第51話

「トガリくんですか?練習で何度か打ち合った事ありますよ。週に何度か大学の練習に顔を出すんです」


卓球ウェアに着替えるために更衣室の扉を開けると先客のすばるが既にウェアに着替えて準備を始めていた。「昨日は初タイトル、おめでとうございます」「お、おう」軽く挨拶を交わすと自分のロッカーを開けたぼくの背中に身体をほぐすような足踏みをしながらすばるは語った。


「彼のプロ契約に携わった斑猫さんが練習生達を刺激するために練習の終わりごろに卓に着くよう調整してるみたいで。みんな卓球台の前に列を作って『なんとかしてあの中学生の鼻をあかしてやりたい』って気持ちで敵意をむき出しにして練習に取り掛かるんです。あの熱気立つ肌感覚は普段の練習では味わえないというか……ひとつのイベントですね。あの空気は」


普段通りクールに振舞っているつもりのすばるだが、口調は早まり、饒舌に彼について語る事からこのラリー連を前にして血が滾る感覚がこみ上げているのが伝わってくる。


「彼の練習相手は俺が努めます。モリア先輩は人込みの鎮圧化と退館時の交通整理をお願いします」

「馬鹿いえ、本人直々のご使命だ」

「フッ、部長としての役得ですね」


軽口を飛ばすとすばるは勢いよく更衣室のドアを開け、体育館へと駆け出していく。顔の良い新進気鋭の若武者、赤星すばると現役プロ中学生トガリ・ロンのラリー練習が始まると黄色い歓声を中心に体育館中にその熱が広がっていく。ぼくは指の震えを堪えながら短パンの紐を結ぶ。深呼吸を何度か繰り返して更衣室を出るとクロスにピン球をはじき合っているふたりの姿が目に入った。


うるさいくらいに響いていた歓声は次第に止み、二人の周りにはピン球がテーブルを跳ねるカッコ、カッコという音だけが響いている。その場から動かず手の振りでの打球感覚を掴むため事が目的の反復練習。何度目かのラリーをすばるがネットに引っ掛けると「気にしないで」と手をかざしてトガリ君がそのピン球をつかみ取る。


「卓球って普通ネットに引っ掛けた方が球取りに行くんだろ?」

「トガリ君、まじ性格も神じゃん!」

「それを言うなら仏だろー」


笑いを含んだ観客の声が耳に届く。トガリ君が見せた紳士的な振る舞いに拍手が鳴るとすばるは汗にまみれた額を腕で拭って深呼吸をした。マイペースが信条のすばるもこの空気感には緊張しているのだろうか?こういったすばるの振る舞いは試合でもあまり見た事が無い。


ぼくが次の順番を待っているのに気付いたのか、それともすばるの気持ちのかかりをピン球を介して感じ取ったのか。次のラリーが終わると「ありがとうございました。部長さんお願いします」とトガリ君が申し出た。すばるは一礼すると名残惜しそうにその場から離れた。たった数分の軽いラリー練習だというのに凄い量の汗をかいている。秋の涼しい季節に捲り上げたすばるのウェアはぐっしょりと濡れていた。


「さ、あんたの番。部長として恥ずかしくないプレーをしてきなさいよ」


マネージャーの里奈がぼくに少し浮足立った口調で言った。きっと彼女もトガリ君のサインがご所望に違いない。昨日の大ハッスルで本日病欠の田中がもしこの場に居たら大騒ぎでサインを求めていた事だろう。振り返ると体育館の出口には色紙とマジックを持った女学生達が集まり始めている。観客の集中力が弱まり始めているのか二階席を眺めるとスマホをいじり出す生徒が増えてきた……なるほど、ただの練習相手のぼくには何の興味も無い、という事か。ぼくは観客たちに引き攣った顔をしてみせると彼の待つ卓球台に向った。


「よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく」


初めて対面した時の緊張は消えていた。なに、卓の前に立てばいつもと同じ練習だ。ピン球を宙に投げ入れ、ラケットで弾きだす。トガリ君が同じようにピン球をラケットで打ち返す。ただそれだけの練習のつもりだった。


「すいません。3球に1球程度でいいので、ミドル側にも打ってもらえませんか?」


ラリーの中断中、トガリ君からの直々の練習注文オーダーが飛び出した。シャツを着替えてきたすばるが「俺の時はそんな事言わなかったじゃないか」という風に腕を組んだ。それに気づいた里奈がすばるの腕を解き、トガリ君に笑みを返した。そう、この練習はプロとしての試合を数時間前に控えたトガリ君を気持ちよく送り出すためのウォームアップ。この体育館の誰もがそう捉えていた。


再開されたラリーの途中、速度を落とした絶好球が体の横に飛んできた。試合であれば得点確実なチャンスボール。ぼくはぐっと気持ちを推し堪え、彼が構えているクロスに打ち返す。すると同じ場所にまったく同じ打球が飛んできた。


――試されている。ただの偶然とは思えないトガリ君の思惑を読み取ってぼくは体育館の床を踏み抜くと思い切りミドルにスマッシュを叩きこんだ。


「な、なにやってんのよモリア!」


壁に向ってバウンドを繰り返すピン球を拾うために駆け出しながら、里奈はぼくに言葉をぶつける。……ここが分岐点かもしれない。ぼくと彼が同時にラケットをテーブルに置くとぼくは勇気を振り絞って自分の想いを彼に伝えた。


「1ゲームだけで良い。ぼくと全力で『試合』をしてくれませんか?」


一瞬、音が消えた体育館。清潔感のある短髪のトガリ君は練習を見届けている斑猫さんを見つめた。「もう、困ったちゃんねぇ。ちょっとだけよ?」彼の保護者からのOKが出ると再び体育館は音を取り戻したように、揺れた。



――後で振り返って考えるとなぜこんな不遜な事を言い出したのか分からない。


前日にくらげと組んで出場したダブルスペア大会で優勝した全能感が残っていたのか、それともプロを目の前にどれだけ自分の力が通用するのか試したかったのか。


堰を切った言葉はもう飲み込めない。ぼくは目の前の神へと挑む。


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