第7話 絶望
「――ここは、何処だ……?」
天井部から流れ落ちた冷水がリィードの額を打つ。その冷たさにリィードは目覚ました。暗闇の中、辺りを見渡そうと体を動かそうとするが、思うように前に進まない。それもそのはずだった。彼の四肢には逃げらないように鉛の重りが付いた枷が付いていた。そうだ思い出した。おれは王に諮られたのだ――魔王を殺す贄として。リィードは悪夢のような出来事を思い出し、その場に蹲るとそのまま堪えきれず嘔吐した。これから先のことを考えると恐怖と屈辱で体の震えが止まらなかった。そして、それを凌駕する怒りが彼の中を駆けずり回った。これまで目の前で仲間を殺されたことがあった。自身の命が危険にされされたことも一度や二度ではない。だが、それは戦場の話。戦士としての尊厳がまだそこにはあった。――だが、これはなんだ。勇者として国や民の為に戦ってきた末路がこれか。
「……ク、フフ、ハハハハハ――!」
気が付けば、彼の口からは悲鳴にも似た笑い声が漏れていた。そして、一しきり笑った後、双眸からは静かに涙が溢れてきた。人はこれをこう呼ぶだろう。
『絶望』と。
どれだけの時が経っただろうか。泣きつかれたリィードは魂を喪った抜け殻の様に静かに深淵を眺めていた。すると、奥の方から薄い光が差し込んできた。そしてそれは少しづつ彼に近づいていくと段々と人の形を象っていった。
「おい、見ろよ。こいつ吐瀉物まみれだぜ。汚ねぇな」
リィードを蔑む低い男の声。朧げに声の主の方に視線を向ける。上に掲げられ照らされた松明によって辛うじてその者の顔が判別できた。剃り上げられた茶髪の強面にこめかみから瞼にかけて入った刀傷。
(そうだ。こいつは選定式の会場にいた、勇者候補の――)
「ああ、本当だ。全く酷い匂いだよ」
その声に反応するように若い男の声がすぐ後ろからした。顔の上部を覆う鈍色の仮面を被っており素顔は分からないがその声色からリィードとそれほど年は離れていないことは伺える。
「んで、どうするんだフォンス。すでにコイツは廃人の様になっているわけだが。本当にやるのか?」
「勿論だよザルツ。そのためにわざわざこの様な陰気臭い場所に足を踏み入れているのだ。そうでもなければこの僕が見るに堪えない掃き溜めに来るわけないだろ?」
「フハハ。その通りだな。だったら見回りの兵が来ないうちにとっとと終わらすぞ。得物は持ってきたのか?」
強面の男ザイルに言われたフォンスは彼を一瞥すると無言で腰にぶら下げていた鞘から鉈を取り出した。
「クフフ。貴様の様な愚民にはお似合いだな。この場所もこの悪臭においも。かつて貴様が勇者候補に選ばれた時は体中に虫唾が奔り、怒りで気が狂いそうだったよ。そうだからこそ!今の惨めなその姿こそが貴様の本来あるべき姿なのだ」
フォンスは嘲笑混じりにそう言うと、何かの合図をするかのように突然指を鳴らした。するとそれに反応したザルツはリィードを羽谷締めにした。そこでようやくリィードの意識は覚醒した。
「――ッ!?やめろ離しやがれ……!」
「なぁ。勇者――いや”元”勇者だったかな?これから何が起こると思う?想像してみてくれよ。とても楽しいことが待っているぞ。思わず踊ってしまうほどにな」
フォンスは肉食獣の様に目をぎらつかせる。開かれた口元に邪悪な笑みを貼りつけて。
尋常じゃないその様子にリィードは戦慄した。頭に溢れた考えは全て最悪なものだった。
「……お前ら、何が……目的だ……?」
振り絞るように口から零れた言葉を繋げ問いかける。
「質問を質問で返すなよ」
フォンスは肩を竦めると柄頭でリィードの鼻を殴り付けた。続いて頰を更に額を何度も殴り付ける。その度に辺りには鮮血が飛び散った。轟音と共にリィードの絶叫が木霊する。
「いいか。今、ここで、質問をしてもいいのは僕だけだ。心得ろよ」
苦痛に顔を歪めるリィードを尻目にフォンスは、さも当たり前だというように言葉を連ねた。
「……まぁいい、これから死にゆく貴様に特別サービスだ。先ほど我々の目的を説いたな。いいだろう、教えてやる。それだよ」
そう言うとフォンスは歪な笑みを浮かべてリィードの右腕に鉈を押し当てた。
「僕はなぁ。その『右腕』が欲しいんだよ」
「おい……や、やめ――うわぁぁぁあ!」
リィードが言い切るや否や鉈は確実に得物を引き裂く様に振り落とされようとした――その時である。
牢獄の扉を破砕して、レーリアス近衛騎士団長――ギリウスが肩を怒らせながらやってきた。
「”準”勇者フォンス・ヴィルマルク。お前、今あいつに何をしようとしていた!答えろ!」
「やだなぁ。そんなに睨まないで下さいよギリウス団長。この裏切り者にお灸を据えていただけですよ。それに彼はもうすぐ死ぬんですよ?その前に我々が少しばかり遊んだって罰は当たらないでしょう」
「……誰がそれを許可した。そもそもここは『王』の許しがなければ入れぬ場所だ。分かっているのか?とっとと立ち去れ、俺の拳がお前の額をぶち抜かんうちにな」
ギリウスが拳を震わせながら、殺気に満ちた眼光を彼らに向けると、
「……ふっ、白けましたよ。――おい、いくぞザルツ」
準勇者達は去り際に一度リィードを一瞥すると立ち去って行った。
「――なぁ、おやっさん。あんたはゴホッ……何か知ってるんだろ。ガハッ――教えて……くれよ、なんで俺はこんな目に遭っているんだ?」
長い沈黙を引き裂くように、最初に口を開いたのはリィードだった。喋るたびに口内に溜った血が吐き出される。満身創痍を絵に描いたような状態だ。ギリウスはリィードに治癒術を施すと重い口を開いた。
「……俺がお前の出自について知らされたのは、ごく最近の話だ。全ては王の命令だった。本来行うはずのない祝賀祭を開いたのも、全ては……お前を――」
「――殺すためだったってか。フフ、アハハッ。なんだよそれ。それじゃぁ俺はただの道化じゃないか。今日、ここから始まるはずだったんだよ、俺の物語は。なのに蓋を開ければ、国の平和の為に死ねだ?ふざけんな!そんなことが許されてたまるか!」
リィードは目を伏せて語るギリウスの言葉を遮ると、やりきれなさのの濁流に飲まれたが如く、怒りと悲哀に満ちた感情をただひたすら彼にぶつけた。
「――それでお前はどうしたい。解放されたいのか。残念だがそれは不可能だ。どう足掻いてもお前は逃れられない。数時間もすればお前は、大広場にて大衆が見守る中で無残に生を刈り取られる。今のままならな――」
ギリウスは感情の籠っていない無機質な声でそれだけ言うと、トーンを落として言葉の続きを紡いだ。
「――聞けリィード。俺は王の命令に最後まで従うつもりはない。息子の親友が殺されるのをただ黙って見ていられるほど、俺の心はまだ腐っちゃいない」
ギリウスがリィードを見る目に色が戻っていた。決意に溢れていた。そして彼は一つの指輪をリィードの首に掛けた。そしてそれはリィードの首元で鈍く灰色に光った。
「そいつはいざって時に役に立つはずだ。俺にできることはこれが限界だが、必ず好機は訪れるはずだ。お前が今までこの国のために尽くしてきたことを俺は誰よりも分かっているつもりだ。いいか諦めるなよ。お前はどんな時でも苦境を乗り越えてきたはずだ」
最後にそれだけ言うと、動揺して言葉を発することもままならないリィードを一瞥することもなく、ギリウスは静かに牢獄を後にした。
「……なんだよ、それ。訳わかんねぇ」
口では憎まれ口を叩きつつも、彼の顔には暗い絶望の影はなく、かつての勇者としての面立ちがそこにはあった。
そして、闇に一筋の光が差し込んだ。
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