時間を巻き戻すことができたとしても、運命の歯車を元にはもどせない
「ジャックは――いなかったんだよ、最初から」
巨大な水槽の青白い光に照らされて、ハルの表情は人形のように冷たい。
「……あんなことをするつもりじゃなかった……ジャック――僕は、殺すつもりなんて」
たまらず両手で顔を覆ったジョシュアに、ハルが囁く。
「思い出したか?ジョシュア、一番最初のあの夜に、君がしたことを」
***
呼び鈴が鳴って、ジョシュアは我に返った。
もうとっくに夜は明けている。通いのメイドが来たのだったら何と言って追い返そうかと考えながら、ジョシュアはドアを開けた。が、そこに立っていたのは、乳母を連れ、パラソルをさした少女だった。
「……シャーロット、なぜ……?」
「おはようお兄さま。たまにはお兄さまとお茶したいと思って。いちじくのケーキを持ってきたわ」
「今日は――ダメだ。頭が痛いんだ」
かすれた声でそう言って、ジョシュアはドアを閉めようとしたが、シャーロットはドアの隙間につま先を滑り込ませた。
「まあ、それは大変だわ!お兄さま、こんな寒いところに立っていないで寝ていなくちゃ!」
「風邪だったらうつすといけない。君は帰って勉強でもしていなさい」
「宿題は終わったし、家庭教師は風邪でお休みよ。あらやだわ、風邪が流行っているのかしら?心配しなくても、お兄さまがちゃんとベッドに入ったら帰るわ」
シャーロットはジョシュアごとドアを押し開けて、強引に家の中へ入った。そのままジョシュアを急き立てて階段を上がる。
「ジャックはどこ?寝間着を出してもらわないと」
三階の寝室にジョシュアを押し込むと、シャーロットはあたりを見回して言った。
「今、いないんだ」
「あらまあ!
「大丈夫だ、ジャックはすぐ戻るし、寝ていれば治るよ。それに、誰とも話したくないんだ……頭が――痛くて」
「……そう?じゃあ、今日は帰るわね、お兄さま。よく寝て、ちゃんと治さなきゃダメよ?」
トントンと階段を降りていく足音を聞いて、ジョシュアがほっと息をついたのもつかの間。
「キャーッ!」
階下から、金切り声が聞こえた。
台所の入り口で、シャーロットは腰を抜かしてへたり込んでいた。
「シャーロット」
ジョシュアが声をかけると、シャーロットはジョシュアにしがみついてきた。その視線の先には――血まみれの、ジャックの死体があった。
玄関には置いておけず、といって自分より体格のいいジャックを担いで階段を上がることなど不可能で、ジョシュアはジャックの亡き骸を地下の台所に移していた。玄関ホールの血はきれいに掃除した。
「ジャックが留守だっていうから、帰る前にお兄さまにお茶を一杯……いれようと……ああ!」
「……だから帰りなさいと言ったのに……」
ジョシュアの腕の中で、シャーロットの全身ががたがたと震えている。
「お兄さま……これは、ジャック……?どうして?」
「さあ、どうしてだろうね……?」
ジョシュアは静かに言った。その言葉の異様さに、シャーロットは兄の顔を見上げた。
「お兄さま……まさか」
ジョシュアは答える代わりに、
「おに……い……さ……」
*
ソフィが手紙を
手紙には、ポーリーンからの謝罪と弁明の言葉が綴られていた。ジャックとはジョシュアが考えているような関係ではないと、そして、もし許してくれるなら、今夜会いたい――と。
ジョシュアが支度をして家を出ると、雨が降り出した。分厚く重苦しい雲がロンドンを覆って、いつもより早く街は暗がりの中に沈んだ。
出迎えたポーリーンは、深い紫色のドレスを着て、髪を美しく結い上げていた。
「ジョシュア……!来てくれたのね。もう会ってくれないかと」
駆け寄ってきたポーリーンを、ジョシュアは冷え切った気持ちで抱きとめた。
「出かけるのか?」
「ええ、パーティーに呼ばれているの。でもその前に、どうしてもあなたに会っておきたくて――ああジョシュア、ひどい顔色だわ」
ポーリーンはジョシュアを部屋に通すと、ソフィにワインとコールドビーフを持ってこさせた。
「飲んで。身体があたたまるわ。それとも少し横になる?」
ジョシュアは渡されたワインを一気にあおった。そのとき、視界の端にポーリーンのベッドが見えた。
喉が、かあっと熱くなった。
「…………」
ジョシュアの声が小さすぎたので、ポーリーンは「え?」と聞き返した。
「きみはそうやって……ジャックのことも誘ったのか?」
こんなことを言うつもりではなかった。だが、一度吹き出した感情は止まらない。
「きみのベッドになんて、寝るものか!――汚らわしい――娼婦が!」
ポーリーンは息を呑み、大きな瞳を見開いた。
「……ひどいことを言うのね」
ポーリーンが悲しげにジョシュアを睨みつけた。ジョシュアはとっさに顔を伏せた。
「ジャックは誠実で優しいわ。あなたはわたしに触れようともしないけれど、彼はこんなわたしでも愛してるって言ってくれるの」
ジョシュアは両手で耳を塞ぎたくなった。ポーリーンの口から、ジャックへの賛辞など聞きたくなかった。
ジャックがどれだけポーリーンに優しかったかなど、なおさら知りたくなかった。
「ねえ?ときどき不安でたまらなくなって、生きているのがどうしようもなく虚しくなるのよ……あなたにわかる?足元から真っ暗な闇に落ちていくような気分が」
「ああ、わからないさ。きみらが男爵家に生まれてしまった僕の立場を理解できないようにね」
ジョシュアは冷たく言い捨てた。
「そんなときにもジャックは全部受け止めてくれるの。ひと晩中、ただ隣に座って抱きしめていてくれたこともあるわ。――それだけよ」
「うそだ!」
ポーリーンと寝たのか、と、ジャックに訊いた。あのときジャックは否定しなかった。
いまさら二人の間になにもなかったなんて信じられないし、信じたくもない。そんなことがあってはならない。
「ほんとうよ、ジョシュア」
「うそだ……きみは――きみたちは、二人して僕を嘲笑っていたんだ!」
そうでなければ、なんのためにジョシュアはジャックを手にかけたのか。
ジョシュアは二人に裏切られていなければならないのだ。でなければ、殺人の正当性が失われてしまう。
「ジョシュア、信じて」
「――信じられるか!娼婦の言葉なんて、この世で一番信じられないものだろう。きみは、そういう女になることを選んだんだ」
ポーリーンの言い分を否定するあまり、心にもないことを言ってしまった――と、ジョシュアが少しだけ後悔したときには、もう遅かった。
ポーリーンの瞳には、もはや悲しみも怒りもなかった。ただ絶望だけが、ゆっくりと彼女の心を呑み込んでいった。
虚ろな表情で、ポーリーンはコールドビーフに添えられたナイフを手に取った。そしてごくなめらかな動作で、ポーリーンは自分の喉を掻き切った。
血液が脈打つように溢れ出て、白磁のような胸元を赤く染めていく。ジョシュアは一瞬、事態を忘れてその様子に見とれた。だが、ポーリーンの最期の言葉が、ジョシュアを奈落に突き落とした。
「ジョシュ……愛してるわ……ずっとずっと前から、あなただけを……」
気がつくと、ジョシュアを乗せた馬車はすっかり暗くなったロンドンの街を走っていた。しとしとと降る雨でガス灯には靄がかかり、街の中をゆるく蛇行して流れるテムズは闇そのもの――。
どこからか鐘の
悪寒が襲ってきて全身が震えだす。視界が血の色で覆われ、カラスの鳴き声の幻聴がする。
「……っ!」
酷い耳鳴りがして、ジョシュアは思わずこめかみを押さえた。
***
「翌朝、ポーリーンを張り込んでいて、きみに疑いを
「これは夢だ……そうだろう?ねえハル、夢だと言ってくれ……」
はやく目覚めなければ。そこがラーンスロットの城でも、ネオ・ホンコンのホテルでも、どこでもいい。このロンドンから、この現実から、水槽の中から恨めしげにこちらを睨んでいる彼らの前から、逃げ出したい。
「残念ながら、事実だよ、これが。あのとき君がここに来たのは、時間を巻き戻すためじゃない。未来へ行くためだ」
時の扉は記憶の扉。
罪を裁きに、地獄の使いがやってくる……。
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