高嶺に咲いた花の幸せ

乾まさき

      






摘まれぬを矜持と為せば誇らかな高嶺に咲いた花の幸せ










「彼女は、夢を叶えたことを後悔したんだよ。夢っていうのは、叶った瞬間に死んでしまうものだから。自分が手を伸ばさなければ綺麗なまま咲き誇っていられたはずのそれを、他ならぬ自分が摘み、殺してしまったことを後悔したの」

 華奢な体、白い肌。いつも無邪気に、明るく話す彼女には似つかない、憎しみのこもった強い声。夏の強い潮風にもかき消されないような感情をもって、彼女は言った。

「片思いしている時が一番幸せ、とかさ。綺麗なものは遠くから見ているから綺麗なんだ、とか、よく言うでしょ。あれはその通りなんだよ。夢なんて、叶えるものじゃない。高嶺に咲いた花は、摘もうだなんて思わずにただ綺麗だなって眺めているのが正しい愛で方なの」

 彼女の口調は、架空の物語を語るそれとは明らかに違う。自らを重ねているのだろう。彼女の過去に何があったのか、俺は知らないけれど、俺なんかには想像もつかないような巨大な気持ちを抱えているのだろうということだけはわかった。

「こんな思いをするくらいなら、夢なんて叶えなければよかった——彼女はきっと、今もそんな思いを抱えながら生きているわ」


 彼女と出会ったのは、蒸し暑い六月の終わりごろのことだった。

 所属するサッカー部の放課後練習を終えた直後の更衣室は、がたいのいい男子十数人を詰め込むにはあまりに狭すぎた。

「林〜、このあと飯行くべ」

 俺と同じ一年の笠井が俺に絡みつく。体を動かしたあとの汗臭さをどこか愛おしく感じた。

「うーん、今日はパスかなぁ。あんまり金もないし」

 俺がそう応えると、笠井は「つれねぇなぁ」と不満げな声を漏らした。

「別に飯くらいいつでも行けるだろ。そんな文句言うなよ」

 運動とアルバイト、仲間たちと共にバカ笑いをすること以外の娯楽がないこの町で、若者はいつだってエネルギーを持て余していた。代わり映えのしない毎日に少しでも彩りを与えたくて、俺はしばしば下校中に町を放浪した。

「悪いけど、俺はお先に。また明日な」

「おう、明日」

 むさくるしい更衣室をさっさと後にして、俺は玄関へと向かう。

 さあ、これからどうしようか。

 十六年弱も住んでいれば、そう広くはないこの朝稜(ちょうりょう)町で新しい発見をすることは困難になってくる。行ったこともないような飯屋が潰れたとか、どこそこに新しくコンビニができたとか、その程度の変化を複数見つけられれば万々歳といった具合だ。

 それでも何もしないよりはマシだと、俺は懲りずにどこでもない方向へと足を向ける。

 その日、足は埠頭の方向へと向いた。そこへ行こうと思って向かったのではなく、自然と体が動いていた。夕方から夜へと移り変わる時分の風に吹かれた波の音が耳に心地よい。見慣れたはずの日本海が少しだけいつもと違って見えた気がした。

「……ん?」

 違って見えた気がした、だけのはずだった視界に、俺は明確な違和感を捉えた。夕焼けの逆光を受けたそのシルエットは、潮風に吹かれてなびく真っ白なワンピースと、つばの広い麦わら帽子が印象的で、なぜだか俺は目が離せなかった。

「あの」

 背後から海を眺めるその人に近づき、声をかける。瞬間、一層強い風が一つ吹き抜け、振り返る彼女の動作の一つ一つを際立たせた。

「何、してるんですか……。こんなところで」

 小さな手で帽子を押さえて振り返り、言葉を発することなく訝しげな表情で俺を見つめる彼女に、俺は少しだけひるんだ。思わず声をかけたはいいものの、その先のことなど何も考えていなかったことを思い出す。俺の尻すぼみな声に、彼女はくすりと微笑んでみせ、

「海を見ていたの」

 優しい声でそう応えた。その表情と仕草と声、それに夕日に照らされた埠頭というシチュエーションはあまりに調和がとれすぎていて、どこか現実から乖離した美しさを放っていた。

「この町の海が、好きなのよ。貿易港として栄えていた百年前の風景に思いを馳せながら潮風を浴びていると、なんだか心が穏やかになるの」

 百年前。朝稜町を擁する渥呂(あつろ)市は日本有数の貿易港として県内トップの人口を誇っていたという。十数年後、内陸側で発展した隣の市に人口はあっさりと抜かれ、現在渥呂市の人口は減少の一途をたどっている。典型的な斜陽都市だった。

「君の方こそ、こんな時間に何しに来たの? その制服は……朝稜高校だよね」

「俺は……。俺も、海を見るのが好きなんです」

 そんな嘘が口をついて出たのは、目の前にいる女性が朝稜の制服を見て少しだけ苦い表情をした、ように見えたからだ。せっかくの綺麗な情景が濁るさまを、一秒だって見ていたくはなかった。話を合わせておけば、少なくとも彼女が悲しげな表情をすることはなくなるだろうと思ったのだ。

「そっか、私と同じなんだ。実は私も朝稜高生だったの。もう七年も前になるのかな……。懐かしい」

 果たして俺の予想通り、彼女は先刻と同じような柔らかな微笑みを湛えて言った。自分と同い年か、せいぜい一、二個年上だろうと思われた彼女がはるかに年上だったことに内心で驚いていると、「君は何年生なの?」と彼女がまた問うてきた。

「一年です」

「そっか。部活は?」

「サッカー部」

「へえ。言われてみれば、何となくぽいかも。将来の夢は?」

「明確なビジョンはないけど、とにかくこの町を出たい」

 突然の質問攻めに思わず敬語を忘れてしまいそうになる。「……です」と申し訳程度に付け足すと、彼女は「多いよね、そういう人」と言いながらくすくすと笑った。

「私も昔はそう思ってたけどね。結局ここを……この町を離れられなかったんだ」

「あなたは、何をしてる人なんですか」

 不躾とは思いつつ、自分ばかり詮索されるような形になるのも癪で尋ねる。彼女はなぜかしばらく悩んだのち、

「……小説を、書いてる」

 と、まるで独り言のように言った。

「筆はあまり早いほうじゃないし、そこまで売れてるってわけじゃないけどね」

「そうなんだ。……ペンネームとかって、あるんですか」

「君、小説は結構読むほうなの?」

 心なしか少し浮ついた声で尋ねられ、内心俺は罪悪感を覚えた。俺自身は小説や文芸というものに強い興味があるわけではないからだ。

「ごめんなさい、俺はめったに小説は読まないです。ただ、友達に読書が好きな奴がいるから、何となく気になって」

「ふーん……。女の子?」

 いたずらっぽく目を細める彼女に内心どきりとしながら、「男です」と俺が応えると、彼女はなぜか心底がっかりした様子で「なんだ、つまんないの」とため息をついた。

「私、顔を知ってる人に自分の作品を読まれるの、あんまり得意じゃないんだ」

「教えてくれないんですか」

「知りたいの?」

 俺は強く頷いた。

 この数分間話しただけで、俺は彼女に惹かれ始めていた。色恋は初めてではないけれど、出会ったばかりの人にここまでどうしようもなく惚れ込んだことはなかった。これが一目惚れというものなのだろうか。

「飴あげるんで教えてください」

「いらないし。馬鹿にしてるの?」

 ちょっとした冗談のつもりで差し出すと、彼女は想像以上に強い怒りを滲ませた声で言った。

「……受け取れないんだよ。受け取りたくても」

 独り言のような彼女の小さな声は潮風にかき消され、俺の耳には届かなかった。

 しばらく、二人の間に気まずい沈黙が流れる。その間俺は、彼女から目を逸らさなかった。

 ぱっちりと大きな瞳に、少し丸みを帯びた柔らかい輪郭。華奢な体を包む白いワンピースがよく似合っていた。

 容姿や服装は確かに俺の好みだが、一目惚れをする理由には少し弱いのではないかと、俺はどこか冷静に分析をした。容姿以上に、彼女の内から溢れ出る言葉では説明できない雰囲気のようなものが、俺の心を捉えて離さなかった。

「……あきらめてくれる気はなさそうだね」

 長い沈黙を破ったのは、彼女の方だった。

「そこまで知りたいのなら、宿題を出そうかな。今から私が出す問題の答えを考えて、三日後またここで会おう。それが正解だったら、私のペンネームを教えてあげる、っていうのはどう?」

「問題、ですか……」

 俺は少しだけ躊躇する。俺は国語が比較的苦手だった。小説家が出す問題というのだから、きっと数学の計算問題ではないだろう。答えが一つに定まらないような曖昧な問題は、どうも好きになれなかった。

「私は書影やインタビューでも顔を出してないから、読書家の友達に私の容姿を伝えても私が誰かはわからないと思うよ?」

 彼女が煽る。その意地悪な表情が、燃える恋心に油を注いだ。

「……やります」

「おっ、いいねえ。ノリのいい子は私、好きだよ」

 それじゃあ、と一呼吸おいて、彼女が問いを口にする。俺はそれを一言一句聞き逃さないよう、全神経を集中させた。



「長年の夢を叶えたにも拘わらず、彼女は表情一つ動かすことはなかった。それは一体なぜだろうか?」



「それはウミガメのスープだね」

 翌日、教室で弁当を広げながら昨夜の埠頭での出来事を話すと、件(くだん)の文学少年・等(ひとし)が言った。

「出題者が一見不可解に思える状況を提示して、回答者はイエスかノーで答えられる質問を重ねて真相を解き明かす、水平思考実験とも呼ばれるクイズだ」

「何だそれ……。ってことは、誰から見ても明確に正解と言えるような答えはないのか?」

「そうなるね」

 こともなげに等は言う。

「他人事だなぁ」

「他人事だよ」

 等はつんとした顔で応える。彼は、興味のないことにはとことん興味のない人間だった。それを隠そうともしないから、彼にはあまり友達が多くない。出会ってから三か月、こいつと仲良くできている自分が不思議なくらいだった。

「樹(いつき)の恋愛が成就しようと破れようと、僕にはあまり関係ないし。そもそもウミガメは基本的に正解を知っている人が出題者の役をやらないと意味がない」

 あくまでも自分には関係がないという様子を強調して等は言う。はっきりとした物言いをする彼は、他人にもそれを求める。これも、等に友達ができない原因の一つではないかと俺は思っていた。

「そこを何とか、頼むよ。ネットから引っ張ってきた問題で感覚をつかむ、みたいなのでもいいからさ。聞いた感じ、自分で検索して練習できるもんでもないだろ?」

 俺は両手を合わせて頼み込む仕草をすると、等は深く息を吐きわざとらしく考えるそぶりを見せ、

「明日までによさげな問題をいくつか見繕っておくよ」

 と、米を頬張った。

 等の不思議その二。運動をするわけでもないのに、俺に負けないくらい食欲が旺盛。その大きくはない体のどこにそんな量の食べ物を蓄えるのか、気になって仕方がない。

「マジか、ありがとう。恩に着るよ」

「恩に着るって言葉、現実で使う人初めて見た」

 やたらと芝居がかった仕草でくすりと笑い、それとは似合わぬ勢いで残りのおかずをかきこんだ。

「せっかく応援するんだから、精一杯やってくれよ」

「言われなくても」

 弁当箱をしまい始めた等に握手を求めて掌を差し出す。それを無視して弁当箱をしまい続けたと思うと、彼は人差し指と中指を突き出して「僕の勝ち」と笑った。

「……んだよ、それ」

 あまりに訳がわからず噴き出す俺をよそ目に、等は机から分厚い単行本を取り出した。

「お、今は何読んでんの?」

「垂柳社って出版社の新人賞を受賞した作品を追ってるんだ。けっこう好みの作品が多くていい感じだよ」

「そっか」

 そうして等は、文学の世界へと没入していった。

 いつか、等が小説家になるという自分の夢を語っていたことを思い出す。

 このくらい夢中になれることがあれば、俺もこの町での生活を楽しめるだろうか。

 そんなことを考えながら、俺は卵焼きを口へ運んだ。


 約束の三日後、午後五時。

 鈍色の雲が空を覆っていた。埠頭で浴びる潮風は強く、冷たい。華奢な体を三日前と同じワンピースに包み、波打つ海を背負った彼女と対峙する。

「今日は早いんだね」

 無邪気な笑顔で彼女が俺に言う。

「部活を休んで来たんです」

 三日前、彼女が時間を指定しなかったことに、俺は今日になって気がついた。俺が高校生なのは分かっているから、午前中から待っているなんてことはないにせよ、下手をすれば数時間待たせてしまうことになる。特に今日は朝から天気もあまり良くはなかった。

 しかし、どうやらそれは杞憂だったようで。

「そんなことしなくても、条件が同じなら前回と同じ時間に来るって分かるのに」

 こともなげに彼女は言った。

 確かに、朝稜の運動部は平日であれば基本的に活動があることを卒業生なら当然知っている。ならば無駄な待ちぼうけを喰らうような行動は避けるだろう。冷静に考えれば簡単に理解出来るこんな事実に、俺は思い当たらなかった。

「まあ私も早く君に会いたくて、もしかしたらもう来てるかもって今ここにいるわけだから、同じ穴の貉なんだけどさ」

 さすが作家というだけあって、彼女はたまに難しい言葉を使う。俺は曖昧に笑って、「ウミガメのスープ」と切り出した。

「友達から教えてもらいました。あなたが出してくれたあの問題、ウミガメのスープっていうんですよね」

「そうだね」

「回答者は出題者にイエスかノーで答えられる質問をして、真相を暴く。つまり問題だけを提示されても、出題者がいなければ正解には辿り着けない。結構ずるいことをしますよね」

 彼女は、相槌を打つでもなく、ただ時折頷いたり微笑んだりしながら俺の話を聞いていた。

「でも、裏を返せば、あなたの想定した真相とは違っても、物語として成立さえしていれば俺が考えた真相を正解と言い張ることもできますよね?」

 そこまで言うと、彼女は心なしかわずかに目を見開いた。

「だから俺は、いや、例の友達にも手伝ってもらって、ですけど——考えてきました。聞いてくれますか」

 まっすぐに彼女の瞳を見据える。

「なるほど。なかなか面白そうなことを考えるね」

 不敵に微笑んで、彼女は「うん、聞かせて」と俺の目を見つめ返した。

「その前に、改めて問題を聞かせてもらってもいいですか」

「うん」

 

 ——長年の夢を叶えたにも拘わらず、彼女は表情一つ動かすことはなかった。それは一体なぜだろうか?


 彼女の声は穏やかだった。儚さを感じさせる細い声ながら、埠頭の強風にも負けない強い声。

 俺は深く息を吸う。等とともに考えた彼女のスープの真相を語り始めた。

「物語に出てくる女性の〈夢〉は、〈自分の旦那さんや息子娘、孫などの愛する家族に看取られながらこの世を去る〉というものだった。その夢が叶った瞬間には、彼女は息を引き取っていたから、喜びはしてもそれを表情として表すことができなかった——」

 言い切って、俺はゆっくりと息を吐く。スピーチのような長い話をするのは得意ではなかった。

 彼女は俺の話を咀嚼するようにしばらく考え込んだ後、「なるほど」とひとりごちるように言った。

「君たちはストーリーテラーの素質があるよ。小説家を目指してみたらどう?」

 顔立ちの整った彼女が不敵な笑みを湛えると、美しい印象に拍車がかかる。俺は内心どきりとしながら「友達に伝えておきます」と応える。この物語を考えたのは八割くらいは等だった。

「確かに物語として破綻はしてないし、ユニークで面白いと思うよ。……それでごねれば、中間点はもらえると思う。私が先生なら、あげる」

 唐突に始まった喩え話に理解が追い付かず、咄嗟に返事をすることができないでいると、彼女は「現代文の試験の解き方の話だよ」と話を繋いだ。

「こういう読解問題っていうのは、問題文に書かれている文言それ自体より、制作者が何を答えてほしくてその問題を出したのかってことが大切なの。朝稜生なら受験は受けるんだろうし、そうでなくても模試やらテストやら、あるでしょ? そういうのに共通して使える考え方だから覚えておくといいよ」

 メタ認知って言うんだよ、と彼女は表情をあまり動かさずに言った。

「ええと……。つまりペンネームは教えてもらえないってことですか?」

「ううん。中間点はあげるって言ったじゃない。ヒントを伝えるから、あとは自分で見つけてみて」

 そう言って彼女は少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。その穏やかな微笑みに、安堵とか、喜びとか、そういう類の感情が含まれているように思えたのは、俺の勘違いかもしれない。会うのはたった二回目だというのに、俺は彼女の微笑みにどうしようもなく心惹かれてしまっていた。

「ストロー」

「ストロー?」

「うん。それが私のペンネームのヒント」

 瞬間、強烈な風が一つ、埠頭を吹き抜けた。咄嗟に俯いて帽子を押さえる彼女を直視する。音を立ててなびくワンピースと艶のある髪の毛は現実離れした美しさをもっていた。

「ストローって、ものを飲むのに使うあのストローですか?」

 俺の質問に、彼女は小首をかしげて微笑んでみせた。これ以上応えてくれるつもりはない、ということだろう。

「あの」

「ひとつ、お願いをしてもいい?」

 俺が言葉を発しようとしたのと同時に、彼女が神妙な面持ちで切り出した。

「ごめんなさい、どうぞ」

「私の小説を見つけることができたら、またここに来て。読んだ感想を聞かせてほしいの」

「それはもちろん。今日が終わりだとは思ってませんでしたけど……。それだけですか?」

 言い終わってなお何か言いたげにする彼女に先を促す。彼女はしばらくの逡巡のあと、「朗読を、してほしいの」と言った。

「私、あなたの声が好き。自分の書いた小説をあなたの声で読み聞かせてほしい」


 おかしなことになった。

 登校して早々、俺は教室前のロッカーから英和辞典を引っ張り出して自分の席で開いていた。ストロー。strou。strow。普段カタカナでしか認識していない言葉はつづりが分からず、辞書も使い物にならない。国語ばかりでなく、俺は英語も苦手だった。

「おはよう。……明日は大雨?」

 登校してきた等が俺の姿を訝しげに覗き込む。

「別に勉強してるわけじゃない」

 顔を上げて俺が反論すると、

「いや、勉強はしなよ」

 正論が返ってきた。

「等、ストローってどういう意味か分かるか?」

「は? ストロー?」

「そう、ストロー」

 素っ頓狂な声を上げる等に、昨日の埠頭での出来事を説明する。

「まああんな詭弁が通用するわけはないか」

 一緒に考えたウミガメの回答があしらわられてしまったくだりでそう相槌を打ったほかは、等は黙って俺の話を聞いていた。時折頷いたりしているところを見ると、俺の恋は完全に興味のない話題というわけではなくなってきているらしい。

「——それで、必死に英和辞典をめくってたわけだ」

「そうだよ。だけど俺、そもそもストローのスペルが分かんなくてさ。お手上げ状態だったんだ」

「なるほどね。樹らしいといえばらしい話だ」

 水筒につけていた口を離し、等が笑った。

「ストローのスペルはstrawだよ。意味は……せっかくだから辞書引いてみな」

 教わったスペルで辞書を引く。そこに書いてあったのは。

「わら、麦わら……。straw hatで麦わら帽子って意味もあるのか——」

 何気なく読んで、思い出す。彼女のトレードマークである(と、勝手に俺は思っている)麦わら帽子と白のワンピース。

「麦、ねぇ。麦田さんとかそういうような名前ってことかな」

「そうだな。等の知ってる作家にいるか?」

「うーん。申し訳ないけどぱっとは思いつかないな。図書館の齎藤先生が詳しいだろうから、聞きに行ってみたら?」

「そうするか。ありがとな、等。何だかんだで協力してくれて」

 ふと時計を見ると、もうホームルームまでわずかという時間だった。急いで辞書をカバーにしまい、机の中に放り込む。カバンに潜ませてきた飴を差し出すと、等は「結構面白くなってきたからね」と不敵に笑った。


「名前に麦の字がつく作家?」

 放課後、図書室に顔を出すと、担当の齎藤先生は生徒に混じって机で本を読んでいた。もしもうちが私服校だったなら、彼が教師だとは気付けないであろうというくらい、齎藤先生は生徒になじんでいた。

「はい。二十代半ばくらいの女性作家だと思うんですけど、ご存知じゃないですか?」

 必死に尋ねる俺に、先生は「う~ん……」とうなってみせた。

「そういう聞き方をされることはめったにないから、すぐには思いつかないな。急ぐものじゃないなら、明日までに調べておくんじゃダメか?」

 問われて、彼女が今回は次に埠頭に来る日時を指定しなかったことに思い当たる。

「別に急ぎはしないので、それで大丈夫です」

 応えながら、俺の意識はもう目の前の齎藤先生に向いてはいなかった。気付いたら先生は読書を再開していて、壁に掛けられた時計はサッカー部の練習開始時間を大幅に過ぎた時刻を指していた。


 その日の部活終わり、俺はまた埠頭に足を向けた。俺の予想が正しければ、彼女は今日もあの埠頭にいるはずだ。今日だけじゃない。きっと毎日、彼女はあの場所にいるのだろう。そうでなければ、辻褄が合わない。

「…………」

 逸る気持ちに身を任せ、ただ走る。見慣れた街の風景が、次々と後方へ流れていく。そんな風景を振り返ることもせず、俺はただただ、生まれ育った朝稜町を駆け抜けた。

 途中、彼女に会って言うべきことがないことに気付く。関係ない。そんなものは実際に彼女の顔を見てから考えればいい。今は夢中で、ただ走る。

「……いた」

 埠頭にたどり着くと、案の定そこにはもうすっかり見慣れたワンピース姿の彼女がいた。ゆっくりと振り向いた彼女は、何が起きているのか分からないといった表情で俺の顔を見つめる。その瞳が少しうるんで見えたのは、きっと俺の見間違いではなくて。

「もう私の名前がわかったの? ずいぶん早かったね」

 妙に力の入った不自然な笑みを顔面に張り付けて、彼女が言った。その表情に、走ったことで強く酸素を求める胸が締め付けられるのを感じる。

「いえ、それはまだです、まだなんですけど……あ、そうだ」

 息を整えながら、思いつく。

「ウミガメのスープ」

 肩で息をしながら切れ切れに話す俺に、彼女は困ったような顔を向ける。俺はひとつ深呼吸をしてから「この間のウミガメのスープの答え」と改めて言った。

「俺たちが考えた答えが間違いだっていうのはわかりましたけど、あなたが考えた真相を教えてもらってないです」

「あぁ、そういえばそうだね……。知っても大して面白くないと思うけど」

 何だか今日は虫の居所が悪いらしい。いつもの笑顔は一切見せず、仏頂面で彼女は言った。

「機嫌、悪そうですね。何かあったんですか?」

「別に」

 つんとした顔で、彼女は俺の質問を撥ねつける。その態度に、頭の中で何かが切れるのを感じた。

「あなたはどうしてそんなに自分のことを隠したがるんですか」

 声を荒げて尋ねる。彼女は驚いたように目を見開き、俺の顔を見つめた。

「最初に出会ってから、自分のことになるとはぐらかして何も教えてくれないじゃないですか。俺は……俺は、あなたのことを知りたいです」

 俺のこの訴えを、彼女がどう受け取ったかは分からない。他人のデリケートな領域に不必要に踏み込みたがる生意気な子供と思われたかもしれない。

 俺は少しひるみながら、それならそれでいいとすぐに思い直した。これで嫌われるなら、俺と彼女の相性はその程度だったということだ。自分がそんな彼女をずっと好きでいられるとは到底思えなかった。

 俺もまっすぐに彼女の顔を見つめ返す。彼女の顔には、怒りと悲しみの中間のような険しい表情が張り付いていた。

「……私は、君には触れられない。どんなにその手を掴みたいと願っても、決してそれは叶わない。それがどんなに苦しいことか、君には想像できる?」

 いつも無邪気に、明るく話す彼女にはおよそ似つかわしくない、冷たく低い声だった。瞬間的に俺は何か取り返しのつかない失敗をしてしまったような、強烈な罪悪感と後悔に襲われたが、今更引き下がるわけにはいかない。

「分かりませんよ、そんなこと。分からないから知りたいと思うんです。——教えてください、あなたのことを」

 決して目を逸らすことなく、俺は食い下がった。ここで目を逸らしたら負けだ。俺の心は、この人のことを知りたいと叫んでいる。ならばこの目を背けるわけにはいかない。

 三秒、五秒、十秒——。

 先に目を閉じ、深くため息をついたのは彼女の方だった。

「……分かった、教えるよ。自分でも気に入っていないストーリーなんて語りたくないけど、そんなに知りたいなら仕方ない」

 言って、彼女は一度帽子を脱いで艶のある黒髪をかき上げた。重力に従って再び彼女の顔に降りかかるそれは、濃紺色を呈し始めた空によく映えた。

「彼女は、夢を叶えたことを後悔したんだよ。夢っていうのは、叶った瞬間に死んでしまうものだから。自分が手を伸ばさなければ綺麗なまま咲き誇っていられたはずのそれを、他ならぬ自分が摘み、殺してしまったことを後悔したの」

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