君の瞳に触れるまで

津田薪太郎

第1話

 君と最後に会った日の事だ。僕と君とで、山に登った。山といっても、険しいものじゃない。歩いて数分のところにある、こんもりとした小さな山だ。僕の住んでいたところでは、そんな山はありふれていて、みんなでよく遊びに行ったのを覚えている。

 君はサンダルに半袖。スカートというおよそ山には相応しくない服装をしていたと思う。だけど、その足取りは軽やかで、いつも僕を引き離していた。

 体力のない僕が木の根か何かに躓いて転んでしまった時君は、仕方ないなあ、と笑っていつも手を差し伸べてくれた。

 山道は、木々に挟まれた獣道で、夏の日差しを受けた緑の枝葉がいっぱいに自分の体を広げていた。だからどれだけ日差しが強くっても、君も僕も辛くはなかった。

 木々の間を吹き抜ける風が、ざわざわという不思議な擦れ合う音と、沢の小さなせせらぎを届けて来る。山が歓迎してくれている証だ、もう亡くなった祖父さんはいつもそう言って、僕の頭を撫でた。

 少し湿り気のある土を踏みしめながら、僕たちは山の上の開けたところに出た。そこは、ずっと山の下まで見下ろせる場所で、僕と君とのお気に入りの場所だったはずだ。

 君はそこから、山肌に立ち並ぶ緑の森と、その遥か向こうに広がる海に見入っていた。霞みがかって見えない海の向こう側を、君は見ようとしていた事だろう。

 だけど僕は、そんな遠い遠い場所になんか興味がなくって、ただ君の横顔に見惚れていた。透き通るような白い肌、あの海のように揺れる君の瞳。風に薫る君の長い髪…。僕にとって、それが一番だったんだ。

 山から降りて、君は僕に言った。

「また逢おうね」

と。僕も返して、

「うん。また逢おうね」

そう言うと、君は僕に向けて笑いかけてくれた。でも、僕の思い出の中の君の笑顔は、滲んで、ぼやけてしまって見えない。透き通るような白い肌も、濡れた君の瞳も、薫る髪も、確かに見たはずなのに、決して届かないベールに包まれてしまっているのだ。それを取り去ろうとしても、僕の腕は虚しく空を掴む。

 いつもそこで目が覚める。体を起き上がらせて、僕は周りを見回した。いつもの部屋だ。雑然と散らかっていて、思い出の破片だけを抱きしめて生きてきた者の部屋だ。一日一日の、絶えず流転する物事に囚われた、哀れな囚人の独房である。

「一度、帰ってみようか」

 僕は、独房で呟いた。何度も夢に現れる君は、僕にいつでも手を差し伸べてくれる。その手を掴もう。再び君の瞳に触れて、君の笑顔が見たいのだ。

 僕は立ち上がった。

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君の瞳に触れるまで 津田薪太郎 @str0717

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