新しい名前

 入学試験終了後。

 現在住まわせてもらっている部屋に戻って椅子に座ると一気に力と緊張が抜けた気がした。


「すごい疲れた……」


 スラムで荒事に巻き込まれたり農業手伝わされたりとかしてて体力はある方だと思っていたが。

 女の体になっていたのが原因なのか。それとも明確に戦闘と言われていたことを初めて経験した精神的なものなのかわからない。

 今までは、あくまで喧嘩とか小競り合い程度の言葉で済んでたものだった。

 そのまま何もせずに少しの間休んでから、改めてしっかりと椅子に座り直す。

 机の上にはあの元凶が用意して書かされた契約書が存在している。


「……卒業ね」


 ボクが女にされた上で男に戻る唯一の道だ。

 細々としたものはあるけれど、大雑把にいえば『この学園に入学して卒業しなさい。そして卒業したその時、まだ男に戻りたいという意志があるのならば元に戻してあげるわ』 ということだ。

 ちゃんとした大人に教育してもらったわけじゃないが、流石に明らかなこちらのデメリットがあるかどうかぐらいは判断できるつもりで承諾した。

 まあ、そもそも女にされたのがあっちの勝手な都合だから、この契約を結ぶ状況になった時点でデメリットのはずなんだけど。

 今回の元凶のボクの命を救ってくれた騎士の主である金髪の女性――リチア・フィオラ。

 ボクが入学試験を受けた聖フィオラ学園の運営の責任者で国の中でもかなり評判のいい貴族だ。

 そんな彼女が何かしようものなら底辺で死んだとしても気づいてくれる人がいるかいないかもわからない一人の男だ。むしろ可能性をくれるならそれ以上抗うことに頭がストップをかけた。

 特に言われたわけじゃないが、流石にまだ死にたくはなかった。


「失礼いたします」

「ひぃっ!?」


 すでに中に入ってボクの目の前に現れてからこの人言わなかったか。ボクを気絶させた張本人であり、ボクの命の恩人である男騎士。フィオラさんの従者をしているらしいが、同時に騎士として国の軍にも所属して普段はそちらの仕事をしているとか。


「大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫です。というかいつもいきなり現れないでくださいよ!」

「ノックはしたのですが返事がなかったので。もし試験にて隠れた怪我をしていたらと確認のため入らせていただきました。本日はお疲れさまでした」

「う、うん……それで、えっと……それだけ?」

「いえ、今後の予定について可能であれば早めにお伝えしておきたく」

「大丈夫です。今すぐなにかしろと言われたら体力がもうないですけど」

「ありがとうございます。では、ひとまずこちらを」


 そう言って明らかに高価そうな一冊の本を渡される。

 恐る恐る受け取ったが、正直怖い。


「これは?」

「今回の入学試験では口頭での出題に対して口頭で返す知能試験がありましたが。学園に入学後は書き文字による試験も行われます」

「は、はぁ……」

「数十年ほど前から歴史保存のための技術を各国が競い始めたことで生まれたもので、本や記録媒体に使用する紙などが比較的に安価に手に入るようになりました。それによって書き文字の文化も立ち場関係なく定着し始めています」

「全然知らなかったんですけど」

「まあ、その貴方が元々いたような地域がむしろ例外になりはじめているので。本来は国が対策を取らねばならないのですが、手が足りず……とにかく紙などが安価で手に入りやすくなってきました」

「そうですね……いや、まあ別にボクは恨んだりもしてないんで気にしないですけど。でも、そうだったんですね」


 ボクからしたら安いと言われてる紙すら遠い存在だったけど。まあ使うこともないから欲しいとも思わなかったから問題はない。


「それに伴って、書き文字を使用した知識・知能試験が近年で増えました」

「……もしかして」

「はい。書き文字を覚えるための本です。少なくともあなたがここにきて7日の間で試験に合格するための知識は詰め込みました。文字の読み方はあなたは生活の中で自然に覚えているようでしたので、残る覚えなくてはいけないことは書き文字です。入学までに基礎は覚えてください」

「ま、まって、そもそも入学決定したわけじゃ」

「してなかった場合も書き文字は必要なことになると思いますので」


 入学すらできなかったらボクはどうなるのか全く予想がついてないけど、あちら側としては何か考えがあるみたいだな。


「うぅ……」

「それから」

「ま、まだあるんですか?」

「はい。身だしなみですね」

「へ?」

「身だしなみの整え方。特にこの国は衣服の種類がかなり発展して大陸の中でも一番豊富です」

「うん」

「ですので、女性の服装の整え方を覚えていただきます。男性よりはるかに複雑なものもいくつかありますので」

「い、いやちょっと、それは……えっと」

「仮にも貴族が集まる学園です。もちろん平民出身者も才能さえあれば入れますが、そういう方々でも誰相手でも失礼のないようにある程度は覚えてくるのが当たり前ですから。これは立ち場関係なくです」


 すごい真剣な表情で言われてしまった。まるで自分が苦い経験でもしたかのような。


「はい……でも、なんか男に戻れなくなりそうでそういうのを積極的にっていうのは」

「覚えないと卒業より先に追い出される可能性がありますが」

「やります」


 そう言われたらもう断れない。卒業が最低条件なんだ。

 でも、未だに服を脱ぐの嫌なんだよな。ここに来てから毎日湯浴みに入らされるし。

 いや、あっちからすれば清潔感的にそれが当たり前なんだろうけど。ボクの常識とかけ離れた世界にいきなり入った上に……じょ、女性の体が否応なく見えてしまうわけで。

 自分だから見ないわけにも中々いかず。


「あの、やはり熱でもあるんですか?」

「へっ? なんでですか?」

「いえ、顔が赤くなっていましたので」

「気のせいですよ! でも、もしかするとまだ模擬戦の余韻みたいなのが残ってるのかもしれません!」

「そうれならばいいのですが。こちらから伝えておくべきことは今のふたつになります。可能であれば明日から始めたいのですが」

「はい……ちなみに入学試験を受かったとしたら入学はいつからですか?」

「2ヶ月後になりますが。学園の敷地内にある寮へと移ってもらうことはもうお話したと思いますが」

「そ、そうですね……女子しかいない」

「そこは諦めてください。強い意志を持って。それに女性の方がこの国で生まれた体であれば才能や資質を発揮しやすいのですから」

「う、うん」


 模擬戦でなんとなくはそれを体感できたから否定はしない。

 でも、複雑な気持ちだ。死にものぐるいで男として生きてきた時間は何だったんだろうと。


「その寮への移動時期を考えますと。この屋敷で教えられる期間はひと月と少しくらいでしょう。それまでに今言ったふたつのことについては、基礎を覚えていただかねばなりません」

「わかりました。がんばります」

「はい。ではまた夕食時に呼びに参ります」


 彼はそう言って去っていった。

 ボクは大きくため息を吐きつつ本を開く。とりあえず指で机なぞりながら覚えよう。



 その数日後から身だしなみについての教育もはじまった。

 ボクの感想を言うとしたら、めちゃくちゃ面倒くさい。下手したら勉強を覚えるよりも厄介かもしれない。


「こちらの色を基調とするなら。差し色にはこちらの種類の色が合います。ですが、式典や社交界等の場合は色によっては失礼に当たります。ですので、まずは状況に応じた色で望ましくないとされている物を覚えていきましょう」


 という着方の中で関連する情報がドンドンでてきたのだ。

 ボクといえばワンピースやスカート式の服や。じょ、女性の胸を固定というか支えるための下着の付け方の時点で戸惑っていたというのに。

 そんな教育のおかげか時間が過ぎるのがとても早く感じて気がつけば寮へ移る日がやってきていた。

 ちなみに試験結果については、とてもさらっと合格を知らせる通知がなされた。知識や知能についてはかなりギリギリだが、模擬戦における評価が高かったらしい。自分では必死だっただけだから実感沸かないし、ドレスの着方とかについての教育も始まって結果考察どころじゃなかったけど。

 だが、どうにか寮へ移る前に教育係から合格をもらうことが出来た。

 そして寮へと移るために今の部屋の片付けを終えた時だった。


「あら、わざわざ綺麗にしてくれなくてもよかったのに」


 顔をひょっこりを覗かせつつフィオラさんが入ってきた。その立ち振舞の優雅さは、前からだったけど。色々なことを学んでから見るとさらに感じる。


「い、一応お世話になったから」

「あなた結構根は真面目よね」

「まるで元は真面目じゃないみたいな言い方を……いや、否定はしないけど」

「まあ、そこ含めて私は君を選んだんだけどね。あのスラムで過ごしながら、ロクでなし以外への敬意とかは忘れずに過ごしていたのを見ていたし」

「……気恥ずかしいわ」

「ふふっ。あ、それでそうそう。これを渡しに来たの」


 そう言うとフィオラさんは小さい羊皮紙をボクの手に握らせてきた。


「これは? ていうか羊皮紙は未だに高価なんじゃ」

「うん。もちろんかなりの値段よ」

「だったら――」


 ボクが何か言おうとすると指で言葉を止めるようにつつかれてしまう。


「でも、これはとても大切なものだから。見てみて」

「はい……えっと『ノア』?」


 羊皮紙に書かれていたのはそれだけだった。単語としても聞き覚えがない。


「そう。ノア!」

「えっと、どういう意味でしょう」

「あなたが学園で名乗る名前よ。男の頃の名前のままだと色々と変でしょう。というよりも、貴族社会の中で女子にそういいう名前をつけるとかどういうことだ! みたいになりかねない人たちもいるから」

「そ、そうですか。ノア……」

「どう? まあ、いやだっていうなら全然外でもいいんだけど。私的にはいいかなって思って」

「いえ……いいです。ノア」

「でしょ?」

「はい。初めて人につけてもらった名前ですから」

「……うん? あれ? 前の名前は?」

「ボク、物心ついたころにはひとりだったので、自分の名前も名付けられてたとしてもわからなくて。それで、当時周りの大人達が話してた言葉からそれっぽいものを勝手に名乗ってただけというか……」

「……そう。じゃあ、私はノアの初めてのお母さん……ってまだそんな年じゃないわよ!」

「いや、勝手に怒らないでくださいよ!?」

「まあ……いいわ。じゃあ、ノア。頑張ってね」

「……はい。少なくとも卒業はしっかりしてみせます」


 最後に他にお世話になった人にも一度挨拶を済ませてあ後、ボクはその場所を後にした。

 寮へ向かう道の途中に、さっき言った事を思い出して恥ずかしくなったのはボクだけの秘密にしておこう。

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