後悔・・・
マスターは何も言わずにカップを差し出す。カップからは湯気が立っている。そっと口に持っていく。おいしい、苦い、酸味が強い、そんな感想よりも、ただ温かいと思う。もちろん、淹れたてなので、温かいのは当たり前なのだが、そういう感覚ではない。心が温まるということだ。
「お済ですか?」
「あっ、はい。美味しかったです。」
マスターは、ただにこりと笑い、カップを下げた。そして、この世界のことについて話してくれた。
「ここは、現世とあの世の境目にあります。ここを訪れる人は、皆さん、自分で自分の命を絶たれた方です。残念ながら、自死を選んだ方は須くあの世にて、地獄行きとなります。ですが、様々な強い悩みを持たれたまま地獄に行かせることは忍びないということで、その悩みを少しでも軽くするためにこの喫茶店が存在します。そして、私は悩み引受人というわけです。」
とりあえず自分が死んだことはわかった。自分がこれから地獄に行くことも。
「まずはあなたのお名前をお聞きしましょうか。」
「
「代永さん、それでは死を選ばれた理由について、お話頂けますか。」
「あっ、はい。」
今まで、自分の身に起きたことについて話した。
私は、東京の名門私立大学を卒業し、大手電機メーカーに就職した。今年で、入社5年目になる。最初の3年間は上司にも恵まれ、何不自由なく社会人生活を満喫していた。状況が変わったのは、初めての人事異動で、工場勤務になった時だ。工場長は、本社からの社員だったが、現場の責任者はたたき上げの人だ。この責任者がパワハラの元凶、この人のせいで人生は大きく変わってしまった。
はじめの頃は、ただ厳しい人と思っていたが、そういうわけではなかった。どうやら、本社から来る人間をよく思っていないらしく、新しい社員がやってくる度に、パワハラを繰り返しているようだった。スケジュールとして無理な仕事を押し付けてきては、無理だと言えば、他の社員の前で罵声を浴びせる。挙句の果てには、自分のミスを僕に押し付けて、人事評価を下げさせた。何度か、本社に掛け合ったが、対処をしてもらうことは出来なかった。今まで、比較的順風満帆だった人生を歩んできた僕にとって、このパワハラは耐え難いものだった。
追い打ちをかけるように付き合っていた彼女に振られてしまった。理由は他に好きな人が出来たから。振られたことよりも、タイミングの悪さが心に響いた。誰も頼れることなく、一人で悩み続ける結果になってしまった。
そして、ついに自分では抱えきれなくなり、無意識的に屋上に上り、そこで死ぬことを決めた。
一通り、話すとマスターはぽつりと呟いた。
「代永さん、死んだこと後悔していませんか?」
”後悔”。そんなことは、考えてもみなかった。屋上に行った時には決意は固まっていたから、もちろんその時は死にたかったと思う。しかし、今死んでみて、どうかと聞かれれば疑問が残る。
「わかりません。死んで良かったと思うことは無いですけど、生きてて良かったと思うこともないので。」
「そうですか。それでは、一つご提案があります。ここで、しばらく待ってみてください。様々な人がここを訪れます。彼らの話を聞き、考え、本当のあなたの気持ちを出してください。」
「はぁ・・・」
行く先は地獄と決まっているから、急ぐ話でもない。マスターの話に乗り、店内でしばらく待つことにした。
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