ケルの涙

 ケルが喧嘩をした。

 その言葉は、俺達の口を閉ざしてしまうには充分なものだった。


 ケルは未だに玄関で佇んでいる。

 しかし、瞳に涙を浮かべながら悲しそうに、どうすればいいのか分からないという表情をしていた。


「……とりあえず、中に入るか?」


 立ち話をする事もないだろう。それに、学校で何があったのか……詳しい話を聞きたい。

 だから俺は、とりあえずケルを中に入れようとする。


 だけどーーーー


「……やだ」


「……え?」


「……もう、嫌だよ魔王様」


 拒絶の言葉が、俺の耳に入る。

 首を横に振って、この世界でのケルの居場所を、ケル自信が拒んだ。


「……私、分かんない」


「……」


「ここなら楽しいって言ったのに……私、今楽しくない……こんなに苦しいよ……」


 震える手はか細く、溢れる涙は痛々しく見える。

 アリスとセシリアも、ただただ言葉を詰まらせた。


 だからこそーーーー


「……ケルーーーー」


 俺は抱きしめてあげようと手を伸ばす。

 何があったのか聞いて、安心させようと無意識に。


 喧嘩の内容を聞く前に、ケルのこんな姿は見たくないと思ったから。


「……っ!」


 だけど、その手はケルを掴むことなく弾かれる。


「分かんないよ……っ!」


 悲痛なケルの叫びが、玄関に木霊する。

 徐々に溢れる涙は量を増し、床にボロボロと零れ始める。


「人間なんて、弱くて私のご飯でしかなくて、ブラドもマルクスもイザリナも魔王様もすごく馬鹿にして嫌いだったのにーーーーどうして、人間と喧嘩しちゃっただけで、私はこんなに苦しいの!?」


「ケルちゃん……」


「ケルさん……」


「分かんない……私分かんないよぉ魔王様……。人間なんて……人間なんて……嫌いだったはずなのに、どうしてあんなに優しくするの? ……私、いっぱい食べちゃったのに……」


 悲痛。

 そんな言葉が今の彼女を表している。


(俺の所為だ……)


 多分、ケルがここまで考え込んで、追い込まれてしまっているのは俺の所為だ。


 魔王時代はケルに『人間は敵だ』と教えてきた。

 弱くて、ずる賢くて、醜くて、哀れで、ケルの食料だとーーーー配下時代、門番のケルはそう学んでいたんだ。


 それが、急に変わった。

 俺からしてみれば十数年。昔の価値観を変えていくには納得出来る時間。


 だけど、ケルにとっては数ヶ月にも満たない出来事なのだ。

 人間は敵ーーーーだけど、ここに来ては人間は味方で絶対に襲ってはならないものだと教えた。

 それは、ここに暮らす生き物が人間で、幸せな日常を送る為に必要だったから。


 ーーーーこの世界の人間に、種族間のこじあいはない。


 だからこそ、向こうの世界で問答無用で襲ってきた人間とは違い、皆ケルに優しくしてくれるのだ。

 勇者であるアリスも、聖女であるセシリアも、敵対していたはずなのに、こうしてひとつ屋根の下で暮らしている。


 戸惑うのも無理はない。

 一時は、優しくしてもらった日々が楽しいと感じ、嬉しいと感じていてもーーーーその関係が壊れてしまえば、『未知』になる。


 昔であれば、嫌われても良かったのだ。

 その代わり『喰え』ば良かったのだから。


 でも、今は違う。

 優しくしてくれて、仲良くしたくて、関係を壊したくなくて、それでも壊してしまってーーーー故に、ケルの中ではパニックが起こっている。


 それは仕方ないのだ。

 ケルはまだ子供だし、俺が無理やり価値観を変えさせてしまったんだ。

 ……ケルの幸せが、ここにあると信じて。


「私、もう分かんないよ……っ!」


 大きな叫びを残し、ケルはランドセルを抱えた状態で玄関を飛び出していった。


 呼び止める言葉も無し。

 ただただ、俺もアリスもセシリアもーーーーケルのその悲壮な姿に戸惑っていた。


「ケルさん……」


「ど、どうしよう……」


 アリスとセシリアはいなくなった玄関先に声を漏らす。

 不安と焦燥が入り混じったその声は、かつて敵対していた者同士とは思えないほど、心配そうに聞こえた。


(やっちまった……)


 目から零れそうな涙を堪えて、俺は天を仰ぐ。


 ーーーー何処かで。


 心配心配と言っておきながら、ケルなら大丈夫だろうと思っていた。

 アリスと俺が種族間のいざこざを無くしたように。セシリアが新しい世界に馴染めたように、ケルもきっとこの世界で上手くやっていけるーーーーそう思い込んでいたんだ。


 それが……甘かった……。


(違った……俺は、大バカ野郎だ)


 叶うなら、昔に戻って今の俺ごと張り倒してやりたい。


 だってそうだろ……ケルは、まだ子供なんだ。

 寂しさに涙を流すような……純粋な女の子なんだ。


 俺はケルを幸せにすると言っておいてーーーーこの現実だ。

 あぁ……もう、ケルが泣いちまっただろうが……っ!


「……ケルっ!」


「クロちゃん!?」


「楓さん!?」


 俺は拳を握りしめ、玄関を飛び出した。

 後ろからアリスとセシリアの声が聞こえたが、構わず無視して靴も履かないまま外に出る。


 ケルを追わないといけない。

 泣いているケルを見つけないといけないんだ。


 この世界でケルと再開した時ーーーー


 もう、離れたりしてはいけないのだと!

 ずっと傍にいるのだと!


(そう誓ったじゃねぇか!!!)



 頼む……ケル!


 頼むから、俺が行くまで

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