第52話
イギリスから日本に来てずっと感じていた違和感がひとつ、ある。
みんな『神』という言葉を簡単に使いすぎ。野球中継で活躍した選手は神。美味しいスイーツは神。可愛いワンちゃんは神。毎日家族のためにはたらくサラリーマンのお父さんはなぜか神扱いされず、そうかと思えば時給数百円のパートタイマーがカメラの前で客へと振舞った態度が神だと報道される。
「気軽に神、神言い過ぎだろ。世の中にそんなに神が居てたまるかよ」
うそぶいた気持ちで行った地方の洞窟観音では石や米、感情といった無形物にさえも神が宿っており、それぞれ名前の付けられた神様が怒髪天を衝くような大目玉で、または慈悲の籠った彫刻の瞳でぼく達を見つめ返していた。
どこもかしこも神だらけ。それが日本という国の実情である。
しかし、帰国子女のひとりであるぼくは考える。神とは本来挑むべき存在であるべきだ。目の前には同世代から『神』と扱われているトガリ・ロンが居る。体育館の観客達、試合会場やテレビの前の卓球ファンの誰もが彼の活躍に拝み倒し、彼の徳にあやかりたいと願っている。
ぼくから言わせてみればそんな風潮はまじで終わっている。彼を自分たちと別の存在と切り離して祀り上げてなんの意味がある?一般人より卓球の上手い彼を保護し、甘やかしているだけである。
ぼくの長々とした私見に付き合わせてしまってすまない。ずっと前からどうしても言いたかった事だったから少し胸の内が晴れた。
さて、トガリ君との真剣勝負だったが...結論から言おう。格が違った。
前陣速攻型である彼の強みを消すために相手のバック側に放ったチキータは瞬時にバックステップで周りこまれ、強烈なフォアドライブが0.2秒でリターンされる。ツッツキで返されたこちらにとってのチャンスボールは強い下回転が掛かっており、こっちのスマッシュはことごとくネットに吸い込まれる。『向って来た球を打ち返す』。『相手の位置や状態を見てコースを打ち分ける』。彼、現役チャンピオンのしている事はどれも卓球としては基本の動作。
しかし、その基本のレベルが恐ろしく高い。
例えばこっちのサーブ権。3球目にドライブを放つと、こちらのスピードとパワーに彼の振りを上乗せしたカウンタードライブが返ってくる。ぼくは彼の模倣のようにバックステップを踏むとこの日初披露のカットプレイにてこのドライブをいなした。
しかし、彼はまるでこれをはじめから予想していたように台の前に迫り、キレイな腰の捻りから鋭角にジャンプスマッシュを決めて見せた。このプレーには観客席から今日一番の大歓声が轟いた。
「マッチポイントー!10-1!」
「次で終わりだぞー、意地をみせろ卓球部部長ー!」
トガリ君に向けられた声援の合間を縫って友人の檄が耳に届く。…序盤にお情けで頂いた1点が痛々しく斑猫さんの捲る得点板の中でたたずんでいる。中国にルーツを持つトガリ君は自分の攻め手のみで得点板の数字を埋める事を良しとはせず、彼から得点を奪った瞬間、思い切りガッツポーズをしてしまったことが今思うと恥ずかしかった。
しかし、どんな形であっても現役チャンピオンから得点を奪ったのは事実。20年後、自分の子供たちに絵本を読み聞かせるように『パパは昔、あの世界王者のトガリ・ロンから1点奪ったことがあるんだぞぉ』と自慢話を聞かせ続けるシケたおっさんとなってしまうのか。
いや、まだ俺は彼と同じステージで闘っていたい。プロと学生というカテゴリーには大きな隔たりがあるが相手の得点板に11が点るまで勝負はわからない。
いつかは彼とプロの舞台で闘ってみせる。ぼくの想いが彼に通じたのかトガリ君は「本気で行きます!」とピン球を投げてロングサーブを打ち込んできた。
…やはり今までは本気じゃなかったか。気落ちする間もなくぼくはドライブでこの球を返す。するとここにトガリ君の十八番、カウンタードライブ打ち込まれ、ぼくは同じようにそれを返す。
テーブルから距離を取らずにその場で超高速のピン球をラケットの振りで相手のコートにはじき返す。ぼくはこのやりとりがある形に似ている事に気づいた。クロス方向にドライブを打ち合うこの図式はぼく達が初めに行っていたラリー練習だ。
だが、あくまでもフォームを確認するためのウォームアップと点を取り合う実戦形式では本気度が違う。トガリ君はここまで計算してぼくとの勝負を引き受けたのではないか。そう考えると恐ろしい14歳である。
トガリ君のドライブに合わせるようにぼくもドライブを返す。これは試合中ずっと感じていた事だが現役プロの彼のプレーに触れる度、瞬間的に自分のプレーも同じレベルまで引き上げられている感覚がある…あのトガリ君がぼくと同じ領域で卓球をしてくれている。闘いのさなかだというのに幸福感さえ感じていた。
予定調和が崩されたのはほんの少しの気の緩みからだった。トガリ君がこれまでと同じ振りでピン球をラケットで弾くとミドルにゆっくりとしたチャンスボールが跳ね転んできた。新月を思わせる真っ白なピン球が次第に大きくなるように体に向ってくる。これは名手、振りの誤り。と誰もが思った瞬間、思いもよらぬ現象がぼくを襲った。
体が動かない。目はゆっくりとテーブルを跳ねるピン球を捉えている。触れば確実に1点、という超チャンスボールなのだが腕が動かない。膝の向きは変わらず、跳ね返ったピン球は体の横を抜けていく。やばい、何が起こっている?理解する間もなく白球が体の周りを離れると斑猫さんが短くピッと笛を吹いた。
「マッチポイントー!11-1!トガリ君の勝利ー!」
歓声がワッと沸き立つと呪文が解けたように体の緊縛が解けた。同時に疲労も押し寄せてきてぼくは俯いて膝に手を置く。
「自分がプロの舞台で唯一使っている必殺技、『白日』」
トガリ君がそう言うとぼくはそれがあの最後の一球であった事を理解する。「トリックは簡単よ」歩み寄ってきた斑猫さんが彼のプレーを解説してくれた。
「アナタはロンちゃんのプレーによって無理やりその実力が『超人化』された。その状態のまま予定外の超スローボールを打ち込まれたらどうなるかしら?当然、体はそれについて行かずその打球には触れる事は出来ない。相手は通り抜けていく球を憎々し気に見つめるだけ。研ぎ澄まされた感覚と飛躍的に向上した視力だけ残してね」
「…さすがプロのプレー。まるで異能力だ」
「ま、試合後はまっさらな状態に戻るからいいのだけど…相手の感覚を崩すトリックは一歩間違うと怪我をしかねない危ないプレーなのよ。コラっ、ロンちゃん!モリアちゃんに謝りなさい!」
トガリ君はテーブルを周りこみ、ぼくの正面に立つと「すいませんでした」と頭を下げた。
「普段は相手に相当吹っ掛けられない限り、真剣勝負を受け入れたり、トリックを出したりしないのに今日はどうししゃったのかしら」
斑猫さんがトガリ君に世話を焼くようにやれやれ、と額に手を置いた。しばらくして彼にタオルを手渡すとぼくを見つめるトガリ君に斑猫さんが言った。
「『白日』を出すに値した相手だったってワケね。彼は」
その問いにトガリ君は静かに頷いた。練習の時間は終わり、その後ささやかなサイン大会が催された。長く作られた行列を慣れた手つきと対応でトガリ君は捌いていく。試合中、彼とはプロの舞台で戦うライバルになるのだからサインは絶対に貰わないと決めていたぼくだったが、本日道場通いの為、練習不参加の親友のタク、病欠の田中マネ、そして彼のファンであろうウチの父、
試合時間が近づき、体育館から去っていくトガリ君と斑猫さんに手を振って送り出す。穀山中に舞い降りた現役プロチャンピオンという突然のつむじ風。彼の威風を感じ取った生徒たちはこの貴重な体験を胸にこれからの学校生活を送っていくだろう。
――このままじゃダメだ。いつか彼ともう一度戦うためにもっと真剣に練習をしていかないと。
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