こんな思いをするのなら花や草に生まれたかった(2017/10/24 12:27)
これはとある決して世間からは日の目を見ないコミュニティに属する現代のネット詩人が残した言葉である。
その経緯と当時の状況において生まれた数々の詩は客観的立場から見れば嘲笑ものであり、これから先もネタとして消費されるべき運命であろうが、個人的に一人の人間として彼らの感情を慮れば、その悲しみがひしひしと伝わってくる、悲嘆にくれた心を的確に表現した魂を揺さぶる名言である。
大好きだったもの、信頼していたもの、深い想いを抱いていたものにその想いと相反する行為を受けたときの絶望に打ちひしがれる気持ちは誰だって少しは理解できるはずだ。たとえそれが頭の中で勝手に作り上げた偶像を一方的に盲信していた結果だとしても。
まぁ、だからこそこのケースにおいては、ほんとんど同情されることのない嘲笑の対象になるのだろうが。
しょせんは他人に必要以上の期待や希望を抱いて、その言動に一喜一憂するのはもうやめようではないか。
自分に言い聞かせるためにも、今ここではっきりとそう言葉にしておく必要がある。
君は君の、そして彼は彼の、彼女は彼女の意志と感情で動いている。その行動原理はこれまでの人生経験で作り上げられたものであり、そこに矛盾や間違いだと思える行為、考え方の違いがあったとしても、社会的、職業的モラル、人としての倫理規範から逸脱していない限りは誰も責めることなどできないのだ。たとえそれが君や僕の望んだものでなかったとしても。
見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞き、都合のいい解釈で世界を構築し、自分の言いたいことだけを話す。程度の差はあれど人は皆そうやって生きている。
そこに齟齬が生じるのはいわば必然であり、そのことで諍いや失望、虚しさを覚えることに僕はもういい加減うんざりしている。
そしてその世界の差が大きければ大きいほど、僕が何かを言ったところでその言葉は決して響くことはなく、失意や不満を示したところで何の影響も与えはしない。ただただむなしいだけだ。
そんなことに自分の感情を左右されるくらいならば、それこそ花や草に生まれるべきだったのだ。それがたとえ三日の命だったとしても。
ただ一つ、誰かに対して言えることがあるならば、あまり自分の世界を、その成り立ちを軽々しく言葉にしないことだ。それも綺麗な言葉で取り繕って。
「あまり強い言葉を遣うなよ。弱く見えるぞ」ならぬ、
「あまり綺麗な言葉を遣うなよ。みすぼらしく見えるぞ」といったところか。
つまり、こんなブログを書いている僕こそが最もみすぼらしく、そして愚かであるということだ。
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