ミカエラ
森の中には魔女がいた。黒く艶やかな髪は立ち上がったままでも床まで届くほどであり、不思議と埃を寄せ付けない。翻るスカートにも似た官能的な
魔女の名前はミカエラという。大天使の名はかつての姿の名残だと、自嘲気味に彼女は呟いた。兄の代わりに堕ちたのだと
ある日ミカエラは恋をした。それは隣村の、木の実やトカゲを集めては売りに来る老婆が腰を痛めたので、代わりにやってきた少女だった。少女に名前はなかったが、特段不便をする事はなかった。魔女は名前を呼び合わない。魔女にとって名前を知られる事は、相手に支配される事と同一であったため、本物の名前などは誰にも見えない自らの肋骨へ刻み込んで、すっかり忘れてしまうのが習わしだった。ミカエラの名ももちろん本物ではない。少女はミカエラに荷物を渡すと長居することなく立ち去ったが、少女もまた、魔女に恋をしていた。
ある日の晩のこと。その日も少女はミカエラに逢う為に森へ足を運んだ。老婆の腰はすっかり治っていたが、少女がわずかな賃金でも運び手を引き受けるものだから、つい頼り切っていた。荷物の中には魔女が頼んだ品ではない、花やパンやぶどう酒もあった。少女は平然を装い、魔女の家へ訪れると、
少女の本当の姿は、ミカエラさえもその存在を知らなかったであろう姉、ルチフェロであった。ルチフェロが目覚める頃には、白金の髪は穏やかな海のように煌めいて、
ミカエラは少女が美女となった事にいくらか戸惑いはあったが、中身は名もなき少女と少しも変わらない事に安堵した。割ってしまった皿やコップを片付けてから、改めて朝食を作りご馳走した。クレープシュゼットの甘く爽やかな香りは穏やかな時をもたらしたが、対して、ルチフェロにはいくらかの戸惑いがあった。ルチフェロの光はミカエラの顔に広がる、深く暗い夜空を暴いたのだった。
やがてルチフェロはミカエラを恐れるようになった。雨が上がり、しかし、人々の目を焼く事に怯え、ミカエラの家に間借りする形となったルチフェロは、ミカエラの言いつけで、寝床で踊る羽虫のような精霊どもに囲まれただそこに座っていた。ミカエラはルチフェロを気遣い、これまでミカエラがその
ミカエラは生粋の魔女であるが故に、人の営みを理解しない。飢饉や戦争における人々の死に様は地獄のようだった。また、己がかつて愚かな人間どもに焼かれた時の怨念、そして朽ちた肉体から何度も蘇る生々しい痛みを言霊に乗せて語り続けた。言霊はルチフェロの耳の穴から蛇のようにずるりと脳を絡め取り、愛撫した。蛇の見せる幻覚はやがて実体としてルチフェロを蝕み、ルチフェロの身体を焼き、貫いた。ミカエラはルチフェロの爛れた肌や、尋問で裂かれた破瓜の血を余さず舐めると、人々にするよりもずっと丁寧に、しつこく、ルチフェロを可愛がった。快楽に灼かれ、ルチフェロの美しかった肢体は段々と煤けていった。世界に怯え、すっかり人と変わらぬ姿へと変貌し、尚も己を愛するミカエラの首を叩き切ったのは、かつての夜と同じ、激しい雨の晩だった。
ひと時でも愛した魔女の首は泥水の中へ落ちたが、その黒髪は不思議と濡れる事も、汚れる事もなかった。恐る恐る首を持ち上げると、その夜空には美しい星々が瞬いていた。雨に混じったルチフェロの涙が数滴、新たな星となって輝き始めると、闇は口を閉じ、そこには愛しい魔女ミカエラの、あどけない少女のような穏やかな顔があった。
この物語に救いがあるとすれば、ミカエラは別に死んでなどいなかった事だろうか。雨の中でミカエラの首を抱き、慟哭するルチフェロに、大層気まずそうに話しかけるミカエラは、しかしその姿に心の底から満足したようで、それ以来、刺激の強い話は控えるようになった。
森の中には二人の魔女がいる。人間は変わらず魔女の元を訪れた。二人の魔女は仲睦まじく、以前ほど人間の生気を必要としないようだ。黒い魔女の占術は平穏な日々をもたらし、白い魔女の作る妙薬は人々を癒した。魔女の住む国は豊かで、今も不思議な出来事で溢れているらしい。
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