みちるさん

 大体毎日帰宅時間に、駅前のベンチで座って酒を飲むお姉さんがいる。髪はもったりとした茶髪で、後ろに一つにまとめているか、太い三つ編みを編んでいる。酒は缶チューハイ。味はその時々で異なるが、大抵はコーラやラムネなどのジュースフレーバーのようだった。そのベンチは浮浪者の溜まり場でもあり、時々、駅構内で新聞紙を敷いて寝ている人や、あまり清潔でない風貌の人も座ることがある。その中で、1時間ほどスーツを着たまま飄々と酒を飲んでいるのだ。


 その人の名前はみちるさんといった。タバコを吸いながらすぐ側で座っている時に、恐らくは浮浪者の一人であろうお婆さんが、お姉さんを呼んだ名前だ。その名前を僕は忘れないように掌にメモして、帰ってから日記帳にも書いた。みちるさんもタバコを吸うのだが、恐らくは手製の紙巻きタバコでブランドはわからない。そのタバコの入った缶は、元はどこぞのチョコの缶ケースだったようだ。


 ある日、みちるさんが珍しく朝の通勤時間に座っていたので、会社に欠勤の連絡を入れてから後をつけてみることにした。距離を開けつつ、見失うことがないよう慎重に尾行する。いつものチューハイを飲み切ったところで、みちるさんはハンカチをポケットから取り出した。目元を押さえ蹲るところを見ると、どうやら泣いていたらしい。心配より先に、これはもしや話しかけるチャンスではないかと思ってしまった事に罪悪感を感じる間もなく、みちるさんが歩き出した。千鳥足という訳ではないが、普段よりもやや足を放り投げるような歩き方である。そのまま駅に入り、自動改札を通る。僕は慌てて追いかけた。幸い、カードの残高は潤沢にある。よほど遠いところへ行かない限りは追いかけられるだろうと思う。


 それからみちるさんは電車に1時間程乗っていた。通勤ラッシュがやや収まってからの移動だったが、ラッシュの残党が乗っていたためそこそこに混んでいた。着いたのは秋葉原。見た目の地味さから考えればそれほどの違和感はない。新しくコンビニで買ったチューハイを片手に持っていなければ。さすがに昼前からの飲酒はバツが悪いのか、みちるさんはホームの端にあるベンチに腰掛けるとキョロキョロと辺りを見回してから、カシュ、と缶を開けた。


 それからさらに30分後。みちるさんが立ち上がった。やや顔色が赤い。ふらふらと歩いて向かう先は電気街口。お目当ての店でもあるのだろうか。距離を保ったまま追うと、みちるさんは改札を出て左へ曲がった。しばらく歩いて、今にも倒れそうなビルとビルの間を抜け、突然現れた新築のギラギラと鏡張りのような外壁のビルへ入っていった。後を追いながら、念のためテナントを確認するが店らしき名前はない。みちるさんを乗せたエレベーターの停まる階を確認する。僕は彼女を追いかける事ばかり考えていたのでこの時の違和感に気付く事ができなかった。僕は隣に来たエレベーターで459階のボタンを迷わず押した。


 数秒ほどで459階に着いた。この時に気付いていれば、まだ逃げることが出来たのかもしれない。一歩エレベーターから降りると、そこには真っ赤な絨毯が敷かれていた。床はずいぶんとぐにゃぐにゃしていて歩きづらい。遠くの方にみちるさんの三つ編みが消えるのを追いかけ、僕はまんまと化け物の口の中へ飛び込んだのだった。




「‪…‬‪…‬あまり、法に触れる様なことはしたくないですから」

派遣元の営業に隠しカメラで撮った映像を見せて言った。前職を勢いで辞めたのはいいものの、貯金もなく、離職票が出されるまでの1ヶ月の生活費すら残っていなかった私は、条件をほとんど見ずに手当たり次第応募した内の1社から即日内定をもらったものの、出勤初日にして違法性のある部署に配属され、2日目には派遣元へ連絡していた。

「それは確かに問題ですね……こちらとしてもきちんと抗議したいと思います。ちなみに……試用期間である今月いっぱいまでの勤務は出来そうですか?」

心の底から申し訳なさそうな声色で話す営業だったが、違法性を訴えてもなお月末までは勤めさせようという図々しさに呆れる。しかしそこそこ時給が高いその職場で数日でも働けば、向こう1ヶ月はある程度ゆとりを持って就活が出来るという事もあり、渋々頷いた。この会社は社長と副社長とあと1人、残りは数名の派遣がシフト勤務という小さな会社で、業務内容を端的に表すと『擬似餌』だった。ベテランの派遣はこの会社が最初の就職先だったらしく、擬似餌である事に何一つ疑問を抱かなかったらしい。私と同期で入った派遣の一人が前職で擬似餌をやっていたと言っていたし、世間に知られていないだけで珍しくない職種なのかもしれない。


 明日からストーカーに悩まされなくて良いのが救いだろうか。前職の頃から何となく見られていた様な気がするが、電車に乗ってまで付き纏われるのは想定外だった。とはいえ、おかげさまで社長は今日一日ご機嫌に副社長と乳繰り合っていたし、こうして殺害現場を鮮明に撮ることも出来たので結果オーライだ。残り1週間程の勤務をどうしようか。

「次は名前を呼んだあのババアかな」

帰りのドラッグストアでチューハイを手に取りながら呟いた。

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