ねじれた時空において、ときに歴史は逆行する

「この狂った時空は」

と、青白い水槽の向こうでハルが言った。

「すべて君が作り出したのさ、ジョシュア。殺人を犯した君は、その事実を変えようと、時間迷宮の館を訪れた。だが、何度繰り返しても、誰かが死んでしまう。君は仕方なく未来へ行き、バイオアンドロイドの研究をしていたジル博士に依頼して、彼らを生き返らせることにした。このように」

 ハルは軽く両手を広げ、並んだ水槽を示した。

「時間管理局に捕らえられたグウィネヴィアは、中世へ行き、歴史を変えた。そして、キメラたちが飛び交うパラレルワールドが生み出された――その世界は、私たちの世界の裏側で同じ様に時を刻んでいった。そしてとうとう十九世紀のある日、二つの世界が交差した。君も覚えているだろう?ラーンスロットとグロリアがロンドンの酒場に現れた夜のことを」

「グロリア……!」

 ジェントルマーン!と呼ぶ、高い声がジョシュアの脳裏に蘇った。

 天馬ペガススに跨ったラーンスロット。双頭の犬の化け物。夜空を覆う、甲冑を纏った巨大な猛禽。見慣れたロンドンが一瞬で変貌したあの夜。

「あの時空にいた幻獣たちは皆、もとを辿ればジル博士の研究で生まれたバイオアンドロイド・キメラだ。未来から中世へ渡った彼らが、この狂った時空――カオスフィールドを生み出した――そう、すべて逆だったんだよ、君が辿った道、すべてが」

 びちゃ、ずちゃ、と音がして、振り返ったジョシュアの目が、床を這う獣の姿を捉えた。

「ひっ――!」

 その姿の醜悪さに、ジョシュアは思わず後退あとじさる。長い胴体についた、短い足。黒く濡れそぼった体毛。ワニのように大きな口が鋭い歯を剥いて、低い唸り声を発している。

 二歩、三歩と下がって、背中がガラスに当たった。

 そのとき、ジョシュアの背後、青白い水槽の中で――ジャックの瞳が、開いた――。


「ゔああああ!!」

 言葉にならない叫びを発して、ジョシュアは転がるように走った。

 ドアを開けて、廊下へ飛び出す。と、そこには、黒いマントを纏った銀髪の妖獣使いが、手負いの獣を従えて、幽鬼のように立っていた。魔犬の三つある頭のひとつは切り落とされ、切り口から血が滴り落ちている。

「シモン――!」

 牙を剥いて飛びかかってきた犬をすんでのところでかわし、ジョシュアは無我夢中で長い廊下を走った。だが階下へ降りる階段まで辿り着く前に、生臭い息遣いをすぐ背後に感じて、ジョシュアはとっさに目の前の部屋へと飛び込んでドアを閉めた。

「あっ……!?」

 その部屋には見覚えがあった。二階分ほどもある高い天井、大きな窓には金の房のついたカーテンがかかり、ロココ調の家具や調度品が揃えられ――。

「ここは……最初にこの館に来たときに通された部屋だ……」

 だが、様子がまるで違っていた。真紅のカーテンはすっかり色あせ、ひびの入った窓ガラスの割れ目から吹き込む風に、力なくはためいている。磨き込まれていた家具は輝きを失い、花柄のクッションはネズミに齧られて無残に綿がはみ出している。豪華だったシャンデリアは煤けて傾き、蜘蛛の巣が掛かっている。壁に掛けられた鏡は曇り、真鍮のノブは錆びつき、絨毯は擦り切れて床板がむき出しになっている。

「まるで……百年も時が過ぎたかのようだ――どうして……」

 信じられない思いで、ジョシュアは室内を見回した。ティーテーブルの上に、忘れられたようにそれは置いてあった。ジョシュアは何気なくそれを手に取った。

「砂時計……」

 小さなガラスの筒の中を、さらさらと砂が落ち続けている。

 窓の外を稲妻が光り、遅れて雷鳴が聞こえてくる。突然嵐になった。

 部屋が暗くなって、いったい今は何時だろうか、とジョシュアは思った。

「過去の時間旅行の記録を調べていたら、奇妙なことが分かった」

 どこからか声がして振り返ると、いつからそこにいたのか、稲妻を背に長身の男が立っていた。

「君は……確か、ネオ・ホンコンの」

「未来のある時点から、未来から過去を訪れた記録が全く出てこなくなった。恐らく何らかの理由で、ある時、過去への時間旅行が禁止されたか、あるいは時間旅行そのものができなくなったか」

 青みがかった黒髪をかきあげて、長身の男――ミナトは続けた。

「調査を進めるうち、我々は一冊の本を手に入れた。その本――世界近代史概略には、恐ろしい未来が記されていた。はるか未来、地球の資源を食い尽くし、不治の病に冒された人類は、最後に残されたエネルギーをすべて使って過去への時間旅行を決行した。未だ豊穣な大地と透明な海が人類に恵みをもたらしてくれていた時代へと」

 ミナトはゆっくりとジョシュアに近づいてくる。この男は危険だ――と、ジョシュアが逃げ道を探した時、ドアをけたたましく叩く音がした。

「ミスター・エヴァンズ!そこにいるんですね!?もう逃げられませんよ!ミスター・エヴァンズ!!」

 チェスター警部の怒鳴り声がまるで聞こえていないかのように、ミナトは続けた。

「だが、過去への民族大移動は本当の滅亡への序章に過ぎなかった。彼らは未来の技術を過去に持ち込み、歴史と生態系を歪め、結果的にこの星の寿命を縮めてしまう。そして歴史は繰り返される――つまり再び、過去へ還ろうとする。その連鎖だよ。世界近代史概略はそのたびに書き換えられた。そして書き換えられるたびに、人類の悲惨な未来は早まっていった。人間は失敗から何も学びやしない。ぐるぐる、ぐるぐる……同じ場所を回り続けるだけ――やがてその環が己の首を絞めてしまう……」

 暗がりにすうっと白い手が浮かび上がり、銃口がジョシュアに向けられた。

「だから俺は、すべての時空から時間旅行者お前たちを取り除かなければならないのだよ」

「やめろ!」

 銃声がして、ミナトの手から銃が弾け飛んだ。チッ、とミナトが小さく舌打ちをした。

「ハルキ・モーガン……!」

 突如、ミナトとジョシュアの間に出現したハルは、きらきらと時間旅行の光の粒をまとっていた。銃声はハルの銃から発せられたものだった。

「ジョシュア!」

 ハルがジョシュアに駆け寄る。

「なぜ砂時計に触れた!?」

「ハル、いったい何が起きているんだ?ここは――だ?」

「時空が歪んでしまったんだ!この屋敷全体が超次元の空間になっている」

 ジョシュアははっとした。そう、まさにこの部屋で、ハルから説明されたはずではないか。

『時間旅行に旅立つと、砂が落ち始め、砂が落ち終わるまでに帰ってくる。『見張り役』は全員が戻るまで、この砂時計が水平を保つよう見張るんだ。砂時計が水平であれば、もうひとつの砂時計の砂は呼応する。ふたつの砂時計が呼応している限り、旅行者は元の時間に戻ることができる』

「もう遅い――!」

 バリバリバリ……と轟音が響き、近くに雷が落ちた。

 時間迷宮の館は、暗闇に包まれた。

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