揺れる想い

 次の客は、スラっとした体型で、紺のスーツを身に纏った30代前半ぐらいの男性だ。この男は、勢い良く扉を開け入ってきた。


「ここはどこなんだ、俺は確かに海に身を投げた。なんで、周りは真っ白なんだ。」

「まぁまぁ、お客様、こちらに座って気を落ち着かせてください。」


 マスターは優しく男に声をかける。男は錯乱しているのか、呼吸が荒く、店内を見渡すように何度も首を振っている。


「ここがどこかはあなたが落ち着いたらお話ししますよ。」


 ゆっくりと男の背中に手を当て、カウンターの方へ導いた。手を添えられたからか、男の呼吸は、落ち着きを取り戻しかけているが、席についても辺りをずっと見回す。


「こちらをお飲みください。特製のハーブティーです。」


 男は初め困惑していたが、カップに手をかけ飲み始めた。次第に男の呼吸は落ち着き、男の視線はカップに注がれていた。


「あなたのお名前をお教え願えますか?」

早乙女慶太さおとめ けいた。」

「早乙女さん、ここは~」


 男が落ち着くのを見計らって、マスターは名前を聞き、ここがどこなのかを説明した。それを聞いた男の表情は安堵したようにも見える。


「早乙女さんは、どうして海に身を投げたのですか?」

「言いたくない・・・。」

「どうしてもですか?」

「あぁ・・・。」

「では、私が代わりにお話ししましょう。」


 男はカップに向けていた視線をマスターに移す。私も、マスターの方に目をやる。マスターが代わりに話すとはいかなることかと思った。


「ここは現世とあの世の境目です。ですから、ここに来る方の現世での振る舞いはすべてわかるのです。」


 それを早く言ってほしかった。わざわざ思い出したくもないことを思い出しながら話す必要はなかった。男はまだ、何も言わない。マスターに向けた視線もまた、カップの底を睨んでいた。


「早乙女さん、貴方は同時に二人の女性恋したのですね?」


 浮気か、不倫か、どちらにしろなんてひどい奴だと思う。たった一人の人も愛せないなんて、なんておろかで浅はかなのだと。いや、きっともう片一方には愛情なんてものは持っていないだろう。


 「貴方には、付き合って5年になる彼女がいた。職場で出会った女性ですね?」


 男は、ピクリともしない。それでも、マスターは話を続ける。


「ところが、貴方は出逢ってしまった。いえ、再会したという方が正しいでしょうか。」

「あぁ、そうだ。俺は、昔好きだった幼馴染みにばったり再会しちまったんだ。」


 ようやく、男の口が開いた。これを皮切りに、男はまるで心の堤防が決壊したように、話し始めた。

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