私の上手な殺し方。言語化されない世界。
なぜ私は私なのか。
意識の超難問と言われるこの問いに、哲学者でも研究者でもない私が皆さんに納得できるほどの理論と説明を展開出来るとは思わない。
しかし、あまりにも当たり前であり答えのない(今のところ)この問いに、誰もがなにかしらの折り合いをつけて生きていることもまた確かである。
そこで、長くない人生と深くない経験で私自身の今のところの折り合いの付け方をメモ程度に書いておこうと思う。
私がこの問いについて話すにあたり、まずクオリアについて話さなければならない。
これは私の幼少期の経験に由来するものだ。
私には小学生のとき耳の聞こえが悪いクラスメイトがいた。仮にA君としよう。
A君は耳の聞こえが悪いだけでそれ以外は健常者と同じであるため、通常の一般学級に通っていた。座学はいまいちだったがスポーツは得意で普段から明るい性格だったたためクラスで孤立することはなかったが、クラスメイトに気を使われていたことも確かである。
なぜなら、A君の話し方には特徴があった。
彼はどもった(これが差別用語なのか分からないがその意図はないことを説明しておく)話し方をするのだ。その話し方のせいでクラスメイトは彼と同じような話し方で話しかけていたし(これはまったく意味のない行為だったのだが当時の我々にとっては知る由もなかった)、初対面の人には精神的な障害を持っていると勘違いされることもあった。
私はA君と話すときいつも疑問に思っていた。耳以外は健康なのになぜそんな話し方なのか。
そして、その理由に初めて気が付いたとき、私は目の覚めるような思いだった。
A君にはみんなの言葉が自分が話しているように聞こえているのだ。
私たちは子供の時に耳から聞いた音を言葉として理解し、やがてそれを真似て言葉を話すことを覚える。
先天的に耳の聞こえが悪かったA君は話し方がおかしいのではない。彼には世界の音がそう聞こえていただけなのだ。そしてそれを何の疑いもなく真似て話し方を覚えたのだ。
このことに気が付いたときから私は、私が聴いている音は果たして他人が聴いている音と同じなのか、私が見ている色は他人が見ている色と同じなのか、私が感じている感覚全てにおいてそれは他人が感じているものと同質のものなのか考えるようになった。
これは当時の私にとって非常に恐ろしいことだった。
私が青として認識しているアオ色は他人が見ているアオ色は違うかもしれない。
我々が当たり前の前提として共有し疑問にすることさえもない世界のカタチ。それが足下から崩れていくようだった。
そして、この問題はおそらく一生解決することがないと気づいたからだ。
A君が自分の話し方をおかしいと思わなかったように。そしてもし、おかしいと言われてもなにがどうおかしいのか、A君には(おそらく)一生分からないだろう。
これはA君だけの問題ではなく、私が見ているアオは私にとってのアオでしかなく、私のセカイは私だけで完結しており、我々はただ言葉を共有していたに過ぎなかったのだ。
人間は感覚を共有出来ないのだと知ったとき、それは私にとって完全なる個というものを同時に認識した瞬間だった。
それ以来、私の中に『なぜ私は私なのか』という問いが立ち上がってきたのだった。
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