汽水

明日は汽水きすいの命日である。


 汽水は老作家であった。物事をうがって見る様な眠りかけの目をしていて、皺も深く、鮮やかな着物を好んで着ていた。


 五年前の事である。汽水は手前の顔の造形に合わぬ紅を引いた様な赤い唇をしているのだが、その唇にふやふやと触れながら私に話した。

「吉野くん、この唇をご覧よ。綺麗だろう。手入れをしているのだ。油を塗り込むだけが手入れではない。風呂に入る時にね、強く擦って、皮を剥ぐのだ。繰り返すうちに淫猥な女性器の形に成っていくのだよ。君、唇が赤いのは、猿の"そそ"の名残りというのを、信じるかい?」

上品な酒器に口付けながら言う汽水を、何という下品な男だろうと軽蔑した。しかし汽水の書く文学は美しく、澄んだ清酒の様な熱と、甘さを含んでいるものだった。その文学に惚れていた。この恋は実ることなく、汽水と私は飲み友達のまま終わった。翌日汽水は入水して、死体が上がらないまま行方知らずとなったのである。


「おれァよ、汽水はよ、下品な男だと知っているんだ。世を儚んでなんてタマかよ。奴ァ自殺なんかじゃあない。殺されたのさ。」

私は、彼が自殺した事を信じたくないがあまりに、行きつけのあばら屋の呑処で管を巻いた。何せ汽水が飛び込むのを隣の和泉橋から見ていたので、信じるも何もあったものではない。間違いなく自殺であったが、どうにか己を騙そうとしたのである。そのうちに真犯人が名乗り出て、それが死んでくれれば良いと思っていた。必死だった。汽水は自殺をする様な男ではない。まして入水など、醜い死に方。

「あすこは暗がりだし、富士山岳の信仰の、浅間せんげんさんの近くだろうが、人殺しは神も仏も振り払って殺すのだ。容赦はしまい。あすこは前から危ないと思っていたんだァ…。」

毎晩、語り続けた。この一帯で汽水の名を知らないものはない。汽水の文学に魅せられた者が、ある者は汽水に並び立つ字書きを目指し、ある者は汽水の育った街並みを愛し、集う街である。噂は程なくして真実味を帯び、かたる己の中でもいよいよ現実より現実らしくなってきた。


 明日は汽水の命日である。彼を愛する男達が和泉橋のたもとの喫煙所にたむろっている。汽水が実際に死んだのは和泉橋から一つ奥まった、幅が狭く地味な橋だったが、それを知る者はどうしてか私だけだった。汚い河には水鳥がうろうろと蠢いていた。淵には散った椿の花弁が悲しそうに汚れている。愛していたのだ。汽水の文字を。あの憎たらしい声を。


「汽水を殺した男が死ぬぞ!」

私はあらんかぎりの声を張った。煙の中の幾人かがこちらを指差すのが見えた。

「吉野光晴!汽水を殺した!陳腐な愛憎劇の終いは、後追いだろう、そうらそら!」

靴を脱いで欄干に上がる。五年のうちに書いた、汽水への恋文ぶんがくと靴を置いて。汽水はどうして死んだのだろう?結局私は汽水について、何一つ知らないままだったのだ。




「彼は何を見ていたのだろうね。」

汽水が砂ずりを咥えながら言う。初めは興味本位で、いずれ恋して吉野を追っていた。吉野は飲み屋で吐くまで飲みながら呼んでいた、汽水の名を。ふざけているものだとばかり思っていたが、どうやらその幻覚は五年も彼に取り憑いていたようだ。吉野の遺書ぶんがくには汽水という男への、爛れた欲望が刻まれていた。

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