第36話

あたし、渡辺恵那子の夢。それはテレビで見るような華やかなアイドルグループの一員になってみんなに笑顔と元気を届ける事だった。数えきれないほどのオーディションを受けこの世界に入って3年半。純真な想いは踏みにじられ、今のあたしを取り囲むのはジョニーズの若いコやイケメン俳優たちなんかじゃなくて、生きていくのもやっとの薄汚いおっさんたち。胡散臭い業界関係者や小金持ちのパトロンにタンを吐き出したティッシュのように使い捨てられていく同期の女の子たち。あたしはそんな汚れた『大人の世界』でも夢を見ることを忘れなかった。いつか、憧れのアイドルたちと同じ舞台に立つまで何年でもあたしはこの夢を見続けるんだ!…そう誓ったのは10年も前の事だった。



「くらげ!来るぞ!」


試合が再開してぼくのリターン。ラリー中に発せられたえなP☆の圧によってちょうど相手の打ちどころにボールが返ってしまった。パートナーのくらげに警戒するよう声を掛けるとえなP☆がスマッシュの体制を取った。


「これでもあたしは一か月離島ロケ生活の経験者なんだ!基礎体力に自信ネキ!舐めんな☆」


しっかりと腰の入ったビンタのようなラケットが振られるとくらげがリターンできずに失点。次のラリーも同じような流れでえなP☆が強打を沈めると悔しがるぼくを見て彼女は言った。


「さっきのゲームはよくも集中的に狙ってくれたな☆坊や。でも少しずつ分かってきた。ミックスダブルスつっても結局は男対男、女対女を繰り返しやってるだけ。あたしがそこの小娘に負けなければウチらが優勝できない理由なんてないわよね?」


名指しで指摘されぐっと唇をかみしめるくらげ。確かに彼女の言う通り、この競技の仕組み上、同性同士の打ち合いを制せば自然と得点は伸ばせる。ぼくらが1ゲーム目で初心者だった彼女を狙ったように、相手はこれからくらげにターゲットを絞って戦うつもりだ。


「大丈夫ですわ。本田さん。私、秘策がありますの」


相方のくらげの言葉を信じ、ぼくは相手のサーブに備える。しかし、ラリーは続くものの、強打を多用するえなP☆に手を焼き、次第に得点差が縮まっていく。「これ、いけるかもしれないぞ」梅崎さんや番組スタッフがそう思い込み始めたその時だった。


「そろそろ、頃合いかしら。無作法なので、出来れば温存しておきたかったのだけれど。貴女方の勝利への執念を汲み取って」


くらげはそう告げるとその場でしゃがみ込み、ヒールの高い靴からバレエシューズのような動き安い突っかけ靴に履き替えた。口元にエレガントな笑みを浮かべて立ち上がると、同じくらいの大きさだったくらげが急に縮んだような気がしてなんだかおかしみがこみ上げてくる。


「はっ!今さら靴を履き替えたくらいで何が…っておい☆」


くらげはぼくをカメラの前に立たせて死角を作るとウェアの尻に指を回し、その中から大きなパットを取り出した。どうやら尻のサイズも盛っていたらしい。さすがにそれはぼくも気が付かなかった。


「こんの、マセガキ!ケツパットなんて10年早いっての…うぉお!?」

「さらにもう2枚!!」


くらげは胸に指を突っ込むとその奥から真っ白なパットを両の房から取り出してそれを宙に放り投げた。天使の羽のように舞うそれを背景にくらげはどや顔で決めポーズを取った。


「いざ、『自由への飛翔』ですわ」


「おい、今の大丈夫なのか?」

「ええ、幸いCM中でしたので」


番組スタッフが現役中学生の『脱ぎ』に対して確認を取っている。審判からOKのサインが出てCMが開けるとラリーが始まる。『最軽量化』したくらげのステップは今までとは比べ物にならないくらい素早く、膝や腰に乳酸がたまり始めた大人たちを苦しめていく。くらげはわざわざこの疲れが溜まるゲーム終盤を見据えて重りを脱ぎ捨てたのか。だとしたらなかなかの策士である。


「くぉおおお~!!負けるもんかぁ~!莉緒りお輪舞ろんど!お父さんは頑張ってるぞぉ~!!」


ここまで大人しかった梅崎さんの100回に一度あるかないかの素晴らしいリターンが対角線に返ってくる。きっと家族であるふたりの子供さんがパパの背中を押したことだろう。ぼくが失点を覚悟したその瞬間、くらげがモデル立ちだった体制をゆっくり傾けて短く歩幅を刻んだ。


「『縮地エンジェル・ステップ』」


ストレートでこの打球が返ると「マジかよ…」と呆気に取られた顔でえなP☆がそのボールの行き先を見届ける。なんと、このお姫。ぼくの知らない所でガッツの琉球奥義『縮地』をマスターしていたのだった。


「ごきげんよう。今のでお目覚めかしら?本田さん」


思いもよらない産物のようなプレーに目を白黒させていたのだろう。くらげがぼくを見て微笑むと「おい、そこのお嬢、勝手にごきげんようするんじゃねぇ。まだ試合は続いてんだ☆」とえなP☆が悪態をつく。よもやよもやのマッチポイントだ。気を引き締めていこう。


梅崎さんからのサーブの3球目。えなP☆が渾身のドライブを放つとその力に跳ね飛ばされるようにくらげがその場で尻もちを着いた。


「来た!チャンス!」


同じフォアに飛んだ打球に合わせてえなP☆がスマッシュの構えを取る。それを見てぼくは「あっ」と喉を引き上げて審判を指さす。同じ選手が続けて打つのはルール違反だ。しかし、審判はえなP☆の大袈裟な被りに気を取られているのか、ぼくの指摘に気が付かない。やはり大人は汚い。そう思っていたその時だった。


「この一撃で地獄へ行け!ひよっこども!っておぉい!?」

「俺の打順だ!おおぅ!」


後ろから割り込んできた梅崎さんが角ペンのツッツキでこの打球を押し返した。えなP☆が振り下ろしたラケットがこめかみのあたりを殴り、その場で大きな音と衝撃を起こして倒れる梅崎さん。その魂には中学時代のくすぶるような灯りが残っていた。


「俺は、卓球部なんだ。誰が何を言ってきても俺は卓球部なんだ…」

「梅崎さん…」


最後まで卓球プレーヤーとしてルールを順守し、その誇りを捨てずに挑んでくれた『松二の紅い豚』に心を打たれているとそれを踏みにじるように広い背中に足を掛ける成人女性の影が降りた。


「こんの、いつまでも自分を中学卓球部と思い込んでいる精神異常者!あたしが目ぇ覚まさせてやる!今度こそ、ゴートゥヘール!!」

「相方を踏み台にしたぁ!?」


梅崎さんの背を発射台にし、空中に大きく飛び上がったえなP☆が急角度のジャンプスマッシュを放つ。


「くらげ!危ない!よけろ!」


優しいリターンを打ったことを後悔し、パートナーの身を案じていると、『この私によけろ、ですって?冗談が上手だこと』というような強気なまなざしが返ってきた。くらげは台から距離を取ると物凄い勢いでテーブルに跳ね返った打球の力が消失するポイントを押さえて、体を屈め、冷静にその打球をラケットの裏で横に払った。


知貴多エンジェル・スゥイープ


優雅な所作でボールが相手側の奥へ消えていくと得点板に11の数字が灯った。2ゲーム先取。ぼくたち『本田・稲毛屋ペア』の勝利が告げられると観客から大きな歓声が飛んだ。「すごい。完敗だったよ」ぼろ切れのようになったTシャツからでべそを覗かせながら対戦相手の梅崎さんがぼくに握手を求めてきた。


「梅崎さんの方もすごいガッツでしたよ。社会で働く大人の責任を感じました」

「ありがとう。うまく言葉には出来ないが…ずっと胸に引っ掛かっていたんだ。学生時代半端に終わってしまった卓球プレーヤーとしての自分が。もう一度、あのカッコいい頃の自分に戻れるんじゃないかって心の隅で思っていたんだ。でも今日、はっきりと理解したよ。もう『松二の紅い豚』は死んだ。これからは家族のため、番組を楽しみにしている視聴者のために『大人の世界』で戦っていくよ」

「梅崎さん…少し寂しいような気がしますけど。あなたの作る番組、楽しみにしてますよ」


互いにぐっしょりと汗をかいた手を解くと「あーあ、負けちゃった。これじゃ台本通り、賑やかしで退場じゃんねー☆」とえなP☆が腰に手を置いた。そんな彼女にくらげは歩み寄って頭に着いたカチューシャの飾りに手を伸ばした。


「あん、こら☆何すんだ。アイドルの衣装に勝手に触らない!」

「…このカチューシャに手首のシュシュに大粒のネックレス…体の装飾を外せばいくらか自由に動けたものを。なぜ、万全の状況で勝負に挑まなかったのですか?」

「ちっちっち。分かってないなぁ子猫ちゃん。ビジネスの世界を」


うざったく指を振りながらえなP☆はステージの縁に歩み寄っていく。そこでくらげを振り返るとえなP☆は今までとは違う素の口調で語り出した。


「こんなゴテゴテのアクセサリー付けてフリフリの衣装着てステージに出ていくのがあたしの仕事。気ぃ使ってくれてありがとな☆これがアイドルえなP☆の特攻服。あんたがいうところの万全の状態なんだ。あたしはこれからもみんなに元気を届けるために戦い続けるよ。たとえその心が何度踏みにじられようとも、あたしは画面の向こうのみんなの味方だ」

「えなP☆、さん」

「ははっ、初めて芸名、呼んでくれたな。ツイッターとインスタのフォロー、忘れるんじゃないぞ☆それじゃ、そろそろ頃合いだ。準備はいいか?お前たちぃ」


えなP☆がステージ下に居るスタッフ達に目で合図する。3人がうなづくとえなP☆は胸に手を当ててその奈落に背を傾けた。


「わがアイ活に一片の悔いなし…」


スタッフの手の上に倒れこんだえなP☆の体を屈強なスタッフ達がそのまま運んで舞台袖に消えていく。観客の拍手が鳴り響く中、「あの人、色々ネタが古くないですか?」と梅崎さんに訊ねると「えなP☆はそういう年代をターゲットにしたアイドルだから」と解答が届いた。そういうもんなのか。とりあえず、ミックスダブルス、一回戦突破である。ナビゲーターは本田モリアでした。また夢でお会いしましょう。







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