木戸くん
隣の席に、高校生なんじゃないかってくらい幼い顔立ちの『木戸くん』という男の子がいる。いつでも机の上に2リットルの水を置いて飲んで、メロン味の小さな飴をずっと食べている。彼は駄菓子屋に積まれているポットのような容れ物に緑色の飴だけを詰めていて、止むを得ずそれ以外の色の飴を買った時はバラで置いてある。時々皆のデスクに2つずつくらい配ってくれる。もはや部署の全員が木戸くんの飴だと知っているので、木戸くんの机にはお返しのお菓子なんかも小さな山になっている。仕事は出来る方で、何かあったらとりあえず木戸くんに聞けば大抵はわかるし、木戸くんがわからないことでも彼がすぐに上長に確認を取ってくれるので頼れるのだが、いかんせん見た目が高校生だもんで、社内ではどちらかというとマスコット扱いされることが多い。
それはさておいて、私が木戸くんに興味を持ったのは、会社の中での彼がやたらに水を飲むことや、透けるような白い肌の色に、時々本当にうっすらとメロン味が透けているように見えるのが理由ではない。真夜中、大体2時くらいだろうか。ネオン街の中で木戸くんを見かけたのだ。普段の真面目を絵に描いたような、白と黒の清潔感で統一された外見は夜の街にあまりに馴染まない。そういう所で見かけるようなタイプには見えないので、道に迷ったのかな、程度に思っていた。彼がとろりと溶けて、着替えを済ませた状態で再び固まるまでは。
一瞬、の出来事ではなかった。たっぷり5秒はあったように思う。先ほどまで着ていた白のワイシャツはグレーのデジカモのパーカーに変わった。隣を歩くピンクとパープルの髪をした派手な少年に小突かれて周りをキョロキョロと見回した彼が、こちらに気付いた。やや驚いた顔から、天を仰ぎ、再びこちらを向いた時には、普段の人懐こい笑顔ではない、気味の悪い笑みを浮かべていた。黒い瞳が、顔面にぽっかりと開いた穴のようだ。生理的な恐怖。ふと自分の腕を見てみたら大きな毛虫が肌の上を歩いていたような感覚。木戸くんがこちらに向かってずるりと足を踏み出した。私は、同僚であったはずの彼から全速力で逃げ出した。
それから休日を経て、週明けの月曜。出社すると普段と変わらず、水と飴玉に囲まれ、いつも早めに出社する木戸くんがそこにいた。他の人はもうしばらく後から来るだろう。二人きりのときに見せる真面目な彼の意外な一面、といえば、まるで恋愛ドラマのように可愛らしく聞こえるが、その一面がどうして私の生活を脅かさないと言えるのだろうか。しかし、同僚である以上は嫌でも関わり合いになるのだ。私は逃げ出したことへの弁解をするつもりだった。意を決して彼の隣へ座った。
ぬるり、と足の指の間に何かが入り込んで来た。身体を這い回る水は服を濡らさない。悲鳴をあげそうになるが、それすら叶わないことに気付いたのは数瞬遅れてからだった。肺のあたりから口いっぱいに何かが蠢いて、粘膜を擦り上げる。水で出来た巨大なナメクジ、といえば伝わるだろうか。口からはみ出たその尾っぽを掴んでどうにか引き摺り出そうともがいていると、大丈夫ですか、と声だけは心配そうに、顔はあの時の笑顔で、化物が私の顔を覗き込んでいた。
「悪い夢でも、見ましたか?」
ずる、と、水ナメクジが身体の奥へ入り込んだ。はち切れそうな膨満感と引き換えに得られた酸素に盛大に咽せ、それから、隣にいる『何か』を見た。珍しく色の付いた飲み物を飲むその口元は、その飲み物と同じ色がうっすらと滲んでいた。
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