ボス

 『戦争』という手遊びを知っているだろうか。片手で握手をし、『戦争』の掛け声に合わせてジャンケンをする。ジャンケンで勝った方が親となり掛け声を繰り返す。負けたら交代。あいこならば親が子と繋いだ手を力任せに殴る。先に音を上げた方が負けという、子供向けのデスマッチである。


 カンタは戦争で負けたことがない。同学年の他の子供達よりも小さなカンタは、転校初日こそクラスの中で浮いた存在だったが、悪ガキのボスに戦争を挑まれふたつ返事で開戦し、見事勝利をおさめたのである。クラスの中心で手を握り合い、互いの手を殴り合う。相手の力は強く、開始5分もすれば手の感覚もなくなりかけていたが、歴戦の勇士カンタには日常茶飯事だった。午前中最後の休憩時間も残り3分となった時、カンタの『軍艦グー』によって敵の手の甲は打ち砕かれた。本気になってんじゃねーよ、と遠吠えを吐きながらボスが手を離した瞬間、戦いを見守っていたクラスメイトがワッと声を上げた。赤く腫れ上がった手を拳にして高々と掲げたカンタがクラスに認められた瞬間である。


 しかし戦争というものは決して平和だけをもたらすものではなかった。戦勝国であるカンタの名は2クラス30人の間に瞬く間に広まった。隣のクラスのボスやその子分、更には大ボスである上級生がひっきりなしに訪れ、カンタの手の甲は限界に近付いていた。昼食を済ませ、昼休みも終わる頃、10戦無敗のカンタが水場で手の甲を冷やしていると、少年がカンタに背後から話しかけた。

「カンタくん、これ……」

おずおずと差し出された両手には、小花柄の氷嚢があった。

「冷やさないと、痛いでしょう?」

「ほっとけば治るよ」

「ダメ、きっと後から痛むから……」

見た目の割に押しの強い少年がぎゅっと氷嚢をカンタの手へ押し付ける。涙ぐんだ黒い瞳は美しく、その瞬間、カンタの初恋が本人すら気付かぬほどの胸の奥に芽生えた。

「帰りに保健室に返すから、案内するから、一緒に行こうね。それまで冷やしてね、約束だよ」

カンタが小さく頷くと、少年は微笑み教室へ戻って行った。


 少年の席はカンタの隣だった。この辺りでは珍しい漆黒のつややかな髪とリンゴのように赤い唇に見惚れているうちに5限目が終わり、そのまま帰りの会を終えると、ボスが再戦を挑みにカンタの机へ向かった。

「なんだ、そんなの使ってズルいんじゃねーの」

氷嚢を見た敵は取り巻きとともに下品に笑った。こんなものを寄越すから、とカンタが隣を見ると、少年は立ち上がってボスとカンタの間に割り込んだ。何が起こったのかわからないままカンタが眺めていると、少年はボスを見上げて言った。

「君も手が痛いのなら、保健室へ行こう。ね、ほら、荷物を持って」

これにはボスも拍子抜けした様子で、素直に従った。少年とカンタの後ろをぞろぞろと連れ立って歩くのを見るに、恐らくボスとは別の役割として、教室を取り仕切っているのだろうとカンタは推察した。


 無事に氷嚢を返し、ボスやその取り巻きのうちカンタに負けた弱小国、そしてカンタも、家に帰るまでの間に冷やすための、氷の入った袋をそれぞれ手に持ち帰路についた。少年は迎えの車が来ていたので校門前で別れた。他の子供達が言うには、少年は県を跨いだ遠くから通う、とある名の知れた家の子供のようだった。

「ちょっと変なんだよ、あいつ」

ボスが帰路の途中で呟いた。

「変って、何が?」

「先生とか、用務員のおっさんとか、保護者とか。とにかく大人が全員、あいつの事を贔屓してんの」

「それは……優等生だから、とかじゃないの?」

カンタがそう返すとボスとその取り巻きは目配せした。

「まあ、そうかもだけど」

そういうとボスとその取り巻きは、カンタの家とは逆方向へ続く道に帰って行った。夕陽になりかけの太陽が狭い道を照らして輝いていた。カンタは結露が地面に落ちては滲んでいくのを眺めながら、明日改めて礼を言おうと心に決めた。


 翌日。家の庭から摘んだ小さなひまわりを手に教室へ入った。少年はすでに席に座って本を読んでいる。

「おはよう、手は大丈夫?」

「う、うん、ありがとう。これ、お母さんがお礼にって」

チラシで包んだだけの花束を渡すと、少年はぱっと花が咲いたように笑顔になった。

「ありがとう、素敵な花だね。先生に花瓶を借りてこないと」

考えてみたら、切り花を渡したところで学校にいる間中持っているわけにもいかない。逆に悪い事をしたな、と少年の背中を見送りながら鞄をしまうと、ボスとその取り巻きが教室にがやがやと入ってきた。

「おはよ」

「おう、あれ、あいつは?」

「花瓶を取りに行ったよ」

そうか、と頭を掻きながらボスは言った。そして、遅くなるだろうな、と取り巻きの誰かが言った。


 朝礼の時間になっても担任は来なかった。そして少年も、戻ってくる気配はない。決して素行が悪いわけではないはずなのに、とカンタが不安に思っていると、教室の前後の扉が開いた。前からは担任が、後ろからは、ひまわりの花瓶を持った少年が入ってきた。少年はやや忙しなく後ろのロッカーの上へ花瓶を置くとそそくさと席についた。走ってきたのだろうか、少年の頬と耳は微かに赤らんでいて、小さく震えていた。


 2限目の後の行間休み。ボスが少年の席へ、取り巻きを連れずに歩いて行った。他のクラスメイトと話していたカンタはそれを横目で見ていたが、二、三言交わすとボスは席に戻っていった。

「なんか言われた?」

カンタが席に戻って聞くと、少年はくすくすと笑いながら答えた。

「カンタくん、あの子と最初に戦争したから、きっと心配してくれるんだね。大丈夫。あの子すごくやさしいから」

「そうなんだ」

「カンタくんも、やさしい。でも戦争は、痛いからあまりやらないでね」

細めた目には長い睫毛が影を落としていた。


「あいつが大人んとこ行く時にさ、付いて行ってくれよ」

ボスが帰りの分かれ道で言った。よく意味がわからず戸惑うカンタに子分が言った。

「大人は思ってるより悪いから」

「そうなんだ」

「そんなもんだ。一応お前も、ちっさいから気を付けろよ」

「何を?」

「大人に」

そういうとボスと取り巻きは背を向けた。言葉の意味がわからないまま、カンタは家に帰った。


 転校して来て最初の金曜日。放課後、ひまわりの花瓶を返しに行くと言っていた少年について行こうかと訊ねると、少年は少し考えてから首を振った。一人で出来るから、と遠慮がちに言うと、少年は花瓶を手に取り、逃げるようにして教室を出て行った。カンタがこっそりと後をつけていると、花瓶をすすいだ少年は担任のいる職員室へ入って行った。引き戸の隙間から見ているうちに他の職員に見つかり、慌てて外に出て今度は窓側から覗いていると、背後からボスが現れた。突然のことに悲鳴をあげそうになったカンタの口をボスが強引に塞ぐと、見ろよ、と窓の隙間から中を指差した。


 花瓶を持った少年の腰を担任が触っている。その手が、ズボンの隙間から中へ入っていくのが見えた。少年は遠目からもわかるほどにびくりと身体を震わせ俯いている。

「わかるか、あれ。わかるだろ。」

ボスが普段より一層苛立った声でカンタに話しかけた。カンタにその意味がはっきりと分かってはいなかったが、好ましくないことである、というのはボスの表情を見て明らかだった。ボスは舌打ちすると、カンタの手を力一杯握った。

「悪いな」

そういうとボスはほとんど絶叫と言っていいほどの声で、開戦の掛け声をあげた。


 カンタの転校初の敗北は、たった3秒で決まった。ボスの先行で始まった戦争は、次の『軍艦グー』によって終戦を迎えた。ボスの手のひらがカンタを手の甲ごと職員室の窓へ押し倒す。部屋の中から慌てた様子で担任が出てきた。窓が割れることはなかったが、受け身をとる暇もなかったカンタはボスの足元へ転がるようにして仰向けになった。ボスを叱る担任とボスの間で呆けていると、少し顔の赤い少年がやや遅れてカンタ達の元へかけより、担任に、カンタを保健室に連れていくと言った。


「ごめんね」

保健室の前でカンタが言った。

「ケガとかないから、平気だよ」

少年は未だ震える手でカンタの手を握った。

「ううん……僕の方こそ、ごめんね。きっと、あの子と守ってくれたのでしょう?」

カンタが黙って聞いていると、少年は無理やりに笑顔を作って続ける。

「でも、大人は思っているより強いから、ごめんね」

そういうと少年は走ってどこかに行ってしまった。置いてけぼりを食らったカンタは、うら寂しい気持ちでその場に立ち尽くしていた。遠くから5時の鐘の音が聞こえた。


 翌日から、ボスが学校に来ることはなくなった。親の事情とやらで転校したらしい。担任は朝の会でそういうと、ちらりと少年の方へ視線を送った。少年は青ざめた顔で俯く。後ろ髪から覗くうなじを見て、カンタは、窓から見たあの世界の意味をようやく理解した。

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