月子ちゃん

 月子ちゃんのマグカップの持ち手がもろりと取れて、なみなみと注がれていたミルクが円を描きながら溢れていく。真っ白な月が膝上30センチ辺りに出来た時、僕たちは暗い宇宙に放り出された。


 細く小さな月はゆっくりと漂っている。落ちたはずのマグカップのカップ部分は月に引っかかって、ころり、と音を立てた。真空に音はないはずなので、これは現実でない事がわかる。折れた持ち手を片手に月子ちゃんは呆然と浮かんでいた。

「取れちゃった」

月子ちゃんは残念そうに呟く。僕は、月に引っ掛かったカップが、偶然にもウサギ柄だったことに気付いた。親指の腹ほどの小さなウサギたちがぴこぴことカップから月へ着陸していく。すっかり無地になったコップはウサギを月へ運ぶ役目を終えたかと思うと、ぱか、と真っ二つに割れた。

「割れちゃった」

僕が言うと、月子ちゃんは、んふ、と小さく笑った。割れたカップはどこまでも銀河を落ちていく。月子ちゃんが持ち手から手を離すと、くるくると回りながらカップの後を追って消えた。


 小さなウサギたちは真っ白の月の上で、何をするでもなく思い思いに過ごしている。月子ちゃんは辺りを見回して歩こうとしたけれど、足はぎこちないパントマイムのように空を切った。

「地面がないと不便だね」

そう言うと、そっと何かに寄りかかるように月子ちゃんは後ろへ倒れ込んだ。ぷかぷかと水に浮かぶように両手を広げる。セーラー服のスカートの裾が、ふわりと浮き上がって僕は慌てて目を逸らした。

「えっち」

「だって、いきなりだったから」

あまりに慌てて横を向いたせいで全身がくるうりと右に回転する。息が出来る水中のようだった。水を蹴るように膝を曲げ伸ばしすると、それなりに動けるみたいだ。


 みじんこのようにぴんぴんと泳いでいると、いつのまにか月子ちゃんと僕の距離はだいぶ開いていた。月子ちゃんはミルクの月のそばで眠っている。あすこに戻るまでどのくらいかかるだろう。何か、とてつもなく遠くまで来てしまったように思える。僕は途端に怖くなって、ぴんぴんと月子ちゃんの所へ戻ろうとするけれど、もがけばもがくほど月子ちゃんとの距離は離れていった。


 宇宙に一人きりになった。辺りには星が瞬いていると思い込んでいたけれど、小さな光る粒は星ではなくて、砕けた板飴だった。いちご味のさそり座を食べてみる。飴は口の中にさらりと溶けてどこかに消えた。そういえばこの辺りには天の川があるはずだけど、どうやらここにはないらしい。さそりの嘆く声が聞こえる。月子ちゃんの姿は見えないけれど、この宇宙のどこかにいるのは確かなのだからあまり気にする必要はないのかもしれない。


 ちょろちょろ、と水の流れる音が向こうから聞こえた。月子ちゃんの方からだった。遠くから白く光る細い川がゆっくりとこちらに向かって流れてくる。川の流れを頼りに上流へ向かうと、割とすぐに月子ちゃんの見える所まで戻ってくる事ができた。天の川はミルクの月から生まれ、流れているようだ。月にいたウサギはどうなったのだろう。僕はゆっくりと月子ちゃんの元へ歩みを進めた。すうすうと寝息を立てる月子ちゃんの唇に、触れるか触れないか。その瞬間、僕らは元居たリビングに突然戻ってしまった。突然の重力に、わっ、と小さく叫ぶと同時かそれより早く、ごとり、ばちゃ、と足元から音がした。


「取れちゃった」

悲惨なことになったふわもこの絨毯の上で立ちすくむ月子ちゃんの声。ミルクの川。その真ん中で真っ二つになったカップには、ウサギはもう1匹もいない。

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