ママ

 目を覚ますと、心地よいゆりかごの中にいた。天面からは細く暖かな日差しが差し込み、辺りにはバナナやマンゴーを彷彿とさせる濃い果物の匂いが漂っている。胎児のような姿勢で座っていた私は、その身体の半分ほどが愛らしいピンク色の液体に浸っていることに気付いた。液体は体温とほとんど同じか、それより少し暖かい。興味本位で舐めてみると、ガムシロップをさらに濃縮したような、例えるならばバイト先のドリンクバーに補充する、希釈する前のジュースのような、虫歯に滲みる甘さだった。


 新鮮な肉の色に似たゆりかごはどくどくと脈打っている。表面にはやはりシロップが流れている。立ち上がって背伸びをしてもへりには届かないが、日の光が透けるほどに薄い壁なので道具があれば破く事は容易いだろう。そこまで考えたところで、今度は自分が裸であることに気付く。よくよく見ると産毛がない。脇毛と鼻毛もない。下の毛はやや薄くなっていて、髪や眉毛は残っている。エロ本でよく見る都合のいい液体だ‪…‬…などと呑気に考えていたが、持ち歩いていたはずの鞄がないという事はハサミやカッターのような道具もないという事だ。己の爪を見て、幼い頃から治さなかった噛み癖をやや呪い、試しに丸い爪でゆりかごの内側を掻いて見るも、くつくつと笑うようにゆりかごが揺れただけで破れることはなかった。とりあえず冷静になろうと座り直し、再びシロップに温浴していると、何処かから子守唄のような優しい歌声が聞こえることに気が付いた。外国語らしく意味はわからないが、不思議と眠気を誘う。眠ってはいけないと本能が訴えるが、その甲斐虚しく私は再び眠りについた。


 次に目を覚ましたのは夜だったようだ。辺りは暗いが、袋の底が淡く光っていて心地よい。袋が大きくなったようで、私は手足を伸ばして仰向けになっていた。シロップは仰向けになれば顔が付かない程度の深さで快適だ。これで枕か何かがあれば最高なのだが、と考えていると頭上から何か大きな物が降ってきて、私は生涯で一番大きな悲鳴を上げた。落ちてきたのは、巨大なタコだった。またエロ本か。


 しかしタコを侮ってはいけない。日本古来から親しまれてきたスタンダードな性癖のための生物であるタコの腕のうち一本は生殖器──つまり、ちんちんなのである。タコがびたびたと触手もとい、腕とちんちんを、いや、メスのタコならちんちんはないが、とにかく液体に落ちた衝撃で暴れている。武器がない私に対抗の術はない。しかし、初めての相手がタコというのは避けたかった。踊り食いで対抗出来るだろうか。魚介はあまり得意ではないが、食べられない訳ではない。私が身構えていると、落ち着きを取り戻したタコは床を確認するように脚を広げぬらぬらと近寄って来た。


 恐怖で身動きが出来ない。何せ相手はただのタコではなく、巨大なタコだ。自分より大きな生物を檻や水槽越しにしか見た事がない者が恐怖するのも無理からん話である。また、エロ本などというこちらの命を奪わないという前提で成り立つ‪、とは限らないが、一般的なものを例に、その前提で考えていたものの、タコが私を捕食しないという保証は何もない。ねとり、腕かちんちんが私の足に絡みつく。『蛸と海女』の図そのままに全身に絡みつくまでそれ程時間は掛からなかった。股間から食われるのか、と短い人生を思い返しているが、痛みが来ることはなかった。ゆりかごがくつくつと揺れた。


 鉄棒ぬらぬら先生がいやらしいと感じた構図のままそれなりの時間が過ぎた。別に気持ちいいことはなかった。少し期待してしまっていただけに虚しさが大きい。このタコはシロップの中にいて浸透圧とか大丈夫なのだろうか、などと考えているうちに再び子守唄が聞こえた。風呂場で寝てはいけない、という知識が頭に過ぎるが、それを言うならばタコと二人きりで絡み合うのも、そもそも、何か生きている生物の中で泳いでいるのもいけないことだろう。馬鹿馬鹿しい、と半ば諦め気味に呟いて眠りについた。タコの腕かちんちんが優しく頭を撫でた。


 目が覚めたら状況が一変していた。タコがいない。シロップも袋の内部をしっとりと湿らすほどしか残っていない。そして、私の下半身が、恐らくタコになっていた。あぁ、人生が終わる事には違いなかったのだ。よく見ると肌もうっすらとピンク色に染まっている。鏡はないけれどもしかしたらタコの目をしているかもしれない。さようなら私の人生、と呟く。今更ながら、かつて人であった事実は覚えているが、何処の、何者であるのかが全く思い出せない。しかしその事に焦りはもはやなかった。何せタコ人間である。思い出したところで、人間だった頃の日常には二度と戻れないのだ。無闇に思い出す事をやめて、うねうねと下半身を動かす。下半身ではあるが、足よりは腕の感覚に近い。ハイハイをする要領で動くとあまり頭を使わなくていいようだ。どこかデフォルメされた可愛らしい吸盤と、下腹部から続くねじ巻きのような赤の模様にどこか誇らしささえ感じながら壁を這い上がった。這い上がれた。わたしのかわいい子、と優しいの声が聞こえた。今度は意味をはっきりと理解できる、祝福の歌を聴きながら、ゆっくりとママの中から這い出ると、そこには見覚えのない、見渡す限りの大海原が広がっていた。

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