Ⅱ
*
次の日の放課後、俺は齎藤先生から図書室ではなく職員室に呼び出された。少し訝しく思いながらも時間通り職員室に顔を出した俺に、齎藤先生は真剣な声で尋ねた。
「林、お前が知りたいのは〈名前に麦が付く二十代前半の女性作家〉で間違いないな?」
その表情と声音があまりにただならぬ様子だったので、俺は少し気圧されつつ、「はい、間違いないです」と応えた。
「はぁ、そうか……。やっぱりあいつなんだな」
「教えたくないような内容なんですか? 無理にとは言いませんが……」
一人で納得した様子で溜息をつく先生に、俺は声をかける。
「いや、そういうわけじゃないよ。ただ、俺自身理解が追い付いてないだけだ。……これから話すことを信じるか信じないかはお前次第だ。俺は知っていることをありのままに話すよ」
やけに仰々しい語り口で、先生は彼女——木村麦稈(ばっかん)の過去について話し始めた。
七年前、齎藤先生がこの朝稜高校に新任の国語教師として赴任してきた年に担任をもった二年生のクラスに、佐久間結衣という女子生徒がいた。物静かな雰囲気の、読書が好きなどこにでもいる女の子だ。友達は多いほうではなかったが、明るい笑顔が印象的で、決して暗い性格というわけではなかったので、周りの人たちから愛されていた、と先生は言った。
佐久間結衣は勉強熱心な生徒でもあった。苦手な数学はもちろん、比較的得意だという自負もあった国語でも授業や模試の復習などの要件で齎藤先生と頻繁に交流していた。佐久間はいつでも礼儀正しく、「よろしくお願いします」「ありがとうございました」の言葉を決して忘れなかったのが印象に残っている、と齎藤先生は言った。
「齎藤先生、お願いがあるんです」
定期考査が終わって夏休みに入ろうとしている七月の下旬、いつも通り授業に関する質問をした後で、佐久間が改めてそう言った。
「私、自分で小説を書いてみてもいるんですけど……読んで、アドバイスや感想をいただくことはできますか?」
「そう言った佐久間の、いつもより少し緊張した様子の強張った声音は今もありありと思い出せるよ」
先生は佐久間結衣の頼みを快諾した。先生自身、読書が好きだったし、この物静かな少女が胸の内にどんな物語を秘めているのか、単純に興味があったから。佐久間結衣は「夏休み中に見せても恥ずかしくないくらいのレベルに仕上げます」と、意思のこもった強い口調で言った。
かくして夏休みが明けた八月の下旬、始業式が終わった後で、佐久間結衣は分厚い原稿用紙の束を抱えて職員室の齎藤先生を訪ねた。
「面白いかどうか、分からないですけど……。よかったら、読んでみてください」
慎ましやかにお辞儀をし、彼女は職員室を後にした。そんな彼女の姿を見送って、先生は早速、彼女から手渡された原稿用紙に軽く目を通す。どうやらそれは恋愛小説らしかった。
一人暮らしのアパートに帰り、先生は改めて原稿を広げた。『新人賞投稿作(仮)』と大きく書かれた一枚目をめくると、彼女自身の人となりから想像に難くない慈愛に満ちた世界が展開される。しかし、それは読み進めていくうちにどんどんと裏切られていった。登場人物は愛する相手に自らのエゴをぶつけるようになり、人間関係は徐々に崩壊していく。そうして激しく変遷していく環境の中で、皆がどうにか希望を見出し、最終的にそれぞれの幸せを掴むといったストーリーだった。
弱冠十七歳の少女が描いたとは到底思えないような容赦のなさと暖かな慈悲に満ちた世界に、先生は単純に心を打たれてしまったという。気が付けば頬を涙が伝っていたとも。
「飾り気のない無垢な言葉が、逆に琴線に触れたんだろうな。大人が書いた小説なら、きっとあんなに感動することはなかったと思う」
翌日、先生は佐久間結衣にさっそく感想を伝えた。ありのままに、涙を流したことまで含めて話すと、佐久間は「嬉しい」と一言、口から漏らすように言った。
「日本語として間違っている部分に赤をつけたところもあるけど、ストーリーや叙述表現に関しては文句なしだと思ったよ」
この才能はきっと、あらゆるところで認められるだろう。タイトルから新人賞に応募するつもりなだということはわかったので、その背中を押すような言葉をかけてやれていればいいと思いながら、先生は言葉を選んだそうだ。
「ありがとうございます」
それまでの不安そうな表情が嘘のように晴れやかな笑顔で、佐久間は言った。
俺はその笑顔を想像する。真っ白なワンピースに麦わら帽子の彼女の、可憐な笑み。ひまわりのような明るさをもつそれに、俺は思わず頬が緩んでしまうのを自覚した。
彼女はその小説を、垂柳社という出版社が主催している新人賞に応募し、見事入賞、出版の名誉を勝ち取った。彼女が高校三年生になった夏のことだった。
「ここまでで終わっていれば、ただのサクセスストーリーのめでたい話だったんだけどな。悲劇が佐久間を襲うのは、この後だ」
芝居がかった口調で齎藤先生が言う。それはまるで、何か大きな悲しみから気を紛らわすための逃避の儀式のようにも見える仕草だった。
目立つことが嫌いだった佐久間は、受賞の報告をするのも最小限の人数にとどめた。家族、先生、そして幼馴染の永川隆宏。それ以外の人間で彼女の受賞及び出版はおろか、小説を書いているという事実さえ知っている者はそう多くなかった。
「新人賞に応募した小説がね、賞をとったの。紙と電子で出版も決まった」
「えっ……、すごいじゃん。おめでとう」
隆宏は驚いた様子で、しかし心からの祝福をもって佐久間に言った。二人は小学校からの友人で、互いのことは手に取るように理解していた。
「本当におめでとう、結衣。ずっと藤堂先生みたいな作家になるって夢だったもんね」
「うん。すごく嬉しい」
誰より信頼している幼馴染からの純粋な祝福に、佐久間はとびきりの笑顔で応えた。その笑顔に、永川隆宏の胸の内で黒い予感がざわめき出していた。
「……結衣」
改めて名前を呼ぶ。
「ん?」
佐久間はもう興奮している様子もなく、純粋な疑問の表情を見せる。
「これから俺の家、来ないか? ちょっとゆっくり話したいんだ。お祝いも含めてさ」
大々的に騒ぐのが好きではない佐久間のことを思って言った言葉だった。少なくともこの時点では。
「……うん、ありがとう。お邪魔しようかな」
きっと彼女は、何かいつもと違う雰囲気を感じ取っていただろう。しかしそれは、誰より信頼している幼馴染の申し出を断るにはあまりに弱いものだった。だから佐久間は、隆宏に着いて行くことに決めた。きっといつもと変わらずに、のんびりとお菓子を食べ、駄弁って終わるだろう。そんな望みを胸に秘めて。
「佐久間はその日、その幼馴染の部屋で、奴に押し倒された。彼女自身はせいぜい告白をされるくらいだろうと思っていたらしいが……。若気の至りと言って許される行為では到底ないが、感情の暴走を抑えることが出来なかったんだな」
その翌日から佐久間は、学校を休みがちになった。前年に続けて彼女のクラスの担任を持っていた齎藤先生が彼女の家を訪問した際、彼女は泣きながら先生にその事実を語ったらしい。
「お腹の下のあたりで、真っ黒い何かが蠢いているような感覚が消えないの。月のものは異常なく起きているから、間違いなく錯覚なんだけど……」
こわい、と小さく声を漏らして自分の腕にすがる彼女の姿は痛々しく、とても見ていられるものではなかった、と先生は言った。
「外の空気は吸ってるか?」
「埠頭に行って海を眺めることはしてます……。三時間とか、四時間とか、気付いたら経ってることも多いです」
言って、佐久間はわずかに恥ずかしげな笑顔を浮かべた。久々に見た佐久間の笑顔に、先生は少し安堵したという。今になって思えば、この安堵がなによりの失敗だったのだと分かる、と先生は言った。俺は本当に馬鹿だな、とも。
永川隆宏は事件以来、佐久間と連絡を取ることは一切なくなったという。まるで彼の人生のうち、佐久間結衣という人間との出会いそのものが初めからなかったかのように学校生活を送り始めたらしい。
その一方で、佐久間は夏が過ぎ、秋が来て、朝稜高校内の受験ムードがピークを迎えてもなお、学校来ることはなかった。毎日のように埠頭に向かい、何をするでもなく長い時間海を眺めて過ごす彼女のことを、教室の中で話題に出す者も徐々にいなくなっていった。
先生だけが佐久間の存在を忘れられないまま過ごしていたある日、事故は突然起こった。
正午過ぎ、いつも通り埠頭に向かった佐久間が二十一時を回っても家に帰らなかった。不審に思った両親が埠頭へと向かうと、救急車とパトカーの赤い光が、人だかりを照らしていた。何事かと佐久間の親が駆け寄ると、埠頭で作業していた業者が、海に巨大な物体が浮かんでいるのを発見したという話だった。
それが、佐久間結衣だった。
「遺書がなかったことと、佐久間の親が不登校の原因を無理に聞き出そうとせず永川との一件が明るみに出なかったせいで、佐久間の死は事故として処理された。だが俺は、永川のしたことを知っているただ一人の人間として、佐久間の死は本当に事故なのかいまだに疑っているんだ」
少し声を潜めながら齎藤先生は言って、深い息をひとつ吐いた。
俺はといえば、理解が追いついていないというのが正直な気持ちだった。昨日も会って確かに会話を交わした彼女が七年前に死んだ人間かもしれないという現実。そんなことは有り得ないと思おうとすればするほど、おそらくは毎日、どんな時間にも彼女が埠頭にいることや、件のウミガメのスープの真相がその思考を否定する。
「なあ、林」
齎藤先生が、考え込む俺の名前を改めて呼ぶ。
「もしも佐久間に……木村麦稈に会えるのなら、俺は真実を知りたい。これはお前にしか頼めない伝言だ」
そう言って先生は、少しカバーのよれた木村麦稈の著作を俺に手渡した。
*
その週の土曜、正午過ぎ。夏も本番に入り暑さが本格化しだす頃、俺はまた埠頭へと足を向けた。雲一つない快晴の空の下、肌が汗ばむのを感じる。それでもやはり海辺は風が強い。俺は浴び慣れた潮風を浴びながら、これから彼女に伝えなければならないことの数々を思った。
俺自身が伝えたいこと、先生から預かった伝言、そして、彼女自身のこと。彼女とはこれまで多くのことを話してきたけれど、そのどれもが、話さなければならないことではなかったことに、俺はようやく気が付いた。
「……来たね」
「来ましたよ、木村麦稈先生——佐久間結衣さん」
初めて彼女の名前を呼ぶ。彼女はその顔に少し暗い影を落とし、「正解」と短く言った。
「齎藤先生から聞きました。あなたのペンネームも、本名も、七年前のことも、全部」
俺がそう言うと、彼女は少し悲しげな顔をした。当然だろう。彼女にとって七年前の一連の出来事がどれだけ心に深い傷を負わせたかは計り知れない。
「先生の言った通り、私はすでに死んでいる。この世界にある者には触れちゃいけない決まりなんだって。ほら」
言いながら彼女は右の掌を差し出した。俺はその手を取ろうとはせず、彼女の目をまっすぐに見据える。
「後にしましょう。今日はそれよりも大切な話をしに来たんです」
会話のペースを彼女に握らせてしまうと、言わなければならないことを伝え損ねてしまう気がして、俺は強気な姿勢を見せる。彼女は少し面食らったような表情で、「わかった」と譲歩した。
「小説、読みました。前も言った通り俺はあまり小説を読むほうではないんですけど、すごくよかったです」
月並みな表現しか出てこないことを少し恥ずかしく思いながら、俺は木村麦稈の小説を読んで思ったことを率直に伝える。俺の語彙がお世辞にも豊かとはいえないことには彼女も気付いただろうが、彼女は真剣な声で俺の話に耳を傾けてくれた。ところどころつっかえながらも、俺は自分の伝えたいと思っていたことを話しきることができた。彼女の懐の深さに改めて感心する。俺は彼女のこういうところが好きだった。
「すごく嬉しいよ、ありがとう」
話すにつれて、徐々に彼女の笑顔が戻っていく。作家にとって自分の著作を褒められるというのは、やはり何物にも代えがたい喜びなのだろうと思った。秘密主義者で生前こういう機会がほとんどなかったであろう彼女ならなおさらだ。自らが作りだした世界が他人に認められる快感は、どのようなものだろう。
「これからも、もっと色々な小説を読んでみようと思います」
言うと、彼女の顔がぱっと明るくなった。
「小説はいいものだよ。私なんかより物語も叙述もうまい作家さんがたくさんいるから、ぜひ君だけの好みを探してみて」
彼女にとっては、自分の小説を褒められることよりも小説の読者人口が増えることの方が喜ばしいらしい。利他的な愛に満ちた純粋な表情は、この埠頭で最初に彼女と出会ったときに感じた現実離れした美しさを彷彿とさせた。
今まで付き合ってきた異性に、こんなに美しい人はいただろうか。容姿の美しさ以上に、人間の内側から溢れ出す本質的な、根源的な愛情を体現するような人に、俺は出会ったことがあるだろうか。
「今まで当たり前だと思っていたことが、全て覆されるような衝撃。彼女はそういう力強さをもって、私の前に現れた」
彼女がはっとした表情で俺の顔を見つめる。俺が読み上げたのは、壮絶な人間関係の変化を経て、愛を受けることを拒絶するようになった主人公が、最後の恋人として生涯を共にする女性からの告白を受けるシーンだった。
——彼女はもはや、私の親友として、私の悩みや弱さ全てを受け止めてくれていた彼女ではない。いや、私が気付いていなかっただけで、ずっと前から、そうではなかった。私は目の前で優しく微笑む彼女に、どんな言葉をかければいいか咄嗟に判断できなくなってしまった。
「いいんだよ。私はどんなあなたも受け入れる覚悟ができてる。私の気持ちを知った今、あなたはどんな気持ち? それを率直に言ってくれたらいい」
穏やかな口調で彼女が言う。そのあまりに深すぎる愛情に、私は固く鍵をかけていた心が優しくほぐれていくのを感じた。
「……ごめんなさい」
口にした私の目から、涙が零れ落ちる。
「違う、違うの。私もあなたのことが好き。友達としてじゃない。あなたが私を好きなのと同じ意味で、私もあなたのことが好き」
嗚咽を漏らしながら、必死で訴える。彼女は変わらず優しい表情で、ただ頷いていた。
「だけど私は、あなたみたいに強くないから。今までも、これからも、一緒にいたらきっとあなたを傷つけ続けてしまう」
「——そんなもの、私だって覚悟の上だよ。それでもいいから、愛させてほしい」
「……同性愛を扱う作品って、もっとそれを前面に押し出すものというか、その要素だけで一つの作品にしちゃうものだと、何となく思ってました。だから主人公の、最後の最後で同性を恋人として選ぶって決断には驚きましたし、人を愛するってことの本質とか、そういうものが少し垣間見えた気がして、このシーンは特に心に残っています」
「なるほど……。ありがとう。やっぱり君の声は素敵だ。まさかこのシーンを読んでくれるとは思わなかったけれど」
彼女——木村麦稈は、喜びをあらわにするといった様子でもなく、真顔で感謝の言葉を言った。真っ向から褒められて、俺は何となく気恥ずかしくて彼女から目を逸らすと、
「他人の評価をもらうって、こんなに嬉しいことなんだね」
とあくまで真剣な表情を崩さずに言った。
「嬉しいっていう割には浮かない顔してませんか?」
「……だって、今更自分の文章を分析したって、それを次の作品には活かせないんだもん」
拗ねたような口調は、俺の前では初めて見せるものだった。俺は今日だけで何度目か分からないときめきを感じながら、
「次の作品、書きたいんだ」
意地が悪いことを自覚しつつ、そう言った。
「夢を叶えたことを後悔してるって言ってたのに。殺した夢に追い打ちをかけるようなこと、したいんですね」
「したいだけ、ね。どんなに強く願っても、もう本当に、絶対に叶えられない夢になってしまった。この苦しみはあなたにはわからないでしょう」
怒りを滲ませ声を荒げても、今日の彼女はどこか穏やかさを感じさせた。それが彼女が本来持ち合わせている性格なのか、一度弱さを曝け出してしまった俺に対する諦念がそうさせているのかは、俺には分からなかった。
「夢なんて叶えるものじゃないって、遠くから眺めているのが一番なんだって、学んだはずなのに、まだ私は夢を殺したがっている。前を見ても後ろを振り返っても地獄絵図の世界で、私は身動きが取れないように鎖で縛り付けられてるの」
強烈な悔しさに歯噛みし、彼女は俯いた。その険しい表情に、俺の方まで胸が締め付けられるのを感じる。
「私の寿命、とっても質がいいんだって。質のいい寿命をたくさん余らせていたから、私は今ここであなたと会話をしてる。……死んでからそんなこと言われたって、嬉しくないっての」
「寿命の質?」
聞き慣れない言葉を、俺は反復する。彼女は「そう」と自嘲気味に微笑んだ。
「この世とあの世の間の世界の話。人間の寿命を管理しているお役所があってね。そこに自分の寿命を売ると、その質と量に応じてこの世に干渉する権利がもらえるの」
数日前に語ったウミガメのスープの真相よりもよっぽどフィクションじみた口調だった。人の命を売買するなんて行為が許される場所があるなんて、信じられない。
「信じられないって顔してる。でも、私が七年前に死んだ人間であることも、その私がいま君とこうして会話をしていることも、紛れもない事実だよ。それを説明しようと思ったら、このくらい突飛な話になっちゃうよね」
心なしか少し明るさを取り戻した様子で彼女が言った。
そうだ。信じられないことはもうすでにたくさん起こっていて、俺はそれを知らないうちに受け入れてきた。彼女がここにいる理由がなんであれ、今大切なのは彼女がここにいて俺と言葉を交わしているという事実だった。
「そうですね。なら俺も、伝えたいことを伝えることにします。——あなたは夢を殺してしまったと思って強く後悔していますけど、それもある意味独りよがりですよね。夢の方は、どう思っているんでしょう」
「夢の方?」
「はい。誰の手も届かない、誰の目にも触れないところで咲き誇るのを幸せとする花がいるように、その美しさを誇示し、見せつけることに幸せを見出す花がいてもおかしくないんじゃないかって、俺は思います。少なくとも俺は、あなたがあなたの夢の花を摘んでくれたおかげで小説の面白さに気付くことができた。それだけで、その花の死は無価値ではなくなるはずです」
「……」
こんなにも長いせりふが、今度はつっかえることなくすらすらと口から流れ出た。伝えなければいけないことは、伝える気になればしっかりと口にできるようになっているのだ。
「……君には本当にかなわないね。やっぱり君は小説家になるべきだと思う。——私の分まで」
軽くため息をつき、彼女はあきれたように笑った。
「それはちょっと荷が重すぎますね。俺は木村麦稈を超える作品は書けませんよ」
「木村麦稈になっちゃえばいいんだよ」
「なおさら無理ですよ。俺たち、考えてること正反対じゃないですか」
「それもそうか」
そう言って、彼女は一番可愛い無垢な笑顔を満面に湛えた。その顔を見て、俺はなんだか誇らしい気持ちになる。俺は彼女を笑わせられる人間になったのだ。
「ここに来て、君と出会えて、本当に良かった。私が言ってほしかったことを、君は的確に伝えてくれる」
「俺も、あなたと出会えてよかったです。小説の面白さと、一目惚れと——叶う望みのない恋の切なさを知りました」
俺の控えめな告白に、彼女はふふ、と嬉しそうに笑った。海を背負う彼女が、一歩、二歩、俺に近寄る。
「私も、君のこと」
その瞬間、彼女の唇は確かに、俺の唇と重なった。そして俺は、これまでも、そしてこれからも、二度と同じキスは経験できないと確信した。だって彼女の唇は、確かにそこにあるのに決して触れられない。味も感触も一切ない、世界にただ一つの特別な花だった。
「俺は、何があっても追いかけ続けます。朝稜の埠頭に誇り高く咲いた麦の姿を。決して追いつけないと、摘むことは叶わないとわかっていても。そのくらい、俺は、木村麦稈という作家が大好きですから」
言いながら、自分でもよくこんなくさいせりふが吐けるものだと感心する。恥ずかしくて顔が熱を持つ。それでも俺の口は愛を叫ぶことをやめはしなかった。恥ずかしかろうともこれが発さなければならない言葉だと知っているから。俺は、後悔をしたくなかった。
「ありがとう」
二人の声が重なった。その光景を祝福するように、風が、木村麦稈のトレードマークである麦わら帽子を奪い去る。彼女はそれを追うことはせず、俺と顔を合わせて声を出して笑い続けた。それはきっと永遠に続く、世界で一番幸せな時間だった。
「私の死因?」
「うん。齎藤先生が本当に事故なのか知りたいって」
「あぁ、そっか。隆宏とのことを知ってるのは齎藤先生だけだもんね」
二人を真っ赤に染めた夕陽も沈み、濃紺の夜空が顔を出し始める頃、齎藤先生の伝言を思い出した俺が問う。彼の名前を口にした後で、彼女は少しだけ悲しそうな顔をした。
「麦わら帽子を追いかけて、海に落ちたの」
悲しそうな様子を崩さないまま笑顔を浮かべ、彼女は言った。
「馬鹿みたいって思ったでしょ。だけど本当なの。風に飛ばされた帽子を追いかけて海に落ちた。それだけだよ」
「その帽子って、そんなに大切なものだったんですか」
俺の告白の後で風が攫った帽子を、彼女は追わなかった。彼女の服装が亡くなる直前のものであるとするなら、帽子の大切さも同じではないのだろうか。
「この格好は、私の夢の象徴なの。藤堂浩之って作家、知ってる?」
「いえ、小説にはあまり詳しくないので……。ごめんなさい」
自嘲的に俺が呟くと、彼女は目の色を変えて「それはダメ」と半ば叫ぶように言った。
「藤堂先生の小説は読まなきゃダメ。あの人の作品には一つもハズレがないから。登場人物がみんなかっこいいんだよ。私は特に『漂白』に出てくる藍美って女の人が好きで——」
あまりの饒舌さに軽く引いている俺の間の抜けた顔に気付いた彼女が我に返って「この格好も、彼女の、真似なの……」と尻すぼみに言った。
「結構オタクなんですね。――いいと思いますよ。俺そういう人、好きです」
「やめて、抉らないで」
真っ赤な顔を両手で覆う彼女が誰よりもいとおしい。この時間が永遠に続くことを俺は何度も願った。
*
「木村麦稈だったんだ」
週明け、月曜日。俺よりも遅く登校してきた等に事の顛末を報告をすると、等は意外にもあっさりと言った。
「あれ、反応薄くない?」
俺が驚くと、
「そんなことないよ」
と言いながら等は机から単行本を取り出して俺に手渡した。
それは、カバーにラミネートがかかった木村麦稈の唯一の著作だった。裏表紙には〈朝稜高校図書室〉の文字が書かれたバーコードが貼られている。
「図書室の蔵書、お前が借りてたのか。齋藤先生、俺に私物を貸してくれたんだぞ」
「知らないよ、そんなの。垂柳社の新人賞受賞作を追っているって言ったでしょ。それよりもほら、このシーン」
等がしおりを挟んでいたのは、彼女との最後の日、俺が彼女に読み聞かせた、親友の告白の直後、家で主人公が親友との日々を回想するモノローグだった。
——「今でも夢を追えているあなたが羨ましい。私はあきらめることに慣れてしまった。あなたにはこんな人間になってほしくはないの」
かつて、愚かな夢を追い続ける私に、彼女は言った。少しだけ悲しそうな、だけど力強さを感じさせる目で、私を見据える。
「あなたはどうか、あきらめないで。あなたの夢は、もうあなただけの夢じゃない。自分勝手も甚だしい話だけれど、私のためにも、その夢を叶えてほしいの」
親友の訴えに、私がどう応えたのか、もう思い出せない。しかし今になって思えば、この時から彼女の気持ちは固まっていたのだろう。
だから私は、今日の彼女の告白を聞いて心に決めた。
私が、彼女の夢になる。
彼女にもう何もあきらめてほしくはない。そのためには、私といつまでも一緒にいることを彼女の夢にしてしまえばいい。私は決して彼女のそばを離れない。離れられない。
「二人でずっと、夢を追いかけようね」
今この場にはいない彼女に向かって話しかけた。
次に会えるのはいつになるだろう。
初恋のような気持ちの高まりを心地よく感じながら、私は床に就いた。
「……これは」
「小説を読んでいると、作家の価値観の移り変わりを感じられて楽しいよ」
等はそう言ってにっこりと笑うと、ぱたんと単行本を閉じた。
「おすすめの作家とか教えてほしかったらいつでも言ってね」
「え?」
俺は思わず素っ頓狂な声を出した。俺のイメージでは、等はそんな言葉をかけてくれるタイプではなかった。
「何?」
「いや、等の方からそんな風に申し出てくれるなんて珍しいなって」
「……そりゃ、将来ライバルになる人がへなちょこだったら話にならないからね」
これも等には珍しく、余裕のなさそうな口調だった。しかし俺はそんな等を笑う前に、この週末に芽生えたばかりの自分の夢を看過されていたことに驚いてしまった。
「お前はエスパーか何かなのか?」
「樹が分かりやすすぎるだけだよ。そんなもの机の上に広げてさ」
言うと、等はぷいっと前に向き直ってしまった。俺の机の上には、〈ネタ帳 追いつけ追い越せ木村麦稈〉と表紙に殴り書きされた大学ノートが置かれていた。
*
「……そうか、本当に、事故だったんだな」
放課後、借りていた小説を返そうと職員室を訪れた俺に、「それはやる。それよりも彼女の話を聞かせてくれ」と齎藤先生は逸る気持ちを隠そうともせずに言った。彼はマグカップを片手に俺の報告を真剣な表情で聞いていた。
「しかし、小説の登場人物に憧れて服装を真似するとは、佐久間らしいといえばらしいのか」
遠い目をして微笑む先生を、俺は少し羨ましく思った。先生は俺の知らない彼女をたくさん知っているのだろう。彼女への愛で負けるつもりはさらさらないが、それでもやはり嫉妬はするものだ。
「寿命の質がいいんだそうですよ、麦稈先生」
彼女と別れた後、自室で彼女との会話を咀嚼しているうちに頭に引っかかったフレーズを齎藤先生に投げかけてみた。
「寿命の質?」
俺の言葉の意味が咄嗟につかめなかったようで、先生は首を傾げる。
「あの世とこの世の間に人間の寿命を管理する役所があって、そこに自分の寿命を売ればこの世に干渉する権利が得られる、らしいです」
あの日、俺と彼女はほぼ半日近くも話をした。取り留めない話題から互いの身の上話、死生観や夢に対する向き合い方まで、あらゆることを曝け出し合った。
俺はその膨大な会話をなるべく忘れないよう、ノートに書き起こし、何度も胸の内で反芻した。〈ネタ帳〉の冒頭の数ページを埋めるその備忘録の中には俺の頭では理解ができない内容もいくつか潜んでいた。
「死んだ人間がこの世に現れるなんて理不尽に説明をつけようとするなら、そのくらい突飛な発想が必要なのかもな」
彼女と全く同じ言葉を発し、先生はコーヒーを啜る。感情を読み取ることのできない、無に近い穏やかな表情だった。
「数学や物理を教えている先生が聞いたら怒るだろうが、俺は科学を妄信するのが好きじゃないんだ。倫理と人道の欠片もないそんな役所がもし本当に存在するのなら、この上なくロマンチックじゃないか」
同意を求めるように、先生は不敵に笑った。その表情がどこか彼女を彷彿とさせ、俺はなぜか背筋が寒くなるのを感じた。
「……そうですね。だからこそ人は未だに文学に心惹かれるのかも」
俺の応えに満足したように頷き、先生はもう一度微笑んだ。
「頑張れよ、林」
力強い先生の声に押され、俺は職員室を後にした。
*
「林~、飯行くべ」
その日の部活終わり、いつかと同じように笠井が絡みついてくる。
「……そうだな、久々に行くか」
「おっ、やっとその気になったか」
満足げに笠井が頷く。
その日の夕食会は俺と笠井を含め四人の同学年部員が参加した。俺以外のメンツは頻繁に飯を食いに行っている奴らばかりだったので、俺は少し物珍しがられた。
「林はなんというか、硬派な奴だと思ってたよ。飯とか来るんだな」
「別に硬派ってことはないよ。最近はちょっと……何だ、忙しくて」
「女か?」
「ちっ、げぇし」
朝稜生御用達の軽食喫茶〈ホライズン〉の一角は、今日も若々しいざわめきで満ちていた。
「林、お前誤魔化すの下手だろ。どんな子なんだよ」
「……白いワンピースの似合う華奢な人だ。ふらっと立ち寄った埠頭で出会ったんだよ」
「え、お前清楚系シュミだったの?」
「てか埠頭で出会うってどういうことだよ」
三人からの質問攻めが始まる。これだから友人と色恋の話をするのはあまり好きではなかった。
「そんなのどうだっていいだろ。それよりさ、お前ら進路のことって考えてるか?」
「進路? 急にどうしたんだよ。真面目か」
笠井が茶化す。朝稜は進学校だから、九割を超える生徒が短大を含む大学や専門学校に進む。俺たちが考えるのは、進路というよりも志望校についてという面が強かった。
「俺はさ、この町を出たいんだ。都会に行っていろんな刺激を受けて……」
言い淀む。顔を知っている人に自分の小説を読まれたくないと言った彼女の気持ちが少しわかった気がした。
しかし、彼女に対してあれだけ夢も愛も語り尽くした俺に、今更何を躊躇うことがあるだろう。
見回すと、三人が訝しげな顔で俺の次の言葉を待っていた。
「俺は、小説家になりたい。……例の女の人がさ、作家なんだって。この恋は叶いそうにないんだけど、あんな風になりたいって思っちゃったんだ」
「へぇ、いいんじゃないか」
間髪入れずに相槌を打ったのは、笠井だった。
「お前が書いた小説なら読んでみたいよ。なあ?」
笠井の隣に座っていたチームメイトは咄嗟に頷き、
「俺は小説とかよくわからんし、つまんなかったら途中で読むのやめるぞ」
「……そんな心配は無用だよ。やるとなったら本気でやるぞ、俺は」
嘲笑を受けなかったことを心の中で深く安堵し、俺は強がって口角を上げる。等や、笠井や、チームメイト。こんな仲間に恵まれた俺が、うまくいかないわけがないと、愚かにも信じることができた。
麦稈先生。俺はきっとあなたに追いつくよ。
作家として、人として。あなたにまた会えた時、胸を張っていられるように。
この町に生まれたから、朝稜で育ったからこそ掴めた幸せを噛みしめながら、俺は心の中でもういない彼女に誓った。
高嶺に咲いた花の幸せ 乾まさき @Inui_Masaki_
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