚に、寒気と、造形美。ああ吹き飛ばされた。降車駅を告げるアナウンスが流れる。よく知った停留所の名前でも、本当にそこで合っているのか、似た名前の停留所ではないか、もう少し目的地の近くへ行くのではないか、とあれこれ考えながら降車ボタンを押す。確実に辿り着くには降りなくてはならない。例え降りたバスが、しばらくついて来たとしても。


 バスを降りて歩く。残暑の炎天下。干からびた水場が虚しくそこにある。景気のいい頃は、爽やかな水場があったのだろう。乾いた水槽には足場にちょうど良い段差がある。こんな所で、水遊びをさせたのか。そういえば幼稚園が近いのだっけ。その光景を想像してみる。しかし、やはりこの水場で子供が遊ぶのは、やや好ましくないように思う。立地的にも、それほど遊びに適した場所でもない。


 今は亡き水場をなごり惜しみながらビルへ入る。ひやりと空調のきいた、涼やかな風。サウナの中にいるようなむっとした息苦しさから解放された気分である。通りすがりのカフェの前。ちらちらと黒板を眺めるが、食べ物の情報がない。渋々中に入り、透明なケースに並んだサンドイッチや、宝石のようなドーナツを眺める。名前がしゃれていて、味の想像がつかない。なんだこれ。どんな味がするのだろう。興味はあるが、博打に走る勇気はやはりない。結局、見覚えがある二択になる。ソーセージパイと、見るからに甘そうなキャラメルフラペチーノを持って座る。


 特別な朝である。しゃれたカフェで、小説を書くというのは、相当な労力を必要とするのだ。何せ私は、家から出る事がほとんどない。いやあるにはあるのだが、あと数日で仕事を辞める事になった今、下っ働きで引き継ぎもなく、職場に求められることはない。のんびりとしたものである。お財布事情は察して欲しい。本当は家から持ってきたペットボトルとおにぎりをベンチでもりもり食べるべきではあるが、土曜日もあくせくと働く人間を横目にそうする事に抵抗があることは、分かる人には分かるはずだ。クリームをもりもりと乗せたフラペチーノを一口。こってりと甘いキャラメルの香りと追加で入れてもらったアーモンドシロップの香ばしい風味、シェイク状の、コーヒーだろうか、とにかくひたすら甘いひやりとした飲み物がとろりと口に流れ込む。ソーセージパイにはご丁寧にナイフとフォークが付いていた。片手で食べるものではなかったのか、と思いつつも、出されたものは使ってみたい。さくさくと一口切り出して、食べる。バターとソーセージの塩気の向こうに、微かにマスタード。もう二、三本追加で買いたくなるのをぐっと堪えて、甘々と交互に食べ進める。美味しいものはいくら食べてもいい、というのは私の座右の銘である。幸福な体験が手軽に摂取出来るのだから。


 スマホに向かって文字を打つ。小説を書く、と言えば、格好は付くが、私の武器はもっぱらスマホである。小さなワープロもあるが、入力のクセに慣れていない。スマホから投稿するので、スマホから直接書き込んだ方が早いのだ。はたから見れば、スマホに夢中の中年でしかない。切ないものである。スマホと書きすぎてゲシュタルト崩壊。小説を書き始めてずいぶん経つが、長いこと相棒は手のひらに収まっていた。ワープロに浮気する事もあるが、辞書とアイディアノート、それに脳内フォルダをひっくり返すための、ツイッターも使える。時々寄り道をしてしまうが。


 今日は何も、小説を書きにきた訳ではないのだけれど。いい気分転換になったように思う。病院に健康診断しに来たのだ。滅多に来る場所ではない。遅刻してはいけないから、目的地には三十分前に着きたいな。ならバスに乗るのはこの時間か、バスも普段使わない経路だ、三十分前に駅に着こう。三十分前に駅に着くには、いつものバスも早めに乗ったほうがいいだろうな、駅まで三十分程度見積もればいいか。そのバスに乗りたいから、十五分前には停留所に居よう。少し早めに支度が終わってしまった。一応もう出ておくか。そうやっていたら、二時間前に着いてしまったのだ。三十分ほど時間が潰れた。もう一本書こうと思う。そうして遅刻するのだ。私はスマホのアラームを、受信時間の三十分前にかけた。

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