愛について語るときに我々の語ること。容疑者xの献身。
2021年1月1日。
ふと思い立って久しぶりに『容疑者xの献身』の映画を観た。
僕の容疑者xの献身との出会いはハードカバーで小説が発売されたときだった。
当時はガリレオシリーズはおろか、東野圭吾の名前などほとんど知らずに一冊の単発モノと思って読んでいたのだが、トリックはもちろん、人を愛するということがどういうことなのかというテーマに僕はとてつもなく衝撃を受けたのを今でも覚えている。
ちなみにこの本を僕は本格ミステリとして認めていない。発売当時も議論はあり、多くの作家が本格という立場を取り議論は収束したのだが、僕はいまだにこのスタンスを取っている。
ノックスの十戒がどうだとか古臭いことは言わないが、トリックの核の部分が作者により意図的に伏せられていること。そしてなにより作者である東野圭吾自身が本格と明言していないことが一番の理由だ。
イタリアンシェフが生魚を使った料理をカルパッチョと称してして提供しているように、(本来カルパッチョは生の肉を使う料理である)東野圭吾自身が、この小説を本格ミステリとして提供しているなら、僕はこれを本格として受け止めただろう。
例え白飯に生卵と醤油をぶっかけた料理でも、イタリアンシェフがこれはイタリアンだと信念を持って提供するならば、それはイタリアンになり得るのだ。しかし、当の本人が読み手に委ねると言っている以上、僕にとってこれは本格ではないと言わざるを得ない。
だからと言ってその区別が作品にどれほどの影響を及ぼすかといえば、特に重要な要素ではない。
容疑者xの献身はストーリー、心理描写、展開、どれをとっても素晴らしく、エンタメ小説として最高峰であるという僕の中の評価は揺るぎないし、小説はもちろん映画版も堤真一、松雪泰子の演技が神がかっていて結末は何度見ても泣いてしまう。そこだけ見ても泣く。
もし、まだ観たことのない人がいたら動画配信サービスで見て欲しい。
さて、話がずれてしまったが、容疑者xの献身ではトリックは暴かれ謎は解かれ、一応の完結はみるのだが、もうひとつのテーマである愛について明確な結論は示されていない。
突然だが僕はいま、人を愛している。
人を愛するとはどういうことなのか。それはただの脳内物質の分泌による刺激というだけではないはずだ。それだけで我々は見返りの無い献身性を発揮できるとは思わない。
そして、それが叶わないと分かっていても人は人を愛し続けられるだろうか。いや、そもそもそれすら問題ではないのかもしれない。
ネタバレになるので詳しくは書かないが、(十年以上も前の本にネタバレもクソもないかもしれないが)もう一度観返した今だからこそ、僕はこの物語のもう一人の主人公である石神という人間に深い共感と、そしてそれ以上の尊敬の念さえ抱いてしまうのである。
いい歳してなにを幼稚なことを。と思った人はぜひ続きを読んでもらいたい。
「この話を聞いたら僕らはみんな恥入ってしかるべきなんだ。こういう風に愛についてしゃべっているときに自分が何をしゃべっているか承知しているというような偉そうな顔をしてしゃべっていることについてね」
まったくその通り。
そして僕はもちろんのこと、これを読んだキミもこの言葉を刻んでおくべきだ。
誰かに恋をしているとき、人は感情的になり得てして周りが見えなくなるものである。その結果、自分でも思いもよらない――思い返せば恥ずかしい言動をとってしまうことは誰しも経験があるだろう。しかし、そのことについて誰かを嘲笑したりすることは出来ないのだ。
なぜなら、愛について語るとき、『僕らはみんな愛の初心者みたいに見える』のだから。
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